桐始結花その三 桐の実
怒りが頂点に達している恵姫。殴り掛からんばかりの勢いでまくし立てました。
「磯島、何故与太郎が来たことを教えなかった。何故女中の仕事を手伝わせておる。朝飯の時には与太郎は既に来ていたのであろう。わらわに秘密にしておくと如何なる料簡じゃ!」
「与太郎殿が来たら表に知らせよとの命は受けておりますが、恵姫様に知らせよとの命は受けてはおりませぬ。それ故、お知らせしなかっただけでございます。ああ、御心配なく、表には朝一番に知らせてありますゆえ」
何食わぬ顔で答える磯島ですが腹の底は見えています。与太郎来訪を知らせなかったのは、恵姫の手伝いをさせるのが嫌だったからです。全ての女中に仕事を与えて、まんまと恵姫ひとりだけに梅干し取り入れを押し付けた磯島も、与太郎の来訪までは読めなかったはず。思い掛けない事態に遭遇し、自分の計画が狂わされるのを危惧した磯島は、敢えて与太郎来訪を秘密にしていたのだ、恵姫がこう推測するのも無理からぬ事でしょう。
「何を白々しい事を申しておるのじゃ。与太郎が梅干し取り入れを手伝わぬよう、わざとわらわに知らせなかったのであろう。そなたの心根がこれほどまでに腐っておろうとは、見損なったぞ磯島」
恵姫に侮蔑の言葉を浴びせられても、磯島は眉ひとつ動かしません。いつも通りの無表情で恵姫に答えます。
「それは姫様の思い違いです。与太郎殿が梅干し取り入れを手伝っても、私は一向に構わなかったのですよ。こうなったのは全て与太郎殿の希望によるもの」
「与太郎の希望、じゃと……」
腹の痛みが収まったのか与太郎はようやく立ち上がり、不安げな顔で恵姫を眺めています。何も言いません。口は災いの元、余計な事を言って火に油を注ぐような真似は避けるべきです。与太郎が何も言わないので磯島は続けました。
「朝方、与太郎殿に尋ねたのです。本日、奥御殿は大変忙しい、できれば与太郎殿にも手伝っていただきたい。恵姫様の梅干し取り入れ、お福の虫干し、どちらを選ばれますか、と。そうお頼み申し上げたところ、お福の虫干しを取られましたので手を貸していただいた、それだけの事でございます。もし与太郎殿が梅干し取り入れを選んでおりましたら、姫様にお知らせし、手伝わせていた事でしょう」
「よ、与太郎! お主という奴はっ!」
磯島の返答を聞いた恵姫は再び与太郎目掛けて突進しました。しかし二度も同じ攻撃を食らうほど与太郎も間抜けではありません。突き出された右正拳突きはかろうじてよけました。が、すぐに右腕が首を捕らえ、後ろからがっしりと絞め付けられました。
「う、うぐっ……苦しいよ、めぐ様」
「与太郎、お主、わらわの家来であろう。にもかかわらず梅干し取り入れではなく虫干しを選ぶとは、この不忠者めが、恥を知れ!」
「だ、だって、お福さんと一緒に働けるなんて事は滅多にないし、めぐ様を手伝うよりそっちの方が楽しいし、はぐっ!」
恵姫の絞め付けが厳しくなりました。与太郎の言い訳を聞いている内に頭に来て、腕に力が入ってしまったのでしょう。
「弁解無用。とっとと謝れ。謝罪致せ、でなければ絞め殺してやる」
「く、苦しい……ごめんなさい、めぐ様、許して」
「これからはこちらに来たら、直ちにわらわに知らせると約束致せ」
「し、知らせます……」
「虫干し手伝いは即刻やめ、直ちに梅干し取り入れに取り掛かると申せ」
「梅干し、集めます……はふっ」
「姫様、与太郎殿は気を失われた様子にてございます」
恵姫の豪腕に絞め続けられ、折檻には慣れているはずの与太郎も遂に気絶してしまいました。仕方ないとばかりに腕の絞め付けを解き与太郎を放した恵姫は、心配そうに見守っていたお福に言いました。
「わらわは座敷に戻っておる。与太郎が目を覚ましたら座敷に来るように伝えろ」
