半夏生その四 禁破り
「わ~、朝からお刺身だあ~」
朝食の膳を前にした黒姫が歓声を上げました。得意顔の恵姫。まだ眠たそうな毘沙姫。疲れ切った様子の与太郎。そしていつも通りに落ち着き払った磯島です。さすがにお福は座敷で朝食を共にすることはできないので、女中部屋に帰っています。
「旨そうであろう。最後の最後で黒鯛様が掛かってな。大格闘の末に釣り上げたのじゃ。そしてわらわ自らが腕を振るった刺身である。心して味わうが良い」
「いただきま~す!」
一口一口噛み締めて味わう黒姫。口いっぱいに頬張る恵姫。飲み込むように食べる毘沙姫。余りの美味しさに涙を流さんばかりの与太郎。四者四様の食べっぷりです。
「もぐもぐ、それにしても磯島よ。今朝は野菜が少ないのう。刺身があるのにツマが全く無いとは如何なることじゃ」
「本日は
この磯島の言葉に与太郎が反応しました。半夏生……半現と名乗ったあの老人の名と似ています。結局、あの後は恵姫にあれこれ命令されて、半現とは二度と話ができぬまま浜を去ることになってしまったのでした。しかし半現は与太郎の後を付いて城までやって来ていました。今も中庭に大人しく座っています。もう一度話をしたい、半現自身もそう思っているのかもしれません。
「ねえ、磯島さん、ハンゲショウって何ですか」
「やだあ、与太ちゃん、そんな事も知らないの」
磯島に代わって黒姫が答えました。農事に関わる暦日なので口を出さずには居られないのです。
「う、うん。聞き慣れない言葉だよ。良かったら教えてくれないかな」
「はい、教えて差し上げましょう。その日までに田植えを終えなくてはいけない日、それ以降に田植えをしても良い稲が実らない日、それが半夏生の日なのです。そしてこの日は天から毒が降るので、野菜を収穫してはいけない日なのです。そしてそして、この日から五日間は農作業をしてはいけないので、あたしたちはゆっくりお休みできるのです」
黒姫は嬉しそうです。特に最後に五日間休める云々を言った時には、一際声が高くなりました。それが最も重要な点であるようです。
「ふっ、詰まらぬ風習じゃのう。田植えで疲れた農民がしばらく骨休めをしたいがために作られた屁理屈じゃ」
「そんな事ないよ。言い付けに背いて田植えをしたら、半夏っていう妖怪にお仕置きされるんだよ」
与太郎の箸が止まりました。今、黒姫の口から出た半夏という言葉、あの老人と同じ名です。
「それも単なる作り話じゃ。半夏生が終わっても田植えが終わらぬ事がないように、そんな妖怪を作り出して怠ける心を戒めただけのことじゃ。要するに……」
「ねえ、黒様、そのハンゲっていう妖怪なんだけど、もっと詳しく教えてくれないかな」
恵姫の言葉を遮って与太郎が口を挟みました。これには恵姫だけでなく黒姫も驚いたようです。すぐには言葉が出ず、きょとんとした顔をしています。与太郎は言い直しました。
「その、つまりハンゲってどんな妖怪なのか興味があって。年恰好とか姿形とか」
「あ、ああ、そんな事が知りたいのね。えっと毒を撒く怖い妖怪だとか、音もなく這いずり回る影のような妖怪だとか、色々言われているんだけどね、実はあたし、ずっと昔にそれらしい妖怪を見たことがあるんだ」
「ほう、それは初耳じゃな」
恵姫も少し興味が出て来たようです。持っていた椀を置いて黒姫に顔を向けました。
「何故今まで言わなかったのじゃ。どんな妖怪だったのじゃ」
「言わなかったのは自信がなかったからだよ。だって本当に影みたいだったんだもん。見たのはまだ小槌も授かっていない小さい頃。野良着姿の普通のお爺さんで白髪、長い髭、優しそうな笑顔、そんな姿だったかなあ」
間違いない、と与太郎は思いました。先程浜で会い、今は中庭に居る半現と同じです。
「ははは、黒よ。それでは妖怪ではなくただの百姓ではないか。大方、野良仕事をしている爺さんに怒られて妖怪に思えただけ……」
