菖蒲華その三 二本の花菖蒲

 磯島を前にして花菖蒲と悪戦苦闘する三人。声を上げたのはまたしても恵姫です。


「これならどうじゃ。傑作であろう」


 突き出された花瓶を見て恵皺がますます深くなる磯島。あろうことか花菖蒲の葉が三本、円を描いて花瓶に突き刺さっています。


「恵姫様、この葉でございますが、如何なる理由でくにゃりと弧を描いて輪になっているのですか」

「ふっふっふ、それがわらわの工夫である、花菖蒲の葉は真っ直ぐに屹立し、まるで刀のようじゃ。それでは心が休まらぬ。そこでこのように曲げて輪っかにし、皆も斯くの如く和を尊べと暗に諭しておるわけじゃ。三つの輪とは三つの和、すなわち人との和、天との和、地との和……」

「生花は人の道を説く道具ではございません!」


 いつも冷静な磯島が珍しく声を荒らげています。かなりお怒りの御様子です。


「あたかもそこに野の花があるように生けるべしと再三申しているはず。どこの野にこのように葉が輪っかになっている花菖蒲が生えているというのです」

「いや、じゃからそれはわらわの工夫……」

「そんな工夫は要りません。やり直してくださいませ」


 せっかくの自信作を突き返されて、ご機嫌斜めの恵姫。その様子を横目で見ながらごそごそやっていた毘沙姫が次に声を上げました。


「出来たぞ」


 荒々しく突き出された花籠を見て、恵皺がもうどうしようもない程に深くなる磯島。花籠には葉を折り曲げ、組み合わせ、捩じり、穴を開けて差し込み、形を整えられて見事に完成した草船が乗っていました。


「あの、毘沙姫様、これは……屋形船でございますか」

「そうだ。恵が葉を曲げているのを見てな。どうせ細工をするなら船を作ろうと挑んだ結果がこれだ。昔から草船を作るのは得意だったからな」


 草船の常識を打ち破る見事な出来栄えに恵姫も横から口を挟みます。


「う~む、天晴れな草船ではないか。庭の池に浮かべれば鯉も喜ぶじゃろう」

「よし、行って浮かべてみるか」


 立ち上がろうと腰を浮かす恵姫と毘沙姫。が、ここで磯島の怒鳴り声が座敷中に轟き渡りました。


「いい加減になさいませ。お二方とも生花を何だと思っていらっしゃるのですか!」


 鬼のような形相になっている磯島を前にして、さしもの怖い者知らずの二人も浮かした腰を元通り落ち着け、神妙な顔になっています。


「ああ、もう。恵姫様のお手本となるべき毘沙姫様までこのような有様とは、なんと嘆かわしいことでございましょう。恵姫様の母上様がご存命だった頃は、毘沙姫様はそれはそれはお淑やかな姫であられたというのに、どうしてこのような事に、よよよ……」

「ああ、済まんな。恵の母には我が子のように可愛がってもらっていたので、まあ、なんだ、城に居る時は猫を被っていたのだ。旅を続けるうちに被っていた猫がすっかり剥げ落ちてしまったようだ」


 若干の反省の色を見せる毘沙姫と、機嫌が悪いままの恵姫。磯島の「よよよ」は泣き真似で本当は涙など流していないのですが、悲しんでいる事には違いないので対応に困ります。ここは放っておくのが一番と、二人とも何も言わずに大人しく座っていた所へ、ようやく黒姫が声を上げました。


「磯島様、出来ましたよ~」


 のっそりと水盤を押し出す黒姫。顔を伏せて泣き真似をしていた磯島はその水盤を見た途端、顔を輝かせました。


「こ、これです。これこそ生花です。ああ、さすがは黒姫様。さすがは庄屋殿の娘。さすがは毎日野に出て草や木と戯れていらっしゃる姫。生花の心を本当によく分かっておられます」

「えへへ、それほどでもないよ」


 言葉とは裏腹に自信満々の黒姫。実は庄屋は芸事にも関心があり、幼い黒姫に生花を習わせていた時期があったのです。今日は久し振りに生けたのですが、その時の稽古は十分役に立ったようです。


