菖蒲華その四 綾目の話

 日が暮れた間渡矢城奥御殿には夜の帳が下りていました。座敷の行燈に照らされているのは四つの人影。恵姫、黒姫、毘沙姫、そしてお福です。


「今宵は有明月か。夜明けまで月は昇らぬ。厚い雲に覆われて星も見えぬ。暗い夜になりそうじゃのう」


 弱々しい行燈の光では互いの顔が見えるほどの明るさしかありません。黒姫が心配そうに毘沙姫に尋ねます。


「ねえ、毘沙ちゃん。これからする花菖蒲のお話って、怖い話じゃないんだよね。あたし、そういうの苦手だから」

「黒よ、今のうちに厠へ行っておいた方が良いぞ。話を聞いてからでは怖くなって行けなくなるからのう、ふっふっ」

「やめて、めぐちゃん。そんな事を言われただけで怖くなっちゃう」

「……!」


 怯えているのは黒姫だけでなくお福も同様です。話の内容も知らないのに二人を脅す恵姫。いつも通りの悪い癖です。


「案ずるな。怖くはない、面白くもない、楽しくもない、有り触れた実に詰まらん話だ。それでも聞きたいのか、ぐびっ」


 毘沙姫は酒を呑んでいます。特別に磯島が用意してくれたものでした。


「これだけ勿体を付けておいて、聞きたいのかは無いじゃろう。どのような話でも構わぬ。早う話すがよい」


 恵姫に促されて始めた毘沙姫の話は次のようなものでした。


 * * *


 今から随分と前のことだ。斎主宮を出て旅を始めてからまだ数年も経っていなかったと思う。歩いていたのは美農だ。走り梅雨が始まっているようで連日雨が続いた。その木曽路のただ中で道を見失っていた。歩いても歩いても木しか見えぬ山道。雨と一緒に落ちて来る蛭を払い除けながら、もう何日碌に食っていないのだろう、早く人家にたどり着き何か食いたい、そればかりを考えて歩いていた。


 今ならば分かる。見知らぬ道をよそ事を考えながら歩くことほど危険なものはない。崖沿いの道を歩いていた時、足が滑った。大剣を抜く暇もなかった。そのまま滑り落ち、気を失った。

 どれだけ気を失っていたのかは分からぬ。目を開けるとそこは崖の下ではなく家の中だった。みすぼらしい百姓屋。だが当時の私にとってはこの座敷と遜色なく体と心を休ませられる場所。


「そうだ、大剣は……」


 最初に思ったのはそれだ。斎主様より賜った神器、命の次に、いや命よりも大切な大剣を身に着けてはいなかったのだ。落ちた時に失くしたとしたら命を懸けて探しにいかねばならぬ。半身を起こし家の中を見回す。杞憂であった。大剣は寝ゴザの傍らに寄りそうように置かれていたからだ。同時に私を助け、ここに連れて来てくれた者の誠実さに心より感謝した。


「気が付かれましたか」


 戸口から入って来たのはまだ若い女、こんなみすぼらしい家には不似合いな美しさを持つ女だった。続いて童子、たくましい男。この家で日々の暮らしを送っているのはその三人だけのようだ。

 目が覚めた上はすぐにでも立ちたかった。決して裕福そうではないこの一家に、これ以上世話になりたくなかったのだ。だができなかった。怪我をしていたからだ。右足首が腫れている、あるいは骨にヒビでも入っているのかもしれない。


「良くなるまで泊まっていかれるが良い」


 親切な男と女はそう言った。不本意ながらその親切に甘える事にした。


 一家の生業は木こりと炭焼きのようだった。男は働き者で女は気立てが良い。幼い息子も素直で躾けもきちんとできている。居心地の良さに月日が経つのを忘れるほどだった。

 私を慰めようとしてか、女は毎日アヤメの花を飾ってくれた。家の近くに群れて咲いていたのだ。偶然にもその女の名は綾目あやめと言った。


「小さいころからこの花が好きでした。私もそしてあの人も」


 綾目はいつも遠くを見るような目をしてそう言っていた。


 蒸し暑い日が続いた。汗ばかり出て小便の出が悪い私のために、綾目は夏枯草かごそうを煎じて飲ませてくれた。体に溜まった毒を小便にして抜くためだ。おかげで随分楽になった。夏枯草を毎年夏に煎じて飲むようになったのはそれからだ。


