小暑

第三十一話 あつかぜ いたる

温風至その一 夏座敷

 晴れています。間渡矢城の上には六月の青い空。まだ梅雨は明けていないはずなのですが、何故か今日は真夏のような日差しと暑さです。


「あ~、暑いではないか」


 座敷に寝っ転がっている恵姫は、さながら浜に打ち上げられた海豹の如く、だらしなく体を伸ばしてへばっています。


「昼にもならぬうちにこの暑さとは。今日はどこまで暑くなるのかのう」


 六月に入る前から恵姫の部屋は夏座敷に変わっています。畳の上には竹で編んだたかむしろが敷かれ、縁側の障子は取り払われて竹の簾をはめ込んだ御簾戸みすどになり、廊下の襖も取り払われて葭の簾をはめた葭戸よしどに取り換えられました。いつもは吹き抜けていく風が心地よく感じるのに、今日は生温い風に吹かれてかえって気分が悪くなってしまいます。


「稽古事がないとは言っても、これだけ日差しが強うては浜に行く気にもなれぬ。こんな事ならば飯の前に朝釣りに行っておけばよかったのう。仕方ない、今日は一日座敷で過ごすとするか」


 本日は毎朝恒例のお稽古事はありません。今日だけでなく昨日もありませんでした。そして明日もありません。実は六月から七月の盆明けまで、恵姫のお稽古事はお休みになるのです。理由は簡単、暑いからです。


 冬の寒さは重ね着と火鉢で辛抱できる恵姫も、夏の暑さにはまったく抵抗力がありません。お稽古事を始めても「暑い」だの「喉が渇いた」だの「頭がぼんやりする」だの言って少しも身が入らないのです。ただでさえ投げやりなお稽古事をそんな状態で無理にやらせても意味がありません。そこでお稽古事を始めたその年から、この時期はお休みする事になっていたのです。


「さりとて座敷に居っても暑い事に変わりはないのう。井戸で水浴びでもして気を紛らわした方が良いじゃろうか」


 ゴロゴロしながら今日一日の過ごし方を思案する恵姫です。こんな風に優柔不断な時は大抵奥御殿から出る事もなく、座敷でのらりくらりと時間を潰して一日を終える事が多いのでした。そして今日もいつもの例に漏れず、そんな一日になるはずだったのですが、


「あの、入ってもよろしいでしょうか」


 突然、葭戸の向こうから声が聞こえました。女中の声ではありません。一瞬、おやっと思った恵姫ですが、声の主が誰かすぐに分かったので、興味なさげに答えました。


「構わぬ、入れ」

「失礼します」


 葭戸を開けて入って来たのは与太郎でした。二月ほど前にも似たようなやり取りをした覚えがあります。あの時は何と言ったのかな、と恵姫は薄れた記憶を呼び覚ましながら言いました。


「『おや、お主ひとりで来たのか。与太郎が来たと言うのに誰もわらわの元へ知らせに来ぬとはな』……うむ、確かこのようにわらわは言っておったはずじゃな。よく思い出せたものじゃ、天晴れなるぞ、わらわ」


 二月前の出来事を忘れずにいた自分を相当誇らしげに感じているようです。


「うん、ひとりで来たんだよ。今日は暑いし、別に女中が案内する義理もないので、自分一人でめぐ様の座敷に行けって言われちゃったものだから」


 与太郎の返事を聞いた恵姫はすぐさま怒り出しました。


「違っているではないか、与太郎。暑いとか義理とかではなく、『何だか今日はすごく忙しいみたいだから一人で行けと言われた』が正しい返答じゃ。二月前にそう申していたではないか。ならば今日もそう申さぬか」

「えっ、めぐ様、一体何を言っているの?」


 まるで理解できていない与太郎です。二月前の会話などとっくの昔に忘れてしまっているのでしょう。


「ちっ、風流の分からぬ奴じゃ。家来の癖に主の戯れに応える事もできぬとはのう。これだから阿呆の与太郎などと陰口を叩かれるのじゃ」

「えへへへ、今日は暑いね。このお座敷もすっかり夏の雰囲気に変わっちゃってるね、えへへへ」


 自分に理解できない状況に陥った時には、それを明らかにしようという努力はせずに笑って誤魔化し、話題を変えようとする与太郎です。その締まりのない顔を見ているだけで、恵姫は余計に腹が立って来ます。


「何を笑っておる。意味もなく笑うのはよさぬか。そもそも与太郎、少し来るのが早いのではないか。まだ六日しか経ってはおらぬではないか。前回は端午の節供から二十日以上経たねば来なかったのに、何故今回はこうも早くこちらにやって来たのじゃ」


