乃東枯その五 磯島の想い
「ゴツン、ゴツン」
恵姫の頭は黒姫に叩かれています。いつもなら小槌で叩くのに今回は拳骨です。陽気な黒姫も相当頭に来ているようです。
「この有様は何ですか、めぐちゃん。苗を植える早乙女が苗を踏みつけるとはどういう事ですか、めぐちゃん。ゴツン」
畦に端座させられた恵姫。その前にはまるでここで大戦があったかの如く踏み荒らされた田があります。
「す、済まぬ、黒よ。ウナギと聞いてすっかり頭に血が上ってしまってのう。ここが田であることを忘れてしまったのじゃ。その代わり、ホレ、ウナギを捕まえたぞ。田吾作に頼んで蒲焼にしてもらおうではないか。無論、黒も食ってよいのじゃぞ」
「あたしは要りません。美味しい田植飯があるんですからね、ゴツン」
また叩いています。もう何度叩かれたかすっかり忘れてしまうくらい叩かれているのです。それでも力が入っていないので、ほとんど痛みは感じません。
「黒姫様、昼九つの鐘が聞こえております。恵姫様を責めるのはそれくらいにして昼に致しましょう」
田吾作が横から口を挟んできました。耳を澄ませば城下の方向から微かに鐘の音が聞こえてきます。
「うん、そうだね。お~い、みんな、お昼にするよ~」
田植えをしている早乙女たちに声を掛ける黒姫。皆、腰を伸ばしたり、肩を回したりして畦に上がって来ます。
「やれやれ、黒の小言もようやく終わりか」
痺れかけた足を伸ばして立ち上がった恵姫の鼻先に、苗の束が突き出されました。
「なんじゃ、これは。昼の休みにするのじゃろう」
「めぐちゃんには荒れた田を手直ししてもらいます。折れたり千切れたりした苗は植え替えて、倒れただけの苗はきちんと立て直してください。終わるまでお昼はお預けです」
「く、黒よ、そなたは鬼か。一番の楽しみである昼飯をお預けなどと……」
「嫌なら磯島様のお握りは全て毘沙ちゃんに食べてもらいます。ホラホラ早く田に入って。直せば食べられるんだから頑張って!」
「うぐぐ」
今回の件は全て恵姫に非があります。それに黒姫が苗に対してどれだけの情熱と愛情を注いで育ててきたか、恵姫にもよく分かっているので、もう何も言わず田に入り、荒れた苗に手を入れ始めました。
「恵姫様、お先にいただきます」
「今年もお手伝いありがとうございます、恵姫様」
庄屋の田植飯を囲んで間渡矢の早乙女たちが声を掛けてきます。さすがに恵姫を差し置いて先に食事をするのは気が引けるのでしょう。それでも黒姫に促されて、皆、食べ始めました。
「おう、庄屋、気が利くな」
早乙女たちから少し離れた場所では、黒姫の両親が毘沙姫を持て成しています。どうやら酒も振る舞われている様子です。田吾作は火を起こしています。恵姫の捕らえたウナギをぶつ切りにして焼くつもりなのでしょう。
『ふん、なんじゃ。わらわ一人を働かせて、皆、いい気になりおって』
身から出た錆とはいえ、さすがに面白くない恵姫。それでも苗を直し終わらなければ握り飯の一つも口にできないのですから、頑張るしかありません。黙々と苗を植え替え、倒れただけの苗を立て直していきます。
『皆、楽しそうじゃのう』
粗方直し終わった恵姫は、残りの苗を手に持ったまま皆が食事を取っている畦を眺めました。早乙女たちの明るい顔、弾んだ声。普段滅多に見られない百姓女たちの楽しそうな姿。そんな光景を見ていると恵姫の心の中には不思議な喜びが広がってくるのでした。
『この幸福な気持ち、どこかで味わった……そうじゃ、左義長の折、子らに餅を分け与えた時と同じ気持ちじゃ』
「めぐちゃ~ん、終わったのならお昼にしなよ」
黒姫が手を振っています。恵姫は残りの苗に手を入れ終わると畦に上がりました。庄屋が手拭を差し出します。