 十日も経てば歩けるようになった。そのまま立ち去ることはできぬ。私は男の手助けをすることにした。炭焼きに関しては何も分からぬが、木を切り倒すのは朝飯前だ。私の怪力に喜び、驚く男の顔を見て、これで少しは恩返しできただろうと思うと嬉しくなった。


 そこで何日手伝ったか詳しくは覚えていない。家の外に広がるアヤメの花がすっかり終わっていたから、きっともう七月に入っていたのだろう。明日は旅立とうという日、地に落ちたアヤメの花びらを拾いながら、綾目は私に尋ねた。


「京の都に行かれることはありましょうか」

「分からぬ。行きたくなれば行くかもしれぬ」


 それ以上は言わなかった。何故そんな事を訊くのか、その理由も知りたくはなかった。だが綾目は自分から語り出した。


「毘沙姫様の精悍な顔立ちを見ておりますと、あの方を思い出すのです。私の幼馴染、物心ついた時には既に傍に居た男、杜若とじゃく。私と杜若はこの山を下った里で生まれ育ちました。子の少ない里ゆえ、同い年の遊び相手は杜若しか居なかったのです」


 綾目は遠くを見ていた。その先に幼い頃に住んでいた里があるのだろう。


「杜若の父は大工、とても腕の良い宮大工でした。ですから杜若も幼い頃より木切れを彫るのが好きで色々な細工を拵えて私にくれました。私は特に取り柄もなく、ただ笑ってありがとうと言う事しかできません。それでも杜若はそれだけで喜んでくれているようでした。そうして私たちは毎日を過ごし、やがてお互いを意識し始めました。夫婦になるなら相手は杜若しかいない、そして杜若自身もまたそれを望んでいるようでした。いつ一緒になろうか、会えばいつもその事ばかりを語り合うようになっていたのです」


 それは退屈な話だった。当時の私は男女の契りなどに興味はなかった。それでも命を助けてくれた恩人の話だ。口を挟まず聞き続けた。


「ある日、都から人がやって来ました。由緒あるやしろを建て替える事になった。腕の良い宮大工を探している。金は弾む、都に出て名を上げようではないか、と。杜若は父に付いて都へ行く事になりました。その時私に言ったのです、一緒に来てくれないかと。もちろん一緒に行きたい、それが本当の気持ち、けれども出来ませんでした。家には父と兄が居ました、母は既になく私が母の代わりを務めていたのです。そこでこう返事をしたのです。やがて兄が嫁を貰えば私は自由になる。そうすれば気兼ねなく都へ行ける、それまで待っていて欲しい、と。杜若は納得して都へ旅立って行きました。そして二年もせぬうちに兄は嫁を貰いました。これで都へ行ける、そう、そのはずでした。けれども二年のうちに、私の心は変わってしまっていたのです。杜若が都へ去った後、兄の友、今の夫が何かと面倒を見てくれるようになりました。知らぬ間に私の情はその男に移り始めていたのです。そして兄が嫁を貰った翌年、私も嫁ぎ、この地に住むようになりました。杜若との約束を破った、その事実は私の心に残り続けました。杜若……都で幸せになっていて欲しい。私のことなど忘れて嫁を貰い、幸福な暮らしを築いていて欲しい、そう思いながら私はこれまで生きてきたのです」


 綾目は帯に挟んだ巾着袋を手に取った。木製の根付には見事な花姿が彫られている。


「これは杜若が最後に私にくれた細工物。アヤメが彫り込まれた根付。杜若も同じ物を持っています」


 綾目はそれ以上、何も話そうとしなかった。アヤメの彫られた根付を持ったまま私を見詰めるだけだった。そして私もそれ以上訊く必要はなかった。もし都に行ったなら、その地で私に何をして欲しいのか、十分すぎるほど分かっていたからだ。


「アヤメの根付、しかと頭に留め置いた」


 それだけを言ってその家を去った。

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