菖蒲華その五 杜若の話
毘沙姫は一気にそれだけを話すと酒を
「おい、毘沙。何を怠けておるのじゃ。早く続きを話さぬか」
「続き? ないぞ。これで終わりだ。花菖蒲を見てアヤメの根付を思い出した、それだけの話だ」
これには恵姫だけでなく黒姫もお福も驚きました。いくら何でも中途半端過ぎます。
「これで終わりとは納得いかぬぞ、毘沙。こんな所で終わるくらいなら最初から聞かぬ方がマシじゃ」
「だから言っただろう。面白くも楽しくもない詰まらん話だと。今頃文句を言われても困る」
確かにその通りでした。毘沙姫を責めるのはお門違いです。さりとてこんな尻切れトンボのような状態では、続きが気になって眠ることもできません。黒姫は他に何か聞き出せないかと思案しました。
「ねえ、毘沙ちゃん、それで結局京の都には行かなかったの?」
「行った」
「行ったのなら、杜若さんを探そうとしなかったの?」
「探さなかった。面倒だからな」
落胆する黒姫。それでは話の続きがなくても仕方ありません。
「そうかあ~、じゃあ杜若さんには会えなかったんだね」
「いや、会った」
黒姫の顔が輝きました。お福と恵姫も同様です。すぐさま恵姫が毘沙姫に食って掛かります。
「杜若に会ったのならその話をせぬか、この横着者め」
「なんだ、聞きたいのか。言っておくが綾目は出て来ぬぞ。全く別の話だぞ。面白くも楽しくもない詰まらん話だぞ。それでもいいのか」
「いいに決まっておろうが。どこまで人の心が分からぬ奴なのじゃ。黒が粘ってくれねば話の続きを聞き逃すところじゃったわ。早う話せ、毘沙」
恵姫に促されて始めた毘沙姫の話の続きは次のようなものでした。
* * *
既に秋の気配が漂い始めていた。初めて訪れる京の都。まずは面倒を見てくれる神社を探すことから始めた。都は神社が多い。それら全てが姫に対して好意的かと問われれば、素直に頷くことはできぬ。自意識の高い
私は山沿いにある小さな神社に身を寄せた。こぢんまりとした境内にあるのは、建てられてからまださほどの時は経っていない清新な拝殿、静寂な樹木、そして朴訥な宮司。居心地の良い空間だった。
手水舎で水を使っていると三人の親子連れが来た。男と女と童女。宮司とは顔見知りらしく親しげに話をしていた。
「旅をしておられる姫様ですか」
男が話し掛けて来た。宮司から私のことを聞いたのだろう。「そうだ」と答えると「少し話をしませんか」と言う。女と童女は宮司と共に拝殿の奥へ消えていった。恐らく男は二人を待つ間の暇潰しがしたいのだろう。そう考えた私は頷き、境内で一番高い樹木の下へ歩いた。
「美農に行かれたことはありますか」
「ある」
「そうですか。実は私の生国は美農なのです。その黒髪を見ていますとあの娘を思い出します。私の幼馴染、物心ついた時には既に傍に居た娘、綾目。私と綾目は小さな里で生まれ育ちました。子の少ない里ゆえ、同い年の遊び相手は綾目しか居なかったのです」
男は遠くを見ていた。まるで美農の山並みが見えているかのように。
「綾目は裕福な庄屋の娘でした。しがない大工の倅でいつも腹を空かしていた私に、毎日食べ物を持って来てくれたのです。そんな私に出来る事と言えば彫り物をした木切れや、ちょっとした組み木細工をお礼に渡すくらいのものです。それでも綾目はそれだけで喜んでくれているようでした。そうして私たちは毎日を過ごし、やがてお互いを意識し始めました。夫婦になるなら相手は綾目しかいない、そして綾目自身もまたそれを望んでいるようでした。いつ一緒になろうか、会えばいつもその事ばかりを語り合うようになっていたのです」
ここまで話を聞けば分かる。偶然とは恐ろしいものだ。探す気もなかったのに向こうからやって来たのだ。だが私は言わなかった。黙って男の話を聞いていた。
