大雨時行その三 自然の愛

 与太郎には今起こっている事が信じられませんでした。三百年前の少女に、しかも衣服を着て髪を水になびかせて泳いでいる少女に、近代泳法を身に着けた自分が後れを取っているのです。与太郎は前を泳ぐ恵姫の姿をじっと見詰めました。


「めぐ様のあのフォーム、完璧だ……」


 恵姫はクロールで泳いでいます。この時代の日本にはなかった泳ぎ方のはずです。それなのに腕の振りも、バタ足も、息継ぎの仕方まで、まるで五輪の選手さながらに完成された動きを見せているのです。


「さっき僕が見せた数分の泳ぎで、もうあれだけマスターしてしまったんだろうか」


 既に追いつく事すら諦めて恵姫の泳ぎを見るだけの与太郎。更に驚くべき事が起こりました。今度は平泳ぎを始めたのです。しかも与太郎がやらなかった、頭を完全に水中へ沈めるウェイブ泳法で泳いでいます。


「与太ちゃ~ん、頑張れ、頑張れ!」


 黒姫の声が聞こえてきました。間もなく折り返しですが、恵姫は既にこちらに向かって来ています。


「口ほどにもないのう、与太郎よ。どれ、少しのんびり行くか」


 今度は背泳ぎを始めました。これも完璧なフォームです。この時点で与太郎は自分の負けを認めざるを得ませんでした。


「やっぱりめぐちゃんは海に入ると人が変わるねえ~」


 呑気にプカプカ浮いている黒姫をぐるりと回り、三人が待つ出発地点を向くと、バタフライで泳いでいる恵姫の後姿が見えました。日頃、座敷でウミウシのようにゴロゴロしている怠惰な面影は微塵もありません。豪快なその泳ぎはまるで意気盛んな若鯱のようです。


「あんな短時間でここまで泳げるようになるなんて……凄すぎるよ」


 恵姫が最初から四つの泳法を知っていたとは思えません。与太郎の泳ぎを見て覚えたのです。その人並み外れた習得能力は与太郎の予想を遥かに凌駕するものでした。負けても悔いなし、与太郎は改めてそう思いました。


「与太郎殿、お疲れさま」


 ようやく三人の元にたどり着いた与太郎を、雁四郎が迎えてくれました。恵姫は最初と同じように体の左半分を海に沈めて寝転ぶように浮いています。


「泳ぎが得意とか申しておったがこの程度とはのう。これからは相手をよく見て大口を叩くのじゃな」

「はい。今回は僕の完敗です。めぐ様の泳ぎ、尊敬に値します」

「そうじゃろう、そうじゃろう、はっはっは」


 与太郎は恵姫に深々と頭を下げると浜へ上がりました。全力で泳いで疲れたので、少し休憩したかったのです。両足を曲げ、両手を後ろについて乱れた息を整えていると、雁四郎と毘沙姫がやって来ました。


「与太郎殿、負けはしたものの見事な泳ぎでした。恵姫様以外にあれ程の速さで泳げる者は見た事がござらぬ。大した実力とお見受け致す」

「ありがとう、雁さん。僕もめぐ様の力を少し見くびっていたよ。まだまだ修行が足りないね」

「いや、与太郎。それほど卑下する事はない。海だから負けたのだ。池や川なら恵は満足に泳げぬからな」


 毘沙姫は与太郎の隣に腰を下ろしました。どこから持って来たのか吸筒を口に当てて飲んでいます。


「海だからって……どういう意味ですか毘沙様?」

「斎主様より神器を賜るほど力のある姫は、皆、各々の能力に見合った自然に愛される。恵は海に愛されている、だから海が助けてくれるのだ」

「でも、それは姫の力を使うって事でしょう。さっきのめぐ様は力を使っていなかったのに速く泳げたんだよ」

「力を使わずとも助けてくれるのだ。こう泳ぎたい、速く泳ぎたい、恵がそう願うだけで海はその想いを受け止め、手を足を体を、その通りに動かしてくれる。だからあれだけの泳ぎができたのだ」

