第三十六話 たいう ときどきふる
大雨時行その一 昨日の出来事
本日は六月晦日、丁度一年の半分が過ぎたことになります。今日の間渡矢の空は昼前から一面に灰色の雲が広がっています。その曇天の下、恵姫たち五人は西へ向かって歩いていました。
「昨日は遊びすぎたのう。今朝はいつもの朝釣りにも行かず飯まで眠りこけてしまったわい」
「あたしもあんなに遊んだのは久し振りだよ~。三百年後の人たちって、与太ちゃんみたいに遊んでばかりいるのかなあ」
「与太郎は武士としての仕官を諦め、おふうと同じく女中としての奉公を目指すそうだな。せっかく鍛えてやったのに情けない」
「それもまた仕方ないのでしょう。三百年の後の世では毘沙姫様のような強きおなごが剣を取り、与太郎殿のような心優しきおのこが飯を作る、それが当たり前の世なのでしょうな。これから与太郎殿に稽古を付けるのは拙者や毘沙姫様ではなくお福様となりましょう。短かったとはいえ我が弟子でござる。お福様、よろしく面倒を見てやってくだされ」
「……!」
話は昨日やって来た与太郎の事で持ち切りです。五人は乾神社へ向かう海沿いの道を歩きながら、昨日の出来事を思い浮かべるのでした。
* * *
下着着用の一件がひとまず片付いたところで、ようやく東の浜へ遊びに行く事になりました。海で泳ぐと言い出した与太郎に付いて行くのは恵姫、黒姫、毘沙姫、雁四郎、それにお福です。
お福は女中としての務めもあるので一旦は断ったのですが、与太郎との約束を守れなかったせめてもの罪滅ぼしに、磯島から「一緒に行って遊んであげなさい」と言われたため同行する事になったのです。
「えへへ、お福さんと海水浴ができるのなら全てを許しますよ、めぐ様、磯島さん」
実に単純です。全ての男がこれ程脳天気な頭しか持っていなかったなら、世の中は随分と平和になるのにな、と思う毘沙姫でした。
「でもお福さんって思ったより長い髪なんだね。ちょっとびっくりしちゃったよ」
奥御殿を出て歩き始めても与太郎はお福ばかりを見ています。実はお福を見ているのは与太郎だけではなく他の四人も同じでした。お福は髷を解いていたのです。海に入るという事で髪に簪や櫛をつけたままでは流さてしまうかもしれない、それならいっそ髷を解いて紐で束ねた方がよいとの磯島の判断によるものでした。
「うむ、髷を解いたお福もなかなか可愛らしいではないか。髪の長さもわらわと大差ないのじゃな」
背中の中ほどまである髪を、恵姫と同じように紐で縛っているお福は、与太郎以外の者にとっても初めて見る姿です。そこにはいつもお役目に振り回されている女中の堅苦しさはなく、年頃の娘の女らしさに溢れていました。
「えへへ、この姿を見られただけでも、今日来た甲斐があったよ」
「おい、与太郎、お福に近付くでない。お主は雁四郎と共に先頭を歩け。その様に下心に満ちた目で眺められては、お福が気味悪がるであろう」
恵姫に言われて渋々雁四郎と並んで歩く与太郎。しかし、浜に着けば幾らでも眺められるのです。ここは辛抱のしどころでしょう。
六人は東の木戸口から城の外へ出ると浜に向かって下り始めました。並んで歩く雁四郎が与太郎に話し掛けます。
「それにしてもいきなり叫び声が聞こえて来た時は驚きました。もしや物の怪の類が出現して咆哮しているのではないかと、あやうく刀を抜きそうになったほどです。まさか磯島様の腰巻姿を見た与太郎殿の悲鳴であったとは。人は普段見慣れぬモノに遭遇すると、言葉を忘れた獣のような声を発するものなのですなあ」
「ごめん、雁さん。その話は二度と、と言うか、永遠にしないでくれるかな」
与太郎にとってあの出来事は既に過去の物、決して触れていけない黒歴史として記憶の奥底に仕舞い込まれているのです。
「ところで雁さん、めぐ様たちは行衣で海に入るらしいんだけど、雁さんはどうするの。何も持って来ていないけど」
