第二十九話 あやめ はなさく

菖蒲華その一 雨の来客

 夏至を過ぎ、田植えも無事終わり、間渡矢は梅雨の真っただ中に入っていました。毎日シトシトと雨が降り、雨が降らない日はどんよりとした雲が広がります。


「いい加減、飽き飽きしてくるわい」


 そして今日もお天気は雨。昼食を済ませても浜には行けず、座敷でゴロゴロするばかりの恵姫。毎年の事なのでもう慣れているはずなのに、うんざり気分を払拭するのは難しいものです。


「与太郎でもやって来れば気が紛れるのにのう。桃や端午の節供、筍料理会の時は、こちらが呼びもせぬのにやって来るくせに、このように退屈しておる時には一向にこちらにやって来ぬ。彼奴、どこまで図太い神経をしておるのじゃ」


 こちらに来るのは与太郎の意志ではないと知っていてこんな愚痴を言うのですから、恵姫の退屈はかなり深刻な様子です。しかし古来より、待てば甘露の日和あり、果報は寝て待て、などと言われているように、何もせずにのらりくらりと寝て待っているような者の所へも、福というものはやって来るのですから不思議なものです。


 これではあくせく働いている者の立場がないではないかと憤慨したくもなりますが、きっとやって来る福の量が両者では異なっているのだと考えて、人々は自分を納得させているのでしょう。

 つまり寝ている人の元へやって来る福と禍の割合が一対九なら、真面目に働いている人の元へやってくる割合は五対五。このように考えれば憤慨しかかっていた頭も少しは冷静になるというものです。


 毎日ゴロゴロ寝てばかりいる恵姫の場合、やって来る福と禍の割合が一対九であるのは疑いようがありません。が、これまた不思議なことに一割の発生確率しかない福が、今日やって来てしまったのでした。縁側の障子の向こうから声が聞こえて来たのです。


「め~ぐちゃ~ん!」


 がばりと身を起こし縁側に走る恵姫。蒸し暑いので障子は開けっ放しですが、日除けの葦簀よしずが立て掛けられているので、声の主の姿は見えません。見えませんが見えなくても構いません。声だけで誰かなのか分かっているからです。


「おお、黒、それに毘沙か」

 葦簀の隙間から黒姫と毘沙姫の顔が覗いています。縁側に出た恵姫は声を弾ませました。

「こんな雨の中を来てくれたのか。嬉しいのう。雨続きで浜にも行けず、飯の膳に魚は並ばず、それでも朝の稽古事は続くので、すっかり気分が滅入っておったのじゃ。で、今日は何をしに来たのじゃ」


 この恵姫の言葉を聞いた黒姫の頬が膨らみました。若干ご立腹の様子です。


「何をしにって……もう、何を言っているのよ。今日あたしたちをここに呼んだのはめぐちゃんじゃない」

「おや、そうであったかのう」

「あ~、やっぱり忘れてる。田植えを終えて帰る時、めぐちゃん、『黒はいつになったら暇になるのじゃ』って訊いたでしょ。『間渡矢の田を植え終わったら暇になるよ。五日後くらいかな』って答えたら、『ならばその頃遊びに来るが良い。どうせ雨続きで退屈しておるはずじゃからのう。雨の日の昼過ぎならわらわも座敷に居るはずじゃ。泊まっていってもよいぞ』って言ったじゃない。ほんの五日前のことなのに、もう忘れちゃったの」


『うむ、そう言われれば、そのような事を言っておった気がせぬでもない』


 どうやらすっかり忘れていたようです。それもそのはず、実は田植えが終わって帰る時に、昼に食べ切れなかった庄屋特製田植飯の残りを田吾作から譲り受けていたのです。それを風呂敷に包みながらの会話だったので、記憶にほとんど残っていなかったのでした。