そう言い捨ててスタスタと歩み去る恵姫。ふと右手を開けば、握っていた最後の梅干しは完全に潰れています。
「むむ、梅干しをすっかり忘れておったわ。こんな事なら突きを食らわす前に食っておけばよかったのう、勿体無い」
手の平の果肉を嘗め、残った種を口に含んで、恵姫は座敷に戻りました。朝から腹の立つ出来事ばかり、気分はすっかりささくれ立ってしまいました。
「まあしかし、これで少しは楽になるな」
一人で全て取り入れなければならないと思っていた梅干しを、これ以降は与太郎がやってくれるのです。事態は好転したと言って良いでしょう。そう思えばこれまでのイライラも少しは収まるような気分になるのでした。恵姫はすっかりぬるくなっている麦湯を飲みながら与太郎が来るのを待ちました。
「あ、あの、めぐ様。こんにちは」
しばらくして縁側から情けない声が聞こえてきました。ようやく意識を回復したようです。恵姫は座ったまま冷たい声で返答しました。
「ああ、主への忠節を忘れてお福の色香に惑わされた家来か。梅干しの取り入れ、よろしく頼むぞ」
「えっと、遣った事がないので遣り方を教えてもらえませんか」
「ちっ、世話の焼ける家来じゃ。付いて来い」
恵姫は湯呑を置くと縁側から外へ出ました。中庭の片隅にはまだ半分ほどの梅干しがゴザの上に並んでいます。
「わあ~、いい匂いだねえ。僕、梅干し大好きなんだ」
「一粒たりとも食うでないぞ。磯島の目がどこで光っているか、知れたものではないからな」
与太郎に限って摘まみ食いなどするはずがないのですが、大切な料理本が懸かっているのですから、念を入れておく恵姫です。
「ほれ、これが梅干し壺じゃ。ここに一粒ずつ丁寧に入れていくのじゃぞ」
遣り方と言っても梅干しを壺に入れるだけの事ですから簡単なものです。与太郎はすぐに取り掛かりました。が、始めて幾らも経たないうちに変な事を言い出しました。
「あれ、めぐ様。あそこに緑の梅干しがあるよ」
与太郎はゴザの一角を指差しています。何を馬鹿なと思いながら恵姫もそちらを見てみると、確かに丸い緑の物が転がっています。近寄って拾い上げた恵姫は、ふっと笑いを漏らしました。
「これは桐の実じゃ。冬になれば茶色くなった殻が落ちて来るが、こんな緑の実が落ちて来るとはのう。鳥が悪さでもしたか」
与太郎は桐の実はもちろん、桐の木すら見たことがなかったので、恵姫の持っている緑の実を珍しそうに眺めました。
「この庭に桐の木があるんですか」
「あるに決まっておろう。おなごが居る屋敷には桐が植わっていて当たり前ではないか。庄屋の屋敷にも植わっておるわ」
「どうして女の子が居る屋敷には桐の木が生えているんですか」
恵姫の目が丸くなりました。とんでもない間抜けを見ているような驚きと軽蔑の眼差しです。どうやらこの時代では説明の必要もない決まり切った事のようです。
「お主がここまで無知だとは思いもしなかったのう。おなごが生まれれば桐を植えるのは当然ではないか。子は娘となりやがて嫁に行く。その時、植えた桐で嫁入り道具を作るのじゃ。桐は成長が早い。赤子の時に植えた桐も嫁に行く頃には立派な大木になっておる、見よ」
恵姫が指差す方向を見ると、大きな緑の葉を繁らせた木が立っています。
「初夏には薄紫の花が一面に咲いておった。気付かなかったか、与太郎」
「う、うん。こっちの方はあんまり来なかったから。でもめぐ様が生まれた時に植えたにしては随分大きいんだね」
恵姫は緑の桐の実を握りしめたまま、無言で桐の木を見上げています。恵姫と共に同じ時代を生き、その歴史をこの城に刻んできた桐の木。きっと自分の知らない沢山の思い出がこの木にはあるのだろうなあと、少し羨ましくなる与太郎ではありました。
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