菖蒲華その二 二度目の稽古
とても容認できない発言でした。磯島のお稽古事一日二回実施宣言。恵姫は断固として拒否すべく、磯島に立ち向かいます。
「何をふざけた事を抜かしておるのじゃ、磯島。これまでに稽古事を日に二回もやったことがあったか」
「ありませんね」
いつも通り平然と答える磯島です。落ち着き払った様子がますます恵姫の怒りを増幅させます。
「ならば何故に今日は二回もやらねばならぬのじゃ。いかなる理由でそのような事を申すのじゃ」
「簡単な話でございます。明日の分のお稽古事を今日のうちに済ましておきたい、それだけの理由でございます」
「明日の分を今日やる、じゃと……」
恵姫の怒りがほんの少しだけ静まりました。女中が持って来た盆の前に座り、磯島が湯呑に注いでくれた茶を飲むと、それを持ったまま話します。
「詳しく申してみよ、磯島。明日のお稽古事を今日やると、どのような利点があるのじゃ」
「本日は黒姫様、毘沙姫様がお泊まりになられます。夕食後も三人であれやこれやとお喋りに花を咲かせることでしょう。当然、床に就かれるのは遅くなり、お眠りになられる時間は短くなり、起きる時刻は遅くなり、無理に起こせばいつまでも寝惚けたままで、お稽古事に身が入るはずがありませぬ。それならばいっそ本日の内に明日のお稽古事を済ませておけばよい、と考えたのでございます。そうなれば今夜どれだけ遅く起きていようが、明朝どれだけ遅く起きようが関係ございませんからね。分かっていただけましたか、姫様」
「うむ、納得したぞ、磯島」
さすがは思慮深い磯島です。もっともこれは五日前、庄屋特製田植飯で夜更かしした時の失敗に基づいているのでした。恵姫も毘沙姫も朝はなかなか起きようとせず、遅い朝食を済ませた毘沙姫が庄屋の屋敷に戻っても、恵姫は半分寝惚け眼。お稽古事もほとんど居眠り状態だったのです。あの失敗を繰り返さないための方策として、一日二回稽古を持ち出したのでした。
「それではお茶の後、お稽古事を始めます。本日は毘沙姫様がお持ちいただいた花菖蒲を使って、生花をお稽古したいと思います。せっかくですので黒姫様、毘沙姫様も、恵姫様と共にお稽古なさってください。それまで皆さま、ゆっくりとお寛ぎくださいませ」
磯島は頭を下げると座敷を出て行きました。ようやくほっとする三人。黒姫と毘沙姫はお茶を飲み始めます。
「磯島様って相変わらず押しが強いねえ~。なんだか知らない内にあたしたちまでお稽古することになっちゃったよ。ずずっ」
「生花か。斎主宮で何年か前にやって以来だな。いや、何十年前か。ぐびっ」
「そもそも毘沙が花菖蒲など持って来るからじゃぞ。どうしてこんな物を持参したのじゃ。もぐもぐ。お、これは美味い饅頭じゃ」
恵姫はいつの間にか茶請けに手を出しています。本日は蒸し饅頭。具は甘辛く味付けした煮野菜。黒姫には日頃、弁当やら昼食やら夕食やらで恵姫が大変お世話になっているので、その恩返しとして少々値の張る饅頭を出したようです。
「花菖蒲か。綺麗だろう。うまい具合に何本か咲いていたので、葉ごと引き抜いて来たのだ。はぐっ」
毘沙姫は饅頭を一口で食べてしまいました。せっかくの美味しい饅頭なのに実に勿体無い食べ方です。
「どのように持って来たかを訊いておるのではない。何故花菖蒲を持って来たか、その理由を訊いておるのじゃ、ずずっ」
一息入れてお茶をすする恵姫。美味しい饅頭はお茶を飲みながらじっくり味わうのが恵姫流です。
「どうしてって、そりゃ、手ぶらで来たら恵が怒るからだ。いつもは護衛の役を務めてここに来るから何も持っては来ぬが、今日は厄介になりに来ただけだからな。献上品だ。花菖蒲園を持っている次席家老の寛右の屋敷でわざわざ分けてもらったのだぞ、有難く思え。残念ながら寛右本人には会えなかったがな。ぐびっ」
毘沙姫はお茶も一息で飲んでいます。どうやら味わうという事を知らないようです。
