半夏生その三 妖怪ハンゲ
老人は何も言いません。ただ黙ってこちらを見ているだけです。与太郎はそれなりに礼儀をわきまえているので、自分から挨拶しました。
「あ、おじいさん、おはようございます」
ペコリと頭を下げる与太郎。少し驚いた顔をした老人は、やはり返事をせずこちらを見ているだけです。
「早いですね。おじいさんはもしかしてお城の方ですか。朝のお散歩を日課にしているとか」
この時代では腑抜けだの阿呆だのと馬鹿にされている与太郎ですが、敬老の精神を忘れたことはありません。電車やバスでもお年寄りにはきちんと席を譲っています。
「こりゃ、家来の与太郎。何を怠けておるのじゃ。餌は集まったのか」
海辺から恵姫の怒鳴り声が聞こえてきました。与太郎は老人に頭を下げると恵姫の元へ走りました。
「ごめん、ごめん、おじいさんが居たから挨拶をしていたんだ」
「爺さんが居た、じゃと」
恵姫が怪訝な顔をしています。まず与太郎を見て、それから浜辺を見回し、また与太郎の顔を見ました。
「どこに爺さんなど居るのじゃ。見当たらぬぞ」
「ほら、あそこだよ」
その老人はやはり岩陰からこちらを見ています。与太郎の指差す方向を見詰める恵姫。
「居らぬではないか」
「居るよ、こっちを見ているじゃないか」
尚もそう言い張る与太郎を恵姫は胡散臭そうに眺めています。
「与太郎、お主寝惚けて夢でも見ているのではないか。ここは城の者か、もしくは間渡矢の全ての浜の出入りを許されておる海女しか立ち入らぬ場所じゃ。海女は皆おなご、そして城の者もこんな早朝には浜に来ぬ。爺さんなど居るわけがないではないか」
「めぐ様、ひょっとしてあのおじいさんが見えていないの……」
呆然として佇む与太郎。恵姫は手を伸ばすと与太郎の餌箱を引っ手繰りました。
「もうよい。怠けたいのならもっとマシな言い訳を考えよ。この餌箱は貰っていくぞ。釣り道具箱にもうひとつ餌箱がある。それを持って餌を集めておれ。まったく役に立たぬ家来じゃ」
恵姫は針に餌を付けると豪快に竿を振りました。見事なまでの投げ釣りの技です。与太郎はすごすごと隠し場所に戻ると釣り具箱から餌箱を取り出しました。
「済まぬな。わしのせいであの娘に怒られたようじゃのう」
老人が話し掛けてきました。声の調子から人の好さそうな人物に思えます。与太郎は驚きつつも声を掛けられた嬉しさから、にこやかに応じました。
「いえ、謝ることはないですよ。ところでおじいさんは何者なのですか。どうしてめぐ様には見えないのですか」
「わしの名は
「よ、妖怪、ですかっ!」
またも驚く与太郎。この時代には姫のような非現実的な力を持つ者が居るのですから、妖怪のような正体不明の存在が居たとしてもさほど不思議ではないとはいえ、面と向かって妖怪だと言われれば驚くのは当たり前です。
「妖怪と言ってもこの世の者にそう呼ばれておるだけ。実際にはお前さんたち人と大して変わらぬものじゃ」
「はあ、そうなんですか。でもどうして僕にだけ見えているんでしょう」
「それはお前さんがこの世の者ではないからじゃ。あのほうき星を通ってこの世に来たのじゃろう」
半現が空を指差しました。昔に比べると随分大きくなったほうき星は既に空の頂点を過ぎ、西の城山の陰に隠れようとしています。
「わしも本来はこの世の者ではない。故あってこのような存在となった。佐保姫様のように、この世の者でも姫の力を持っていれば見える存在もあれば、わしのようにたった一日だけ、この世ならぬ者にしか見えぬ存在もある」
佐保姫の名を聞いて与太郎は花見の宴を思い出しました。桜の木の下に現われた不思議な姫。恵姫や与太郎以外の者には見えなかった姫。この半現の存在はそれよりも薄いのでしょう。それ故、もはやこの世の誰一人としてその存在に気付くことはできないのでしょう。
