桐始結花その二 怒りの鉄拳
昨日は大暑でした。文字通り一番暑い日です。その翌日の今日も朝から大変な暑さです。涼しい内に朝釣りに行き、朝食が済めば座敷でゴロ寝、それが暑い夏の日の普段の恵姫。しかし今日は違います。朝食後に少し休んだだけで、日の当たる中庭でせっせと梅干しの取り入れをしている恵姫なのでした。
「うぐぐ、磯島め。あの条件を飲んだ時から、こうなる事が分かっておったのじゃな」
今日の梅干し集めは四日前の取り決めによるものです。梅の実並べで半人前の仕事しかできなかったので、梅干し取り入れで半人前の仕事をすれば、合わせて一人前の仕事と見なして約束通り料理本を渡す、それが取り決めの内容です。この取り決めに従って働いているのですから、恵姫が怒るのは筋違いのはずです。
「うう、磯島にまんまとしてやられたわ。悔しいのう、悔しいのう」
それでも恵姫は怒っています。悔しがってもいます。それは「人の手を借りてもいい」というもうひとつの取り決めが、実際には絵に描いた餅だったからです。
朝食後、梅干しの取り入れをお福に手伝わせたいと、磯島に申し入れた恵姫。しかしお福は手が一杯で手伝えぬと言われ、ならば誰でもよいから一人貸してくれと言うと、磯島は冷ややかにこう答えたのです。
「残念ながら、本日は土用の虫干しを行いますゆえ、手の空いております女中はひとりもおりませぬ」
「な、なんじゃと! では誰が梅干しの取り入れを手伝ってくれるのじゃ。人の手を借りてもよいと約束したではないか」
「ええ、手伝ってもらっても結構でございますよ。ただし奥の女中は手伝えぬと申しているだけでございます。姫様自らがお探しになられればよろしいのではないですか」
ここに至ってようやく磯島の本当の目的が分かりました。最初から女中に手伝わせるつもりなどこれっぽっちもなかったのです。梅干し取り入れと同じ日に奥御殿の衣類や布団、書物などの虫干しを行い、恵姫には一人で梅干しの取り入れをさせる、これが磯島の目的だったのです。
「探せと言われても、表の者に頼めるお役目ではないし、毘沙は手伝わぬと言っておったし、黒は田の草取りと水抜きをすると言っておったし、手伝ってくれる者などおらぬではないか」
「ならば御一人で取り入れをなされませ。今すぐに取り掛かれば昼までには終わりましょう。ほほほ」
磯島は小気味よく笑うと朝食の膳を持って座敷を出て行きました。
こうして恵姫は日差しがカンカンと照り付ける中庭で、たったひとり梅干しの取り入れをする事になったのです。
「ああ、喉が渇くのう。梅干しでも食って元気を出したいところじゃが、『摘まみ食いなどなされては、全ての梅の実を取り入れたとは言えませんね。料理本はまたもお預けです』などと言われかねぬからのう。ここは我慢じゃ。ふう、暑い暑い」
梅干し一個を食べただけで、これまでの働きを無駄にしたくはありません。恵姫はせっせと梅干しを集め続けます。やがて時太鼓が聞こえてきました。朝四つを知らせているのです。
「どれ、少し休むか。いくら忙しいとは言っても、いつも通り茶くらいは出してくれるじゃろう」
朝四つと昼八つには、恵姫が座敷に居れば茶を持って来てくれるのです。恵姫は姉さん被りの手拭を解くと、北側にある井戸まで行きました。水を汲み、手と顔を洗い、汗を流してさっぱりした後、縁側から直接座敷に上がりました。団扇を扇いで待っていると女中がやって来ました。
「本日は麦湯をご用意致しました」
女中が土瓶から湯呑に注ぐと、炒った麦の香ばしさが鼻腔をくすぐります。ぬるめに淹れてあるので、すぐに最初の一杯を飲み干す恵姫。
「おや、茶請けはないのか」
「本日の茶請けは中庭に並んでおります梅干しでございます。三粒までなら食してよいと磯島様が申しておりました」