「これが、見事な生花とはのう」


 磯島の機嫌が直って一安心の恵姫ですが、黒姫の生花には納得しかねています。


「ただ単に水盤の二か所の剣山に花菖蒲を刺しただけではないか。咲いている姿とまるで変わらぬぞ」

「だからこそ良いのです。それに単純に刺したのではなく、葉の長さ、位置、花の茎の姿、全てに調和が取れております。これを見ればどのような者も心を落ち着ける事ができましょう」

「そうかのう……毘沙、どう思う」


 毘沙姫は黒姫の生花を見詰めていました。恵姫に問われても何も答えません。まるで懐かしい物を見るような目で、生けられた二株の花菖蒲を見詰めているのです。


「おい、毘沙、どうかしたか」

「んっ、いや別に」


 そう返事をしても、やはり毘沙姫は見続けています。やがて磯島が言いました。


「黒姫様が素晴らしい生花を生けてくださいました。お手本としてこの座敷の床の間に飾っておくことにします。恵姫様、毘沙姫様、それを眺めて生花の心を学んでください。それでは本日のお稽古はここまでと致しましょう。花瓶と籠についてはいつも通りに私が生けます」


 磯島は花瓶から輪になった葉を引っこ抜き、籠から草船を取っ払うと、自分で花を生け始めました。その様子を大人しく見守る三人。手際よく生け終わると、座敷を出て女中を呼びに行き、散らかった生花道具を片付けさせました。


「おい、磯島。残った花菖蒲はどうすればよいのじゃ」

「ここに置いて行きます。船を作るなり輪にして遊ぶなりご自由に。それでは夕食までゆっくりとお寛ぎくださいませ」


 黒姫の生けた水盤は床の間に置き、花瓶と花籠は女中に持たせると、磯島はさっさと座敷を出て行きました。何度か怒られはしたものの無事にお稽古事が済んで一安心の三人。特に恵姫はこれで明日は一日自由に過ごせることになったのですから、解放感も半端ではありません。


「あ~、明日という日をこれほど憂いなく迎えられるのは久し振りであるぞ。晴れたなら、いや、雨でなければ、いやいや小降り程度ならば、朝から浜に下りて遊びたいものじゃ。黒や毘沙も浜遊びは好きであろう」

「う~ん、朝の海辺は気持ちがいいですからねえ。あたしも田植えが終わってのんびりできるし、明日晴れるといいなあ」


 恵姫と黒姫はすっきりした顔で話し合っています。一方、毘沙姫はいつも通りの仏頂面で残った花菖蒲を手に取って眺めていました。元々無口の毘沙姫とはいえ、その様子はいつもとは少し違います。何かを考え、何かを思い出しているように見えるのです。こちらの会話に入ろうとしない毘沙姫が気になったのか、恵姫が声を掛けました。


「毘沙よ、どうした。明日晴れればそなたも浜に行くであろう」

「ああ、そうだな」


 返事をしてもやはり花菖蒲を眺め続ける毘沙姫。さすがに問い掛けないわけにはいきません。


「毘沙よ、ずっと気になっておったのじゃが、花菖蒲に何か思う所でもあるのか」

「ある」


 素っ気ない返事です。あるのならばそれがどのように思う所なのか、返事に続いて語ってくれてもよさそうなものですが、そうしてくれないのが如何にも毘沙姫です。仕方なく質問を重ねる恵姫。


「どのような事じゃ。よかったら聞かせてくれぬか」

「そうだな」


 毘沙姫は花菖蒲を置くと、今度は磯島が床の間に置いて行った水盤を眺めました。二株の花菖蒲が寄り添うように生けられています。


「話すと長くなりそうだ。夕食の後にしよう。どうせ今夜は黒の菓子を食いながら夜更かしするのだろう。退屈しのぎに丁度良い」

「分かった、楽しみにしておるぞ。さて、では夕飯まで何をして遊ぶかのう。その花菖蒲の葉で船でも作って池に浮かべるか」

「草船だな。よし、手本を見せてやる」


 恵姫と黒姫は毘沙姫に習って草船を作り始めました。物憂い梅雨の日が暮れるまで、まだまだ時間はたっぷりあります。小降りになった雨の中、出来た草船を池に浮かべて愉快に遊ぶ三人の姫たちではありました。

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