 恵姫は薄々感付いていました。こちらに来る日時を決めるのは与太郎ではありません。それでもある程度までは与太郎の意志が関与できます。床柱のある部屋に居なければ、こちらでほうき星が昇ろうとも決して来ることはないのですから。


「あ、気が付いていたんだね。実は端午の節句の菖蒲切りで毘沙様が怖くなっちゃって、日中は自分の部屋に居る事を避けていたんだ。前回は寝ている時にほうき星が昇っちゃったから、まあ仕方なく来たって感じ」

「ふん、どうせそんな事だろうと思っておったわ。それで今回、さほどの日を置かずしてここに来たのは如何なる理由じゃ」

「え~、めぐ様、もしかして忘れちゃってるんですか」


 如何にも自分を馬鹿にしているような与太郎の物言いに苛立ちが募る恵姫。しかし与太郎の言う「忘れている」の内容が思い出せません。


「勿体ぶった言い方をするな。日を置かずにここに来たかった理由を申してみよ」

「ほら、前回、ハンゲの存在を賭けて勝負して、僕が負けちゃったでしょ。負けた罰を早く終わらせたくて、家に居る時はずっと僕の部屋に居たんだ。思い出した?」

「半夏の賭け……ああ、そうじゃったな。いや忘れてなどおらぬぞ。たった六日前の出来事をわらわが忘れるはずがなかろうが」


 と言い繕った恵姫でしたが、本当は忘れていました。あの日の後、五日間野良仕事がお休みになった黒姫と共に、蛍狩りをしたり、浜で魚を捕らえたり、小槌を使って大人しくした馬に乗ったりして遊んでいたので、与太郎との賭けの事などすっかり忘れてしまっていたのでした。


「ええっと、確か賭けに負けた罰は……美味い鯛焼きを持って来る、であったな。その罰を果たしに来たという事は!」

「そうで~す、持って来たので~す」


 与太郎は大きく膨らんだ布袋を目の前に掲げました。不機嫌だった恵姫の表情が一気に明るくなりました。


「で、でかしたぞ、与太郎。よし、食おう。すぐに食おう。昼前じゃが食おう。うむ。安心せよ、わらわが全て食い尽くいしてやる、じゅるじゅる」


 言うが早いか与太郎の持っている布袋に飛びつこうとする恵姫。しかし与太郎はすぐに立ち上がって布袋を頭上に掲げました。これでは恵姫の手が届きません。


「何故渡さぬ。わらわに食わせるために持って来たのであろう」

「うん、そうなんだけどね、まず黒様に会いたいんだ。と言うか黒様に会わないと話が進まないんだよ。今どこに居るかな」

「黒か。半夏後の農休みが終わって田に行っているのではないか。田植えが終わっても草を刈ったり、苗の様子を見たり、あれで色々忙しいからのう」

「そうなんだ。じゃあ僕ちょっと行ってくる」


 与太郎は布袋を持ったまま座敷を出て行こうとしています。退出の挨拶もせずに立ち去ろうとする与太郎に、恵姫は怒りの声を上げました。


「こりゃ、家来の与太郎。主の意向を無視して勝手に出て行こうとは、無礼千万であるぞ。そもそも鯛焼きを食うぐらいの事で何故黒に会わねばならぬのじゃ。説明致せ」


 恵姫に言われて座り直した与太郎は困った顔をして言いました。


「う~ん、それは……まだ言いたくないんだよなあ。最初に黒様に見せて、黒様の意見を聞いて、黒様をここに連れて来て、それからめぐ様に食べさせてあげたいんだ。つまり、その、まだ食べられる状態ではないんだよ」

「まだ食えぬ、とな?」


 与太郎の言葉が何を意味するのか、恵姫には理解できませんでした。しかし、すぐに食べられないのなら引き留めても仕方ありません。一刻も早く食べられる状態にしてもらう事が先決です。


「ならば急ぎ黒の元へ行き食える鯛焼きにしてもらえ。城下では人目があるゆえ装束は着替えて行くようにな。ああ、それから黒と一緒にここへ戻って来る時には、毘沙を連れて来るのではないぞ。彼奴が来ると鯛焼きをほとんど食われてしまうからな。さあ、とっと行って参れ、与太郎」

「うん、分かった。行ってくるね」


 布袋を背負って慌ただしく座敷を出て行く与太郎を見送ると、また簟の上でゴロゴロし始める恵姫ではありました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る