「やれやれ、そうと知っておれば梅干しを持って座敷に上がったのにのう。ああ、そなたはもう下がってよいぞ」
女中は頭を下げると座敷を出て行きました。土瓶から麦湯を注いでもう一杯飲むと、恵姫は縁側に出ます。
「わざわざ三粒と指定しおったか。やはり摘まみ食いをすれば、それを理由に料理本を渡さぬつもりじゃったのであろう。食うのを我慢してよかったわい。まったく油断も隙もないのう」
恵姫は先程まで働いていた場所に戻ると、出来るだけ大きくて美味そうな梅干しを三つ選びました。すぐにその一つを口に入れ、もぐもぐしながら中庭をそぞろ歩きます。雲が出て日差しが和らぎ、同時に少し風も出て来たので、座敷よりも気持ち良く感じられるのです。
「あれが今日の女中たちのお役目か」
中庭のもう片隅には様々な衣装や布や布団が所狭しと干されています。土用の虫干しをしているのです。
「奥御殿にある装束のなんと多い事よ。わらわが普段身に着ける衣装など、一年を通しても数えるほどしか無いのにのう。いざという時のために用意しておかねばならぬ装束が多すぎるのじゃな。もぐもぐ、ぺっ」
種を吐き出すと二つ目の梅干しを口に放り込む恵姫。弱小とは言っても比寿家は一応大名家。恵姫だけでなく殿様や、今は亡き恵姫の母、そして住み込みの女中たちの装束もあるのですから、多くなって当然と言えましょう。それでもまだ干し足りないようで、女中たちがせっせと新たな装束を干し続けています。
「この暑いのにお福もよく働いておるのう。良き嫁になれるじゃろうな、もぐもぐ……おや、あそこでお福と一緒に親し気に働いておるのは……」
最初は見間違いかと思いました。梅干しを握った手で目をこすり、もう一度、物干し竿に布を掛けている人物の姿を凝視する恵姫。自分の目が信じられませんでした。しかしその目に見えている人物は間違いなくあの男、与太郎です。
「な、何故お主がここに居るのじゃ!」
駆け出す恵姫。布を干し終わった与太郎は自分目掛けて突進して来る恵姫に気付くと、にこやかな笑顔で挨拶しました。
「あ、めぐ様、こんにちは。今日もまた、ぐはっ!」
両手で腹を押さえて膝から崩れ落ちる与太郎。恵姫の全体重を掛けた右正拳突きが与太郎の鳩尾に炸裂したのです。
「いつ来た、ここで何をしておる、何故わらわに黙っておったのじゃ」
恵姫は空を見上げました。ほうき星は既に天頂を過ぎ、西へと傾いています。夜が明ける前に与太郎がこちらへ来ていたのは明らかでした。にもかかわらず誰も恵姫に与太郎が来た事を教えなかったのです。
「あ、あの、めぐ様……」
両膝をついたままの与太郎が苦しそうに呻いています。恵姫は左手で与太郎の襟首を掴むと激しい口調で言い放ちました。
「立て、与太郎。わらわに隠れてお福と遊び呆けるとは、いい根性をしておるではないか」
ギリギリと襟首を絞め付けながら与太郎を無理やり立たせる恵姫。この暑さと梅干し集めの疲労でただでさえ苛立っていたのです。それに加えてお福と楽しそうにしている与太郎の姿を見たことで、腹に溜まっていた鬱憤が一気に爆発してしまったようでした。
「そ、そんな、お福さんと、ごほごほっ、遊んでいるだ、なんて……」
「言い訳無用! これはお仕置きが必要じゃな。さて、どうしてくれようか」
「何事です、騒々しい。おや、恵姫様。こんな所で何をしていらっしゃるのですか」
澄ました顔で磯島が現われました。女中の仕事を手伝わせているのですから、与太郎が来たことは当然磯島も知っているはずです。苦しそうに腹を押さえている与太郎を放すと、怒りに燃える目で磯島を睨み付ける恵姫ではありました。
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