「ある日、都から人がやって来ました。由緒ある社を建て替える事になった。腕の良い宮大工を探している。金は弾む、都に出て名を上げようではないか、と。私は父と一緒に都に行く事になりました。その時、綾目は言ったのです。行かないでここに残って欲しい、この地で夫婦になって欲しい、もし都に行ったらきっとあなたは帰って来ないに違いない、と。綾目と夫婦になる、それはまた私の望みでもありました。けれども都に出て己の力量を試してみたいという野望もまたあったのです。そこで私はこう返事をしました。とにかく父と共に社をひとつ建てるまでは頑張りたい。それが成し遂げられれば必ずこの地に戻り綾目と添い遂げようと。納得した綾目を置いて私は都へ旅立ちました。それから二年間、私は父と共に仕事に打ち込みました。そうして完成したのがこの神社の拝殿です。これで心置きなく美農に帰れる……そう、帰れるはずだったのです。しかし、私の心は二年のうちに変わってしまっていました。社を建てている間、何かと親切にしてくれた娘、今の妻に、私は一方ならぬ情を抱き始めていたのです。そして社が完成した翌年、私は妻を貰い、都に居を構えました。綾目との約束を破った、その事実は私の心に残り続けています。綾目……美農で幸せになっていて欲しい。私のことなど忘れて良き夫を得て、幸福な暮らしを築いていて欲しい、そう思いながら私はこれまで生きてきたのです」
男は帯に挟んだ煙草入れを手に取った。木製の根付には見事な花姿が彫られている。
「これは美農で最後に私が彫った細工物。カキツバタが彫り込まれた根付。綾目も同じ物を持っています」
男はそれ以上、何も話そうとしなかった。カキツバタの彫られた根付を持ったまま私を見詰めるだけだった。そして私もそれ以上何も訊かず、何も言わなかった。
「父上~!」
拝殿の奥から童女が駆けて来た。続いてその母。
「不思議なことです。この話を誰かに聞かせたことは一度もなかったのに、あなたには聞いて欲しくなったのです。ありがとうございました」
男は深々と頭を下げると女と幼子の手を繋ぎ、鳥居をくぐって去って行った。
* * *
毘沙姫の話が終わっても、聞いていた三人は何も言い出せませんでした。話に出て来た二人が幸せと言えるのか、それとも不幸なのか、どちらが悪いのか、悪くないのか、その判断ができなかったのです。座敷に漂う沈黙の中で、黒姫がおずおずと問い掛けました。
「……ねえ、どうして毘沙ちゃんは杜若さんに綾目さんの事を言わなかったの。美農で幸せになっているって教えてあげれば、杜若さんも喜んだんじゃない」
「そうかな。私が美農で綾目に会ったという証拠など何もないのだぞ。話を聞いて同情し気休めの嘘を吐いた、そう思われるだけだ」
「そっか~……」
黙り込む黒姫。恵姫はすっかり冷めてしまったお茶をすすりながら言いました。
「ずずっ、運命とはそのようなものじゃ。どちらも悪いのは約束を破った己だと思っておる。どちらも己の幸せより相手の幸せを願い続けておる。そこまで想い深き相手にもかかわらず、添い遂げる事は叶わなかったのじゃ。アヤメとカキツバタ。どちらも似ておる。一目見ただけでは見分けがつかぬほどそっくりじゃ。しかしどれほど似ていようと、どれほど慕い合っていようと、互いに交わることはできぬ。それがこの草の運命。二人もまた同じ運命の中に居たのであろうな」
「そしてそれは我らと与太郎との関係でもある。言葉も姿形も同じでありながら、互いに住む世界が違うのだ。我らと与太郎は同じ道を歩んでは行けぬ。今、この一瞬の出会いが終われば、いつか別れの時がやって来るのだ」
四人は黒姫が生けた床の間の水盤を見ました。行燈の灯が届くには遠すぎる場所にある二本の花菖蒲は、闇の中、見えぬ相手を見遣りながらただ静かに立っているばかりでした。
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