「何が有難く思えじゃ。こんな献上品なら要らんわ。黒のように菓子でも持って来てくれれば、お稽古事は生花ではなくお茶になったかもしれぬのにのう、もぐもぐ」
「残念だったね、めぐちゃん、ぱくぱく」
黒姫はようやく饅頭を食べ始めました。何事ものんびり始めてのんびり済ませるのが黒姫流です。
「そうじゃ、黒よ、鯛焼きはどうしたのじゃ。早く食おうではないか、ずずっ」
「今食べちゃ駄目だよ~、あれは夜、お喋りしていてお腹が減った時のために持って来たんだから。お福ちゃんの分も作って来たからね。今夜四人で楽しもう~! ぱくぱく」
こうして三人の昼下がりのお茶のひと時は、ほとんど井戸端会議的な様相を呈しながら流れていくのでありました。女三人寄れば姦しいの諺通り、座敷からは常に誰かの声が聞こえ、あるいは三人の笑い声が、あるいは二人の歌声が、またあるいは一人のよだれを垂らす音が、廊下まで響いていたのです。
「そろそろお茶の時間は済みましたか」
宴たけなわと言わんばかりの盛り上がりを見せている座敷へ磯島が入って来ました。お茶も饅頭もとっくに無くなり、今は伊瀬の土産に買って来てくれた鯛車を恵姫が転がして遊んでいるところです。
「おう、磯島か。何か用か。夕飯にしてはちと早いようじゃが」
すっかり機嫌が良くなった恵姫にこう訊かれて、磯島の眉間に刻まれた恵皺が深くなりました。続いて座敷に入って来た女中が花瓶、水盤、籠、鋏などを運び込んでも恵姫は不思議そうに眺めるばかりです。
「何を始めるつもりじゃ、磯島。黒や毘沙のために面白い余興でも見せてくれるのか」
「もうお忘れですか。お茶が済みましたらお稽古事を始めると申したではありませぬか。これ、早く片付けて下げなさい」
磯島からそう命じられた女中は、湯呑や皿の乗った盆を持って座敷を出て行きました。
「稽古事……そう言われればそうであったな」
せっかく良くなった恵姫の機嫌はどこかへ飛んでいってしまいました。けれども約束とあっては仕方がありません。恵姫たち三人は花器を挟んで磯島の前に座りました。
「それでこれから花菖蒲を生けていただきます。恵姫様が花瓶を、黒姫様は水盤を、毘沙姫様は籠に生けてください。これらは奥御殿、表御殿での暮らしに彩りを添えるもの。それを念頭に置いて生けてくださいましね」
「はい、分かりました」
返事をしたのは黒姫だけです。恵姫と毘沙姫は磯島の話が終わらない内に手を動かし始めていました。とっとと済ませてのんびり寛ぎたいのです。
「どうじゃ磯島。見事な出来栄えであろう」
黒姫がどう生けるか考えている内に恵姫は生け終わってしまいました。花瓶を見て眉間の恵皺が深くなる磯島。それもそのはず、花菖蒲をそのまま花瓶に突っ込んだだけだったからです。いつもなら仕方なく自分で手直しをするのですが、今日は黒姫と毘沙姫が居る手前、甘い顔を見せられません。厳しい口調で言いました。
「やり直してくださいませ。これでは、生けた、とは言えません」
「何じゃ、今日は妙に手厳しいではないか」
渋々花瓶を手元に引き寄せ、生け直す恵姫。その間に毘沙姫が生け終わったようです。
「出来たぞ」
荒々しく突き出された花籠を見て、磯島の恵皺がまたも深くなりました。花菖蒲の葉だけが籠の中に敷かれていたからです。
「毘沙姫様、籠の中には葉しか入っておりません。花はどうされたのですか」
「ああ、ひらひらして気持ち悪いから千切って捨てた」
見れば毘沙姫の膝の上には紫の花びらが数枚散らばっています。磯島の頭に一気に血が上りました。
「これでは生花ではなく生葉ではございませんか。花を千切るような無体な真似はおやめくださいませ。生け直しです」
「ん、それもそうだな。よし、やり直す」
再び籠を引き寄せて生け直す毘沙姫。深いため息をつきながら、お稽古事は恵姫だけにしておけばよかったと少々後悔する磯島ではありました。
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