「この世に来て何年も過ごしてきたが、この日にほうき星が空を飛んだのは初めてじゃ。わしは田の主。本来は田のある場所にしか居らぬ。じゃが、ほうき星が現われるとともに、この世ならぬ者の気配を感じた。その気配に誘われて城山を登り、城に入り、山を下り、浜へ下りた」
与太郎は浜に来る途中で感じた、誰かに見られているような気配を思い出しました。あれはきっとこの半現だったのでしょう。
「お前さんを見ているだけでよかった。話をする気はなかった。余計なことを喋ってしまうかもしれぬからのう。それ故、話し掛けられても黙っておった。が、結局こうして話をしてしまった。情けない事じゃ。きっとわし自身寂しかったのじゃろうな。この世に来てから誰かと話すという振る舞いを、一度もしてはおらなかったのじゃから」
半現はじっと与太郎を見ていました。老いてはいますが澄んだ瞳に嘘偽りは感じられません。有りのままを話しているのでしょう。それでも与太郎は半現の言葉が理解できませんでした。この世の者ではないとはどういう意味なのか。何故この世に来たのか、佐保姫とどのような関係なのか、ほうき星の出現とその時に感じた気配とは何なのか、分からない事ばかりです。
なにより一番知りたいのはほうき星についてでした。この世への自分の出現とほうき星の出現には密接な関係があるからです。ほうき星について詳しい事が分かれば、自分がここに来る理由も分かるかもしれません。
「あの、ハンゲさん。ひとつ訊いていもいいですか。先程、僕はほうき星を通ってここに来たって言っていましたけど、そもそもあのほうき星は何なのですか」
「あれはこの世の裂け目。お前さんの世とこの世を繋ぐひとつの運命。運命は次第に大きくなり、やがてこの世を覆う……」
「こりゃ、家来の与太郎、また怠けておるのか! こっちに餌箱を持って来ぬか」
遠くから恵姫の怒鳴り声が聞こえてきました。話の途中でしたが与太郎は慌てて恵姫の元へ走ります。
「わらわが呼ばずとも餌がなくなった頃合いを見計らって、自ら馳せ参じるのが家来というものであろう。ほれ、早く餌箱を渡さぬか」
「あ、あの、それが……」
おずおずと餌箱を差し出す与太郎。蓋を開けて中を見た恵姫の顔は憤怒の表情に変わりました。餌が一匹も入っていなかったからです。
「えっと、その、おじいさんと話をしていたもので……」
「この役立たずが!」
与太郎の頭に恵姫の拳骨が落ちてきました。余りの痛さに頭を抱えてうずくまる与太郎です。
「い、痛いよ、何も殴らなくても」
「何を甘えたことを言っておるのじゃ、この怠け者めが。これではお主を浜に連れて来た意味がないわ。おまけに爺さんと話をしていたなどと見え透いた嘘など吐きおって、情けなくて涙が出そうじゃ。ほれ、いつまでしゃがみ込んでおる。さっさと餌を集めて参れ」
与太郎は餌箱を受け取ると岩場に向かって駆け出しました。半現は少し離れた場所からこちらを見ています。まだまだ話を聞きたかった与太郎ですが、これ以上餌集めを怠けて恵姫を怒らせると姫の力を使われかねません。なにしろここは浜辺、恵姫の独壇場です。その気になれば一瞬にして与太郎を海の藻屑にできるはずです。
「とにかく今は餌を集めよう。話を聞くのはそれからだ」
それからはイワムシ集めに精を出すことにしました。半現はこちらを見たままもう話し掛けてきませんでした。邪魔をしては悪い、そう思っているのでしょう。さりとて立ち去ることもしませんでした。せっせとイワムシを取り続ける与太郎を愛おしそうに見守り続けていたのです。
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