大雨時行その二 泳ぎ比べ
海女小屋から出て来た四人を眺める与太郎。その全興味はお福の行衣姿に全て向けられていました。裾が膝の辺りまでしかなく、しかも胸と腰以外は薄い布の下に白い素肌が見えるようで見えないのです。そのもどかしさが与太郎の興味を更に引き付けるのでした。
「えへへ、やっぱり今日は来て良かったなあ」
「また助平な目でお福を見詰めておるな。仕方のない奴じゃ。それよりも早く水芸を始めぬか。四つの水術を披露すると申しておったじゃろう」
海の近くで育った与太郎にとって、水泳は他人に誇れる唯一の取り柄です。ここで恰好いい姿を見せれば、恵姫も、そしてお福も自分を見直してくれるに違いない、そう思うと俄然ヤル気が出て来ました。
「よ~し、ひと泳ぎしてやるか。あ、その前に聞いておきたいんだけど、みんな泳げるのかな」
「泳ぐ? 海を泳ぐ必要などどこにあるのじゃ。海は走るものじゃ」
島羽の一件で、木切れに乗ってお福と一緒に浮かんでいた姿を思い出した与太郎です。恵姫に関しては海で溺れる心配は必要ないでしょう。
「めぐ様はどうでもいいです。他の人、雁さんはどう?」
「拙者、武士の嗜みとして武芸十八般は心得てござる。水術は立ち泳ぎを得意と致しておりますれば、心配ご無用でござる」
「じゃあ、海に入っても大丈夫だね。毘沙様は……聞くまでもないか、って、ええ!」
毘沙姫の格好を見て驚く与太郎。行衣が小さくて膝も肘も見えているのは仕方ないにしても、背に大剣を括り付けているのです。
「何だ、この格好に不満でもあるのか、与太郎」
「えっと、背中の大剣は置いて行った方がよいのではないでしょうか」
「馬鹿を言うな。これは斎主様から賜った神器。命よりも大切な物だ。姫ならば肌身離さず持ち歩かねばならん。心配するな。海水に浸ろうと錆びたりはせぬ。姫の力によって守られているのだからな」
大剣の心配ではなく、溺れる心配をしているのだと与太郎は言いたかったのですが、毘沙姫の身体能力を考えれば、それは無用な心配というものでしょう。好きにさせておく事にしました。
「えっと、黒様とお福さんはどうかな」
「は~い、泳ぎには全然自信がありません」
「……!♪」
首を横に振っているお福も黒姫同様泳げないようです。この二人には注意が必要でしょう。与太郎は「ちょっと待ってて」と言うと布袋の中から何かを取り出しました。
「黒様とお福さんにはこれが必要だと思って二つ持って来て正解だったよ。黒様、ここに口を当てて息を吹き込んで、そうそう。ふーふー」
与太郎も同様に息を吹き込んでいます。持って来たのは浮き輪でした。これがあれば背の立たない深みに行っても溺れる事はないでしょう。
「よし、準備が出来たら水泳教室の始まりだよ。みんな、まずは準備体操で体を……ちょっと、いきなり入っちゃ駄目だよ」
五人は既に海に向かって駆け出しています。与太郎の声などに耳を貸す者など一人も居ません。山道を下り夏の日差しに照らされてすっかり火照ってしまった体を、一刻も早く冷やしたい五人なのです。
「おー、冷やっこいのう。海水に浸かるのも良きものじゃな」
「そう言えば長らく体を水に晒していないな。少しふやかしていくか」
「拙者の立ち泳ぎをとくとご覧くだされ」
「わ~、これ体が浮いて楽ちんだよ~。波に揺られて眠っちゃいそう」
「……♪」
こうまで楽しそうにはしゃいでいる姿を見せられては文句も言えません。「まあ、いいか」といつもの口癖をつぶやきながら、与太郎自身は屈伸やストレッチで体をほぐしてから海に入りました。
「はーい、それでは皆さん、泳ぎ方を教えますからよく見ていてくださいね。まずはクロールです」
五人が見ている前で与太郎は泳ぎます。自慢するだけあってなかなか達者な泳ぎっぷりです。
「なんじゃ