「ううん、違うよめぐ様。黒様は勘違いなんかしていない。ハンゲは居る。だって僕も見たんだもの」
またも横から口を挟んだ与太郎。二度も自分の言葉を遮られて、恵姫の機嫌が一遍に悪くなりました。
「与太郎、いい加減な事を申すでない。わらわですら半夏など見たことがないのじゃぞ。たまにしかこちらに来ぬお主が見られるはずがなかろう。黒の肩を持てば乳を触らせてもらえるとでも思っておるのか。そんな安っぽいおなごではないぞ」
「めぐちゃん、話が飛躍し過ぎだよ~」
「そうだよ。別に黒様に話を合わせている訳じゃないよ。浜で会ったおじいさんが自分はハンゲだって言っていたんだ。そしてそのおじいさんは今もこの城の中庭に居るんだよ」
「ほう、そこまで言うか、与太郎」
恵姫は立ち上がると与太郎の前に腰を下ろしました。目が据わっています。不機嫌は最高潮に達しているようです。
「餌集めを怠ける口実として居りもせぬ爺さんをでっち上げただけでなく、それを半夏と言い張って更に己を正当化しようとは、呆れた根性じゃ」
「嘘じゃないよ、本当に居るんだ」
「ならば証拠を示してみよ。おい、黒。田に苗はまだ残っておるか」
「あ、うん。いつも多目に育てているからね。苗田の隅の方に植えたままになっているよ。田の苗が倒れたり元気がなくなったら植え替えるんだ」
それを聞いた恵姫はにんまりと笑いました。悪い顔になっています。また良からぬことを企んでいるようです。
「ならばこれから田へ行き苗を植えようぞ。今日以降、田植えをする者には半夏が罰を与えると言う。ならば実際に田植えをして、本当に罰が下されるか試してみるのじゃ」
大それた提案でした。敢えて禁を犯そうと言うのです。農事の決まりをきちんと守っている黒姫にはとても受け入れられません。
「それは駄目だよ~、しちゃいけないって事をするなんて、田の神様に無礼だよ。いくらめぐちゃんでもやっていい事と悪い事があるよ」
「誰もわらわがやるとは言ってはおらぬ。与太郎がやるのじゃ。与太郎が苗を植え罰が下されるなら与太郎の言葉を信じよう。そうでなければ嘘を付いたことになる、その時にはわらわが罰を与えてやろうぞ。どうじゃ与太郎、文句は言えまい」
与太郎にとっては酷すぎる提案でした。本当だと証明してもらうためには自分が半現の罰を受けなくてはならないのです。もし運よく半現の罰を免れたとしても恵姫の罰が待っています。どちらに転んでも良い事はないのです。しかしここまで来たら引くに引けません。与太郎は頷きました。
「分かったよ。それでもし嘘だった時、めぐ様は僕にどんな罰を与えるつもりなの」
これは一応訊いておいた方が良いでしょう。今なら罰の内容について交渉の余地があるはずです。
「ふむ、そうじゃのう、素っ裸にして城下を引き回す、というのはどうじゃ」
「そ、そんな罰、意味がないよ。僕の裸なんて誰も興味がないだろうから見る人なんて一人も居ないよ。誰も見なければ罰にならないよ」
「それもそうじゃな。では一日中浜で魚を捕らえる、というのはどうじゃ」
「僕は魚を釣るのも捕るのもやった事がないから無理だよ。結局一日浜で遊ぶだけになっちゃうよ。罰にならないよ」
「ふ~む、ではどうするかのう……」
迷い始めた恵姫。元々、与太郎に罰を与える事などどうでもいいと思っているので、適当な罰が思い付かないようです。
「あ、じゃあ、次に来る時は必ず美味しい鯛焼きを持って来る罰、ってのはどうかな。ホラ、最近全然献上品を持って来ていないでしょう。次は必ず持って来る事にすればめぐ様も満足するんじゃないかな」
「おう、与太郎にしては良き思い付きじゃ。その罰にしようぞ」
「ふ~、助かった」
なんとか穏便な罰で済んで、安堵の吐息を漏らす与太郎ではありました。
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