鷹乃学習その三 恵姫の信念

 間渡矢城の城門前には三つの人影。恵姫、厳左、そして鷹之丞です。三人の右手には鳥籠。中にはそれぞれ一羽ずつの土鳩が入れられています。


「されば昼九つの鐘の音を合図に土鳩を放つようにな。恵姫様、鷹之丞、よろしく頼むぞ」

「心得ましてございます」

「行ってくるぞ~」


 笠を取って頭を下げる鷹之丞に、そのまま手を振る恵姫。お福が行くはずだった乾神社へは、結局恵姫が行く事になりました。理由は庄屋特製弁当です。庄屋の作った弁当が外れだった事はこれまで一度もありませんでした。そして必ず城の食事よりも豪勢だったのです。食いしん坊の恵姫がお福の役目を引き受けると言い出したのは、至極当然の事と言えましょう。


「ふっふ、どのような弁当が食えるか楽しみじゃわい。鷹之丞、お主の昼飯はどうするのじゃ」

「間渡矢港の網元が用意してくださいます。有難い事です」


 鷹之丞は恵姫より年上ですが雁四郎よりは若い、新参者と言ってよい若者でした。どことなく与太郎を思わせる気弱さがあります。


「拙者は幼少の頃より鳥を好み、特に土鳩は大好きでございました。鳩笛なども沢山持っております。此度は拙者の飼っております土鳩がお役に立てて、大変嬉しく思っております」

「そうか、わらわも焼き鳥は好きじゃぞ。城では滅多に食わせてはくれぬがな」

「はっ?」


 二人の話は完全に食い違っているようです。

 それからの鷹之丞は無駄口を叩かずに黙って歩きました。やがて山を下り、厳左の屋敷の前に着きました。


「では、拙者は東へ向かいます。恵姫様、道中お気を付けて」


 頭を下げて東へ歩いて行く鷹之丞を見送った後、恵姫は潜り戸から中へ入りました。縁側には草履を履いた毘沙姫が腰掛けています。恵姫の姿を見て驚いたように声を上げました。


「なんだ、恵じゃないか。お福が来ると聞いていたのだが」

「お福にこのような大切なお役目を任せられるはずがなかろう。わらわが代わってやったのじゃ。むむ、そこにある風呂敷包みは庄屋の弁当じゃな」


 毘沙姫の横にはこんもりとした風呂敷包みが置かれています。大きさから察するに重箱二段はありそうです。


「相変わらず庄屋は良き仕事をするのう。中に入っているのは御馳走ですと風呂敷包みが白状しているようではないか、じゅる」


 包みを見ただけでよだれを垂らす恵姫。いつもの事なので毘沙姫も顔色ひとつ変えません。


「厳左が直々に庄屋の屋敷を訪れて頼んでいったからな。一段目は弁当だが、二段目はこれから土鳩を預かって協力してくれる宮司への礼だ。恵、それを忘れるな。さあ、行くぞ」


 風呂敷包みを持って立ち上がる毘沙姫。一里先の乾神社に向けてようやく出発です。

 侍町を抜け、城下を抜け、海沿いの道をゆるゆる歩く二人。昼近くなって日差しも強くなってきました。城から持参の吸筒で喉の渇きを癒しながら恵姫は歩きます。


「さすがに朝から働き詰めでは疲れるのう。今日の夕釣りはやめにするか」


 早朝の朝釣りに梅の実並べ、そして乾神社への行脚と今日の恵姫は休みなしです。普段は朝食の後は昼までゴロゴロしているのですから、疲れるのも無理はありません。


「さっきから気になっていたのだが、恵、お前、梅干しの匂いがするぞ」

「ふっ、気付いたか。わらわは働き者ゆえ朝から梅の実を干しておったのじゃ。そろそろ梅雨も明け、晴れの日が続くからのう」

「梅の天日干しか。今日は土用の入りだったな。どうりで暑いはずだ」


 毘沙姫は空を見上げました。夏の土用は一年の内で一番暑い時期です。頑強な毘沙姫といえどさすがに暑さは堪えるのでしょう。


「この時期、いつもなら北国や涼しい高地などで過ごすのだがな。間渡矢で暑中を迎えるのは何年ぶりだろう」

「そうじゃな。毘沙にしては珍しい長居じゃのう。いや、無論毘沙と遊べてわらわや黒は嬉しいしいつまでも居て欲しいのじゃが、無事田植えも済み、念願の与太郎にも会えたのじゃ。いつ間渡矢を去っても構わぬのじゃぞ」


