大暑
第三十四話 きりはじめて はなをむすぶ
桐始結花その一 約束違え
晴れの日が続いていました。梅雨の時期は降り続く雨にうんざりしてお日様が恋しいと言っていたのに、雨の降らない日が続けば頭の上で偉そうにふんぞり返っているお日様が憎くなる、人とは我儘なものでございます。
「あ~、まったく頭に来るわい。並んでいる梅の実に罪はないが、この丸っこい姿を見ているだけで
恵姫は中庭の片隅に広げられたゴザの上で、せっせと梅の実を集めていました。丁度四日前に恵姫が並べた梅の実は、夏の陽光を浴びてしっかりと皺が寄り、梅干しらしくなっています。今日はそれを取り入れているのです。
「磯島の奴、いい気になりおって。今に目にもの見せてくれるわ」
恵姫はお怒りです。梅の実を集めるくらいで何故にこれほどご立腹なのでしょう。それには理由があるのです。
* * *
話は四日前に遡ります。乾神社から鳩を放つお役目を終えた恵姫と毘沙姫は、城へ帰る前に厳左の屋敷に寄りました。きちんと鳩が帰って来たか確かめるためです。既に厳左は城から下がり、鷹之丞も間渡矢港から戻っていました。
「これは恵姫様、毘沙姫様、お役目ご苦労様に存じます。三羽とも首尾よく帰還しております」
出迎えた鷹之丞の話によると、昼の時太鼓が鳴り止まぬ内にまず厳左が放った鳩が帰還、次に網元と宮司が放った鳩がほぼ同時に帰還したとの事でした。
「留守居の我が母の話によりますれば、昼のうどんに箸を付けぬうちにご家老様の鳩が、うどんを食べ終わる前に残りの二羽の鳩が帰って来たとの事でございます」
「ほう、それは大層な早さじゃ。急を知らせるのに鳩はどうかと思っておったが、使えそうじゃのう」
恵姫の言葉に厳左も毘沙姫も満足そうに頷きました。取り敢えず今回の試みは上手くいったようです。
その後は護衛の毘沙姫と共に城へ戻りました。しっかりと昼寝をしたおかげで、一里の道を往復しても元気が有り余っている恵姫。折しもその夜は十六夜、夜釣りにはお誂え向きです。
帰りの道中で夜釣りは止めろと注意した毘沙姫も、自分を同行させる条件で認めてくれたので、ますます上機嫌の恵姫。ならば夕食が済んだら浜に下りようと二人でお喋りをしていたのですが、磯島の一言で気分は一遍に盛り下がってしまいました。
「な、何じゃと。書は渡せぬじゃと。どういう事じゃ、磯島」
食後の茶を吐き出さんばかりに食って掛かる恵姫。突然言い渡された磯島の言葉はそれほどに信じ難いものだったのです。
「たった今、申し上げました通りです。確か『合類日用料理抄』でしたか。あれを恵姫様にお渡しする事はできませぬ」
「な、何故じゃ。お福に代わって梅の実を並べれば書をくれると申したではないか。約束を破る気か」
恵姫の言葉に間違いはありません。今朝がた、厳左の用事で連れて行かれたお福に代わって梅の実の天日干しをやり遂げれば、蔵から持ち出した料理本を差し上げると言ったのは磯島だったのです。夕方になってそれを違えるとは恵姫でなくても怒り出すのは当たり前でしょう。
「約束を破る気はございません。恵姫様が約束を守っていただけなかったので、私も約束を果たす義務はない、それだけの事でございます」
「何を申しておるのじゃ。わらわはきちんと梅の実を並べたぞ。中庭のゴザを見よ。丸っこい梅の実が仲良く鎮座しておるではないか。あれでもわらわが約束を果たしていないなどと出鱈目を申すのか」
「はい」
いつも通りの平然とした受け答え。磯島が冷静になればなるほど恵姫は熱くなっていきます。
「そのような世迷言、誰が納得できようか。磯島、どうあっても約束を守らぬと申すなら、わらわにも考えが……」
「おい、落ち着け、恵。なんとなく分かってきたぞ」
横から毘沙姫が口を挟んできました。磯島に殴り掛からんばかりに激昂していた恵姫も、少し落ち着きを取り戻したようです。
「何が分かったと言うのじゃ、毘沙」