「玄関にお回りください」


 座敷から声が聞こえてきました。磯島です。呼んでもいないのにやって来ました。


「あ、磯島様、こんにちは。今日はめぐちゃん、じゃなくて恵姫様に呼ばれて……」

「雨の中の挨拶は大変でございましょう。玄関にて伺いますのでお回りください」

「あ、はい。じゃあね、めぐちゃん」


 黒姫と毘沙姫は葦簀から顔を引っ込めると、玄関に向けて歩いて行きました。座敷に戻った恵姫は呆れた顔で磯島を眺めます。


「相変わらず勘が鋭いのう、磯島は。よく黒たちが来ている事に気付いたな」

「本日昼過ぎに黒姫様と毘沙姫様がお出でになると仰ったのは、恵姫様ではありませぬか。ほんの五日前のことをもうお忘れですか」


『うむ、そう言われれば、そのような事を言っておった気がせぬでもない』


 すっかり忘れていたようです。それもそのはず、実は田吾作から譲り受けた庄屋特製田植飯の残りを磯島に渡すのが惜しくなり、早乙女装束の内側に隠して帰って来たからです。勘付かれるのではないかとヒヤヒヤしながらの会話だったので、記憶にほとんど残っていなかったのでした。


「忘れていると思っていましたよ。懐に仕舞い込んだ風呂敷包みばかりを気にされていましたからね」

「そ、それを言うでない、磯島」


 当然ながら磯島は勘付いていました。けれどもその日の磯島は寛大だったのです。約束通りに庄屋の田植飯に手を付けず我慢したことが分かっていたからでした。ふと、五日前の出来事が頭に浮かぶ恵姫。


* * *


 その夜、護衛と称して一緒に帰城した毘沙姫と共に田植えの汗と疲れを湯で流し、夕食をそこそこに済ませた恵姫。磯島が座敷から下がった後、隠していた風呂敷包みを縁側に広げました。


「昨夜は更待月ふけまちづきか。今宵、月が出るのはまだまだ先じゃが、ひとまず御馳走になるとしようぞ」

「おう、今日は腹が減ったからな。幾らでも食える」


 夕食が済んでどれだけも経たぬうちから、豪勢な料理をちびちびと摘まみだす二人。と、不意に座敷の襖が開く音がしました。


「だ、誰じゃ」


 慌てる恵姫。動じない毘沙姫。行燈の明かりで仄かに照らされていたのはお福でした。その手には盆を持っています。


「これは……そうか、磯島か」


 盆には湯呑、土瓶、そして小さな酒徳利。田植えの労をねぎらうために、磯島がお福に持たせたのです。そしてその夜はお福も交えた三人で田植飯を味わいながら、短い夏の夜を楽しんだのでした。


* * *


「うむ、あの夜は実に楽しかった。今宵は黒も交えて四人で語り明かすとするかのう」

「本日は黒姫様、毘沙姫様がようやく間渡矢の全ての田植えを終えられた日。領主様に代わって二人を労うべく、ささやかな御馳走も用意してございます」

「おお、さすがは磯島」


 御馳走は黒姫と毘沙姫のために用意したのであって、恵姫には関係ないのですが、どうやら自分もご相伴に預かれると思っているようです。まだまだ甘い恵姫です。


「では、お二人を迎えに玄関に参りますので、失礼いたします」


 磯島が座敷を出て行きます。ここ数日続いていた退屈をようやく紛らわせることができる……恵姫は自分の先見の明を見直しました。五日前、黒姫にここへ遊びに来るように言わなければ、今も座敷をゴロゴロして暇を持て余しているだけだったでしょう。


「毘沙はともかく、黒は手土産のひとつくらいは持って来ておるはずじゃからな。しばらく続いた憂さもようやく晴らせそうじゃわい」


 座敷に戻って二人がやって来るのを待つ恵姫。やがて廊下に足音が聞こえました。近付いてきます。遠慮なく襖が開きました。


「よう、恵。今夜は泊まるぞ」


 何の挨拶もなく襖を開けたのが毘沙姫です。縁側に居た時は気が付かなかったのですが、その手には結構な数の花菖蒲が握られています。


「おい、毘沙、その花菖蒲はいったい……」

 と恵姫が言い終わる前に、黒姫が、磯島が、更には女中が一名、座敷に入って来ました。


「めぐちゃーん、鯛焼き菓子を作って持って来たよー」


 黒姫の菓子持参は予想通りですが、磯島と女中が座敷に来たのは気になります。最後に入って来た女中が持っている盆には湯呑、土瓶、茶請け。どうやら少し早めに昼下がりの茶の時間にするようです。


「お前はお下がりなさい」


 盆を持って来た女中を帰すと、磯島は思いも寄らないことを言いました。


「それではお茶の時間が済み次第、本日二度目のお稽古事を始めさせていただきます。よろしいですね」

「な、なんじゃと。朝だけでなく昼にも稽古じゃと!」


 目をひん剥いて声を荒らげる恵姫ではありました。

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