「ほう。それは拙者も初耳でございます」


 雁四郎も与太郎の隣に腰を下ろし毘沙姫の話を聞いています。与太郎は俄かには信じられませんでした。自然が愛してくれる……まるで童話のような話です。


「じゃあ、毘沙様も黒様も自然に愛されているんですか?」

「そうだ。私が姫の力を使わずとも人並み外れた技を繰り出せるのは、地の力に愛されているが為。剣を素早く振りたいと願えば剣を軽くし、高く飛びたいと願えば私の体を軽くしてくれる。地の力が私を愛してくれるからだ。黒は獣に愛されている。ゆえに力を使わずともある程度までなら心が通い合う。姫の力とは己へ向けられた自然の愛を、最大限に引き出す業と考えてもよいだろうな」


 与太郎は海を見ました。恵姫は黒姫とお福の浮き輪を引っ張って遊んでいます。領民や城の者から愛されているだけでなく、海からも愛されている恵姫。与太郎は嫉妬に似た羨望を感じずにはいられませんでした。


「愛されている、か。贅沢は言わないから、誰か一人、僕を愛してくれればなあ」

「ふっ、おふうとかいう娘の事か。それはおまえ自身の努力で何とでもなるだろう。頑張るんだな」


 言い当てられて頭を掻く与太郎。その背中を励ますように叩くと毘沙姫は立ち上がりました。


「どれ、私もおまえの泳ぎを真似てみるとするか。最後の海豚泳ぎ、あれは役に立ちそうだ」


 バタフライが何の役に立つのかさっぱり分からない与太郎です。しかし、雁四郎には分かっているようでした。


「左様。あれは手足搦てあしからみで足だけ縛られた場合の泳ぎ。海豚の尾の動きを手本にして水を蹴るとはお見事な工夫。拙者も真似てみとうなったでござる」


 雁四郎も立ち上がると、二人は水辺に向かって歩き出しました。与太郎もその後を追いつつ尋ねます。


「あの、手足からみって何の事ですか、雁さん」

「敵に捕まり手と足を縛られ、そのまま水の中に突き落とされても生き延びるための泳術でござるよ。与太郎殿も学んでおいて損はないと思われます」


 ああ、そうなのか、と与太郎は思いました。この時代の水泳とは遊びとかスポーツとかそう言ったものではなくて、剣や弓や体術と同じく自分の生存を懸けた修行のひとつなのです。この時代には楽しみとはまるで無縁だったのに、自分の時代ではスポーツとして娯楽の一種になってしまっている、つまりそれは平和な世になった証しでもあるのです。自分は本当に良い時代に生まれてきたものだと、与太郎はしみじみ思うのでした。


「おや、毘沙よ。泳ぐのか。無駄な事に体は動かさぬのが信条のそなたにしては珍しいのう」


 海に入って来た毘沙姫に恵姫が声を掛けました。今は黒姫とお福の浮き輪をぐるぐる回転させて遊んでいます。


「与太郎の泳ぎを見ている内に体を動かしたくなってな。海豚泳ぎ……確か手は蝶のように羽ばたかせ、足を揃えて蹴る、だな。ひとまずやってみるか」


 毘沙姫は体を伸ばすと水面に浮いてゆっくりと沖へ進んで行きます。それを見守る与太郎たち五人。と、突然大声が聞こえてきました。


「どりゃああ!」


 掛け声と共に両手で水を掻く毘沙姫。その体は海を飛び出し空中を進んで行きます。体が一旦海へ落ちても、豪快な両腕の掻きによってまたも空中へ飛び出す毘沙姫の体。そしてその姿は見る見る内に沖へ向かって小さくなっていきます。


「おい、あれが泳いでいると言えるのか。体がほとんど水面から出ておるではないか。あれでは海豚泳ぎと言うよりも飛魚泳ぎじゃのう」


 恵姫の言葉通り、毘沙姫は低空を飛ぶが如く沖へ向かって突進していきます。尋常ならざる速さです。水の抵抗がないので空中を進む方が断然早いのは当たり前ですが、与太郎の時代の百メートルを十秒くらいで進むような速さです。


「オリンピックに出場すれば間違いなく金メダルだろうなあ、水泳でも陸上でも。実に残念」


 この時代でそんな事をつぶやいても仕方ないとは思いつつ、つぶやかずにはいられない与太郎ではありました。

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