 恵姫に言われるまでもなく、毘沙姫もそろそろ間渡矢を去るべき時だと思っていました。如何に庄屋が裕福であろうと迷惑を掛けている事に変わりはありません。それに諸国遍歴は斎主宮から毘沙姫に課せられた使命でもありました。その力を万人の役に立てるべし、それが斎主から賜った毘沙姫の大義でした。一つ所に留まっている事は本来許されないのです。


「ああ、そろそろ立ち去るべき時なのだろうな。だが、ひと段落せねばそれも難しい」

「ひと段落ならしておるではないか。まだ何かやり残した事があるのか」


 毘沙姫のひと段落、それは言うまでもなく寛右の企みを挫き、諦めさせる事に他ありません。今、この状態で間渡矢を去れば、直ちに記伊の姫衆と伊賀の忍衆が恵姫を襲うでしょう。比寿家の安泰と養子縁組のためには、邪魔な恵姫を城から追い出すか、下手をすればその命さえ奪おうとするかもしれません。それだけは断固として阻止せねばならないのです。


「どうした毘沙、言いたくないのか」

「恵、おまえ、寛右を本当に忠臣だと思っているのか」


 それは毘沙姫自身すら予期しなかった言葉でした。寛右の事は恵姫には教えない、知らぬまま事が過ぎればいい、そう考えていたのに、根が正直で隠し事を嫌う毘沙姫の性質が、こんな所でこんな言葉を口に上らせてしまったのです。


「また寛右の話か。先日も良き家臣だと申したであろう」

「ああ、そうだったな。済まん、忘れてくれ」


 すぐに前言を取り消そうとした毘沙姫。しかし次に出た恵姫の言葉は意外なものでした。


「分かっておるぞ、毘沙。瀬津にわらわたちの居場所を教えたのは寛右、そう考えておるのじゃろう」

「恵、気付いていたのか」


 考えてみれば当然でした。生まれた時から間渡矢城に住み、毎日家臣と共に過ごしてきたのです。毘沙姫が気付いているのなら恵姫が気付いていないはずがないのでした。


「瀬津のくノ一の如き装束、蔵の忍具、筍賞味会での物言い、寛右が教えたと考えれば全て辻褄が合う。毘沙も厳左も寛右を怪しむのは当たり前じゃな」

「ならば話が早い。此度の土鳩を使った文の遣り取りも、寛右たちの動きをいち早く察するためのもの。恵、協力してくれ。おまえは常に城に居る。寛右を見張り、怪しい動きがあれば迷わず処罰してくれ」


 これなら寛右の一件は思ったより早く片付くかもしれない、布姫を呼ぶために斎主宮へ出した文は無駄に終わりそうだ、そう考えた毘沙姫でしたが、恵姫の返答はまたも意外なものでした。


「いや、それはできぬ。毘沙よ、先日も答えたであろう。わらわは寛右を良き家臣だと思っておると。それは今も変わらぬ。間渡矢を、領民を、比寿家を、そしてわらわをあれほどまでに大切に思ってくれる家臣など、そうそう居るものではない。寛右が瀬津に教えたという確たる証拠はないのであろう。ならばわらわは寛右を信じる。上に立つ者が下に居る者を信じられずにどうする。そなたたちはそなたたちの信じるようにすれば良い。わらわはわらわの信じる道を進むのみじゃ。ああ、勘違いするでないぞ。記伊の姫衆と伊賀の忍衆は疑いなく危険な存在じゃ。わらわを仲間にするために両者が手を組み、何やら画策しておるのは明白。この陰謀だけは早急に潰さねばならぬな」

「……そうか、分かった」


 その画策を寛右が利用しようとしていると何故考えられないのだろうと、毘沙姫は思いました。そしてここまで寛右を信じられる恵姫の気持ちもまた理解できませんでした。やはりこの件は恵姫以外の者の助けがなければ解決できない、改めてそう考える毘沙姫ではありました。

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