「ご苦労様でございます。小川にて泥を落としてくださいませ。田吾作が焼いておりますウナギも食べ頃でございますよ」
言われるままに手拭を受け取り、田に注いでいる小川で手と顔の泥を拭う恵姫。再び庄屋たちの元へ戻ると、恵姫は尋ねました。
「庄屋よ、今年の早乙女は随分と年の行った者が多いのではないか。いつもはもっと若い娘が手伝いに来るじゃろう」
「若い娘は奉公に出されておるのです。今年はいつもより多いようですな。裕福な商家や伊瀬の宿屋などに奉公に出れば、田植えの時期と言っても帰ることなどできませぬゆえ」
「奉公か……」
ここ数年続いている不作と不漁、それがこんな形で表れているのでした。領民たちの苦労は思った以上に深刻なようです。
黒姫と共に庄屋の弁当を食べる早乙女たちを恵姫は今一度眺めました。皆、明るく嬉しそうです。こんな豪勢な料理はそれこそ正月でも口にできないものだからでしょう。
「本当は少し心配しておりましたのです。今年は恵姫様だけでなく大食いの毘沙姫様まで居られますので。さりとて磯島様の機転により助かりました」
「そうじゃな。わらわも先程ようやく気付いたのじゃ。ひもじい思いをしておる早乙女たちに、腹いっぱい美味い物を食わせてやりたい、磯島はそう思ったのじゃな」
恵姫は自分の考えが如何に浅かったか、今更ながらに思い知らされたのでした。これまで田植えの時に遠慮なく食い荒らしてきた庄屋の田植飯。それを許してくれていた早乙女たち。昨年までの自分の行いを振り返った時、恵姫は穴があったら入りたいくらい恥ずかしくなりました。
「わらわは領主の娘失格であるな。この年になるまで、そして磯島に教えてもらうまで気が付かなんだとは」
「いえいえ、それは違いますよ。左義長の折、恵姫様は誰に教えてもらうことなく子らに恵みを与えられました。なればこそ、磯島さまは此度の田植えで恵姫様を諭されようと思い立ったのでしょう。必ず意志を汲んでくれると信じられたのでしょう。そして恵姫様はその期待に応えられたではありませんか」
「おい、いつまで小難しい話をしている。とっとと食え、恵」
横から毘沙姫が握り飯を差し出してきました。手に取って食べながら、恵姫は尋ねます。
「むしゃむしゃ。おい毘沙よ、そなたは磯島の目論見が分かっておったのか。早乙女たちを喜ばせたいという磯島の想いが」
「……さあな」
嘘を付けない毘沙姫らしい答えでした。あの蚊帳の中であれほどあっさり磯島の要件を受け入れたのです。分かっていなかったはずがありません。
「恵姫様、ウナギが焼けましてございますよ。あいにく味噌しかなかったものですから、味噌焼きに致しました」
田吾作がぶつ切りにしたウナギを木の串に刺して持ってきました。待ちかねたとばかりにかぶり付く恵姫。
「旨い! でかしたぞ、田吾作」
「恐れ入ります」
頭を下げて引き下がる田吾作。一方、恵姫の声を聞き付けた黒姫が咎めるように言います。
「あ~、めぐちゃん、お握り以外の物を食べている。約束破っちゃ駄目じゃない」
「残念じゃったな、黒。磯島との約束は、庄屋の田植飯を食べぬ事じゃ。ウナギは田植飯ではない。だから食っても良いのじゃ」
頬っぺたを膨らませている黒姫に見せびらかすようにウナギを頬張りながら、恵姫は改めて磯島の考えの深さに感心するのでした。
「わらわはまだまだ磯島に頭が上がらぬのう」
「おい、恵、一切れ食わせろ」
毘沙姫が掠め取るようにぶつ切りの蒲焼を口に放り込みました。
「どうじゃ、旨かろう」
「そうだな、ウナギの味がする」
相変わらずの味音痴です。やはり毘沙姫にだけは庄屋の美味い田植飯を食わせたくないなと、しみじみ思う恵姫ではありました。
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