恵姫は体の左半分を海に沈め片手で頭を支えて浮いています。座敷で寝っ転がっているのと同じ姿勢です。少し姫の力を使っているのでしょう。
「次は平泳ぎだよ~、頭は水の上に出しっぱなしでもいいよ~」
「ぎゃははは、まるで蛙ではないか。いや、そんなぎこちない泳ぎで蛙などと言っては蛙が気を悪くするのう。その遅さでは亀泳ぎ、いや、それでは亀が気を悪くするか、う~む」
「次は背泳ぎだよ~、息継ぎしなくていいから楽チン!」
「おいおい、寝ながら泳ぐとはなんという横着なやり方じゃ。それでは本当に眠ってしまうではないか」
「最後はバタフライね。これはちょっと難しいかも」
「ほほう、足の動きが海豚、いや、むしろ鯨か。むむむ、その足にかぶりつきたくなってきたわい、じゅる」
どうあっても与太郎の泳ぎ方に難癖付けたい恵姫です。別に恵姫の感想などは聞きたくもない与太郎ですが、声が大きいので嫌でも耳に入って来ます。得意の泳ぎを
「めぐ様、文句ばっかり言っているけど本当は泳いだ事なんてないんでしょ。姫の力だっていつでも使えるとは限らないんだよ。力に頼らずに泳げる方法を身に着けておいた方がいいんじゃないかな」
「ほほう、家来の癖に言うではないか、与太郎」
恵姫は体を海に沈めました。姫の力を解除し、立ち泳ぎをしているようです。
「海を揺り籠代わりにして育ったわらわが泳ぎを知らぬじゃと。お主が今見せた四つの泳術など完全に覚えてしまったわ。その中でも最速の泳法はくろーるとか申すもの、そうであろう」
見事に言い当てられて若干怯む与太郎。しかしここで弱気にはなれません。
「そ、そんなの僕の泳ぎを見ていたら誰にでも分かるよ。大事なのは泳げるかどうかって事だよ」
「ふっ、わらわを甘く見るでない。あのような泳法一度見れば十分じゃ。嘘だと思うならわらわと競うてみるか」
恵姫の口元には不敵な笑みが浮かんでいます。空威張りなのか本気なのか分かりませんが、得意の水泳で引き下がるわけにはいきません。
「い、いいよ。やってやろうじゃないか。沖に向かって泳ぐと危ないから浜と水平に泳ごう。黒様、半町ほど先に行って浮いていてくれませんか」
「は~い、お安い御用だよ~」
黒姫は浮き輪に身を入れたまま浜に沿って泳いでいきます。ほどほどの距離まで行ったところでこちらを向いて手を振りました。
「あそこまで泳いで行って黒様を回ってまたここへ戻って来る。早く着いた方が勝ちだ。言っておくけど姫の力を使わずに泳ぐんだよ。分かってるね」
「くどいのう。今でも力を使わずに浮いておるのじゃぞ。わらわの泳ぎ、見せてやるわい」
睨み合う与太郎と恵姫。合図は雁四郎が受け持つ事になりました。
「両者とも用意はよいでござるか。されば……始め!」
勢いよく泳ぎ出す二人。どちらもクロール、そして出だしは明らかに与太郎が優位に立っています。
『ふふ、めぐ様はやっぱり口だけか。これでも小学生の頃は水泳教室に通っていたんだからね。江戸時代の泳ぎが近代泳法に敵うはずがないのさ』
与太郎はもう勝ったつもりでいました。なにしろ恵姫は行衣を着て泳いでいるのです。水の抵抗が大きくなる事を考えれば、それだけで大きな足枷となります。おまけに背中まである長い髪も早く泳ぐには邪魔になるでしょう。どう考えても負ける要素がないのです。与太郎が慢心するのも致し方のない事でした。
「……あれ?」
後ろにいたはずの恵姫がいつの間にか並んで泳いでいます。そしてじわじわと前に進んでいきます。更にその距離はどんどん広がっていきます。
「馬鹿な、そんな馬鹿な!」
思い掛けない事態に遭遇し、心ならずも腕と足に力が入ってしまう与太郎ではありました。
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