乃東枯その四 田植え始め

 朝の気配がまだ残る間渡矢の城下を歩くのは、早乙女姿の二人連れ。仏頂面の毘沙姫と浮かない顔の恵姫。向かうは庄屋の大水田。御神田のお田植えは昨日で終わり今日からは間渡矢の田植えの事始め。早乙女大勢集まって、みんなでみんなの苗植えて、みんながみんな泥だらけ。黒姫毘沙姫恵姫、見目麗しい三姫も泥に塗れる運命が待っているのでございます。


「おい、恵、何をのそのそ歩いている。早く行かねば黒に叱られるぞ」


 毘沙姫に急かされても恵姫の足取りは少しも軽くなりません。年に数回しか味わえない庄屋の豪勢な田植飯を食べられなくなったのですから、無理もないでしょう。


「ああ~、庄屋の昼飯、食いたいのう」

「未練たらしいな。麦刈りの時に食ったばかりだろう。それに今年は水口祭りでも食った。あれはいつもなら食べられない昼飯だ。今年は私が手伝った上に、たまたま恵が田にやって来たから口にすることができた。あれを今日の田植飯だと思えば数の上では帳尻が合う」


 その点に関しては毘沙姫の言う通りでした。水口祭りの時に偶然食べることのできた弁当は、田植えの時にいつも食べている昼食と同じくらいに豪勢だったのです。


「そうは言ってものう毘沙よ。それはそれ、これはこれじゃ。食べられると思っていたものが食べられぬ口惜しさは、食べられぬと思っていた物を食べられた時の喜びよりも、数段大きいのじゃ。水口祭りの弁当一個ではこの大きさを埋めることはできぬ」


 よく理解できない恵姫の謎論法です。言葉で説得するのが面倒になった毘沙姫は恵姫の手を掴むと、ずんずんと早歩きを始めました。


「こりゃ、毘沙。無理強いはやめよ。こんなに速く歩いたら田植えの前に疲れてしまう」


 恵姫は手を振り解こうとしますが、毘沙姫に掴まれて逃れられるはずがありません。この速さで付いて行くしかないのです。

 やがて二人は城下を抜け、見晴らしの良い道に出ました。ここから庄屋の田はもう間近です。


「おや、夏枯草かごそうか」


 急に毘沙姫の歩みが遅くなりました。見れば道端には蒲のような花穂に紫の花びらを付けた花が何本も立っています。


「うつぼ草か。まだ枯れてはおらぬようじゃな」


 興味なさげに草を眺めている恵姫の手を放し、毘沙姫は道端によるとその一本を折りました。懐かし気な表情で手に握った草を見ています。


「何をしておる、毘沙」

「んっ、これは薬になるからな。真夏の暑さにやられている時は、暑気払いによく飲んだものだ。医者に持って行けば買い取ってくれるしな。花が咲いていなかったから、これまで気付かなかったのか」


 どうやら毘沙姫にとっては馴染み深い草のようです。田植えに乗り気でない恵姫は道草大歓迎なので、自分もうつぼ草を一本折りました。


「ならば、わらわも集めるのを手伝ってやろう。ここらに生えておるもの全部集めて売り払い、その銭で鯛を買うのじゃ」


 恵姫にはうつぼ草が鯛に見えているようです。しかし毘沙姫は折った草を地に置くと首を振りました。


「取るのはもっと枯れてからだ。今取っても仕方ない」


 そう言って再び恵姫の手を取るとずんずん歩き出します。面白くないのは恵姫。せっかくの道草もほんの僅かの時間でしかありませんでした。


『なんじゃ、毘沙の奴。それならわざわざ立ち止まることもなかろうに』


 無駄な事をしない毘沙姫にしては、らしからぬ道草でした。恵姫もつい尋ねたくなります。


「毘沙よ、うつぼ草に何か思い入れでもあるのか」

「……まあな」


 毘沙姫が口に出した言葉はそれだけでした。鈍い恵姫にもこれ以上の詮索が無粋であることは分かったので、もう何も言わず田を目指して歩くのでした。


「こら~、めぐちゃんも毘沙ちゃんも遅いぞ~」


 ようやく田に着いた二人を待っていたのは少々ご機嫌斜めの黒姫です。庄屋の田んぼには既に十人近い早乙女たちが入って、田植えをしていました。間渡矢で米を作っている者たちが手伝ってくれているのです。