「恵は確かに梅の実を並べた。それは間違いない。厳左の屋敷に来た時も梅の匂いがプンプンしていたからな。しかし庭に並んだ実、相当数がある。あれを一人でやろうとすれば昼近くまでは掛かる。恵が来たのはそれよりもずっと前、つまり、全部は並べず途中で役目を放り出して来たのだろう」
「そ、それは仕方なかろう。鳩を放つのは昼丁度だったのじゃから。後はお福に任せ……はっ、まさか」
ここでようやく恵姫も気付いたようです。『もし梅の実をひとつ残らず天日干しにしていただければ、この書をお渡ししましょう』それが朝方、磯島と交わした約束だったのです。
「梅の実を、ひとつ残らず……」
顔面から血の気が引いて行く恵姫を眺めながら磯島がにやりと笑いました。
「梅の実の天日干し、結局はお福の力を借りたのでしょう。庄屋の弁当に目が眩み、大事なお役目を途中で投げ捨てられたのでしょう。己の約束を忘れ杜撰な仕事をする未熟者に、大切な書は渡せませぬ。出直してくださいませ」
「いや、待て磯島。確かに全ては並べなかったが、大部分はわらわが並べたのじゃぞ。その働きに対する報酬はないのか」
「ありません。そのような約束はしておりませんから」
「そ、それではただ働きではないか。あれほどの暑さに耐え、汗を流し、寄って来る虫を追い払いながら梅の実を並べたというのに……」
がっくりと項垂れる恵姫。哀れです。いつもとは違ってそれなりに努力をしただけに、本当にお気の毒です。しかし世の中にはこんな事例は枚挙に暇がありません。
最後の最後で塩と砂糖を間違えたため、台無しになってしまった鍋料理。最後の最後で居眠りしてしまったため、カメに負けたウサギ。最後の最後で書き間違えたため、全てが御破算になった写経。
それまでどれほど頑張り、力を尽くし、結果を積み重ねていたとしても、最後の一瞬でしくじれば全ての努力は水泡に帰し、賞賛の代わりに罵倒が浴びせられるのです。今、恵姫は世の中の厳しい現実を目の当たりにしたのでした。
「うぐぐ、なんと口惜しいことであろうか」
「気を落とすな、恵。庄屋の弁当は美味かっただろう。あれを梅の実並べの褒美だと思えばいいじゃないか」
「あれは一里の道を往復した事への褒美じゃ。梅の実並べとは別物じゃ」
せっかく慰めてあげたのに頭ごなしに否定されてしまった毘沙姫。すっかり気分が盛り下がってしまいましたが、さりとてこのまま放っておくのも気の毒です。少し考えた後、毘沙姫はこんな事を言い出しました。
「磯島、並べた梅の実はいつか集めて取り入れるだろう。それを恵にやらせたらどうだ。そして全ての実を取り入れる事ができれば、今度こそ料理本を与えてやるのだ。どうだ」
「そうですね。それは良きお考えです。私は構いませんよ」
「恵、どうだ」
当然恵姫は不満でした。今日の梅の実並べがただ働きになってしまう事に変わりはないからです。ここはもう少し食い下がりたいところです。
「取り入れはやってもよいが、今日のわらわの働きも加味してくれぬか。全てではないにしても梅の実を並べたのじゃ。であるから、取り入れもわらわひとりで行うのではなく、誰かに手を貸してもらってもよい、という条件で引き受けよう。並べる時は半人前、取り入れる時も半人前、合わせて一人前の仕事となる。理に適っておろう」
恵姫の言葉が終わっても磯島は無言でした。何か考えを巡らしているようです。毘沙姫は「おう、名案だ」とか「私は手伝わぬぞ」とか言っていますが、そんな雑音には一切惑わされることなく、じっと思案しています。やがて、
「分かりました。その条件で結構です。では四日後、梅干しの取り入れ、よろしくお願い致します。恵姫様」
そう言って軽く頭を下げました。
腹の立つ遣り取りでしたが、とにもかくにも料理本を貰えそうな目処は付いたので、取り敢えず溜飲を下げる恵姫ではありました。
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