「幼き頃より夏は川に入り褌一丁で水遊びをしておりました。されば海でも褌で不都合はないでござろう」
雁四郎にそう言われた与太郎は、褌一丁で暴れまくる自分の時代のお祭りを思い出しました。考えてみれば与太郎の世でも褌は健在です。祭りだけでなく相撲の力士たちのまわし、たまに行くスーパー銭湯で時々見掛ける褌のおじさん。褌は三百年後でも立派に現役で頑張っている装束のひとつと言えましょう。
「褌かあ、締めたことないけどちょっと憧れるかもね」
「ならば拙者の褌を貸してもよいでござるよ」
「いえ、遠慮します」
女子が身に着けた行衣なら頼んででも着たいところですが、さすがに雁四郎の褌を履きたいとは思えません。残念そうな顔をする雁四郎に代わって、二人の話を聞いていた恵姫がしゃしゃり出てきました。
「褌でなければ何を身に着けて海に入るのじゃ、与太郎。よもや素っ裸で入るのではなかろうな」
「まさか。僕らの時代には海パンっていって男子専用の水着があるんですよ。まあ、この時代でいう半股引みたいな物だけどね」
「また股引か。お主の時代では股引が引く手あまたじゃのう。なにしろ股引の上に股引を履くくらいじゃからな」
恵姫の言葉だけを聞けば、それは確かに不思議な着こなしに思えました。どんなに暑く蒸れるような気温の時でさえ、与太郎の時代の男たちはパンツとズボンという股引を重ね履きし、足は靴下という袋で覆い、風の通らない革の靴を履き、時には首を紐で絞めて、毎日働きに出ているのです。
それに比べればこの時代の夏の装束は季節によく合っていると思えました。雁四郎は素肌に麻の帷子、下は褌に袴、素足に草履という出で立ち。城に勤める装束でありながら見るからに涼しそうです。与太郎自身もTシャツ、半ズボン、サンダルという軽い服装をしているのですが、例えばどこかの会社に就職してこの格好で出勤するとなると、かなりのひんしゅくを買いそうです。
「日本の夏にはやっぱり和服が一番合っているのかもしれないなあ」
そんな事を考えながら山道を下って行く与太郎なのでありました。
やがて一行は浜に着きました。最初にしたのは砂に穴を掘り、海水を入れてスイカを冷やす事です。多少は冷えていないと美味しくありませんからね。
「では、わらわたちは海女小屋にて着替えてくるゆえ、しばらくここで待っておれ」
浜に着いた恵姫はそう言うと、他の三人と共に一段高い所に作られている海女小屋へと向かいました。残された男二人は特に誰か見ている訳でもないのでその場で着物を脱いで雁四郎は褌姿に、与太郎は海パン姿になります。やがて海女小屋から四人が出てきました。
「おおっ、薄い!」
着替え終わった姿を見た与太郎は小声で歓喜の叫びを上げていました。四人が来ている行衣が予想以上に薄手の布だったのです。これは水に濡れれば透けてしまう事間違いなしです。が、
「あれ、下に何か着てる?」
胸と腰の辺りだけ白い色が濃くなっているのです。食い入るように見詰める与太郎の視線に気付いた恵姫が言いました。
「おい、与太郎、何じゃその目付きは。お主の魂胆などお見通しじゃ。皆、胸にさらしを巻き、下には半股引を履いておる。残念じゃったな。ははは」
「めぐちゃんはさらしを巻く必要はないって言ったんだけどね~」
「おい、黒。久しぶりに何か喋ったと思ったらそれか。仏の顔も三度じゃ。此度は許すが次に申したらどうなるか、分かっておるな」
「は~い、もう言いませんよ~」
たとえ濡れて透けたとしても、見えるのはさらしと股引だけと分かり、少々意気消沈してしまいましたが、それでもいつもとは違うお福の姿が見られて大満足の与太郎ではありました。
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