「だから昨日はあたしの屋敷で泊まっていけって言ったのに……」


 黒姫にしては珍しい愚痴でした。田植えの前日は庄屋の屋敷に泊まるのがこれまでの慣例であったし、恵姫と毘沙姫だけなら泊まっても問題はなかったのです。しかし昨日はお福が居ました。お福は必ず間渡矢城に帰す事、これがお福をお田植え神事に出す磯島の条件だったので、結局二人ともお福と一緒に城へ戻ってしまったのでした。


「怒るな、黒。遅れた分しっかり働いてやる。そうだろ、恵」

「う、うむ、まあそうじゃのう。やれやれ」

「んっ、めぐちゃんは妙に元気がないねえ~。いつもは昼の田植飯食べたさに、しゃかりきになって苗を植えるのに、どうかしたのかな」

「ああ、その事だがな……」


 毘沙姫が説明しました。二人とも今日の豪勢な昼飯を食べられないと聞いて黒姫が微妙に嬉しそうな顔をしています。人の不幸は蜜の味と言いますからね。


「めぐちゃん、お気の毒。だからって手を抜いたりしちゃ駄目だからね。あたしが一所懸命に育てた大事な苗たちなんだから。さあ、始めるよ」


 黒姫に背中を押されて恵姫と毘沙姫も田へ入り、他の早乙女たちと一緒に苗を植え始めました。日差しはそれほど強くないものの風もほとんど吹いて来ないので、肌はじっとりと汗に濡れます。


「これほどの辛さに耐えて働いても何のご褒美もないとは、体だけでなく心までも重くなるようじゃ」


 まるで亀のように動きが緩慢な恵姫。苗を一株植える間に他の早乙女たちは三株植えています。さすがの黒姫も注意したくなりましたが、苗は丁寧に植えられているし、元気のない理由も分かっているので、放っておくことにしました。

 一方の毘沙姫も昨日のお田植え神事で苗の植え方のコツが掴めたようで、他の早乙女たち同様、きちんと田植えをしています。二人ともまずまずの働きと言えます。


 こうして田植えの時は何事もなく流れて行きました。庄屋の持っている田は広く、多く、この人数で頑張っても日暮れまでに終われるかどうかというところです。朝四つの休憩も早めに切り上げ、早乙女たちは田植えを続けます。恵姫の中にわだかまっていた田植飯を食えない恨み辛みも、ようやく薄れてきたようです。そしてそんな時に、それは降って湧いたようにやって来たのです。


「きゃー、蛇!」


 早乙女の一人が悲鳴を上げました。隣の田で苗を植えていた毘沙姫と恵姫は手を止めます。


「蛇か。蛙狙いだな」

「そうじゃな。大方シマヘビあたりかのう。毒のあるヤマカガシならば、ちと厄介じゃ。毘沙、見に行ってみようぞ」


 毘沙姫が蛇を怖がらないのは当たり前ですが、恵姫も蛇は苦手ではありません。海でウツボやウミヘビに何度も遭遇して慣れっこになっているからです。


「あ、あそこでございます」


 隣の田で苗を植えていた早乙女たちは、皆、畦に上がって身を寄せ合っています。指差す方を見れば水を張った田に波が立ち、黒く細長いものが体をくねらせながら水中を動いて行きます。


「ヤマカガシかのう。それにしては短いし太いし……あ、あれは、ウナギではないか!」

 蛇ではなかったのです。どこから紛れ込んだのか一匹のウナギが田の中を泳いでいるのでした。

「そうと分かればこうしてはおれん」

「お、おい、恵。何をするつもりだ」


 毘沙姫には返事をせずにいきなり頭の菅笠を取ると、水田に入り込む恵姫。泳いでいるウナギを追いかけ始めました。


「きゃー、めぐちゃん、何やってるの。そこ、苗を植えたばかりなんだよー」


 黒姫が悲鳴を上げています。植えた苗を踏みつけながらウナギを追いかけているのですから無理もありません。


「庄屋の昼飯が食えぬとなれば、このウナギを蒲焼にして食ってやるわ。こりゃ、待て、待たぬか」

「めぐちゃん、やめて、やめてー!」


 黒姫の必死の叫びを完全に無視して、菅笠を片手にウナギを追いかける恵姫ではありました。

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