乃東枯その三 田植飯

 磯島は無言で恵姫を見詰めています。自分の出した要求を飲むのか飲まないのか、返答を待っているのです。恵姫はしばらく考えてから答えました。


「いや、しかしな磯島よ。そなたの出した要件にはわらわだけでなく毘沙も入っているではないか。わらわが食わぬと言っても毘沙は食うと言うかもしれぬぞ。その時はどうするのじゃ」

「毘沙姫様が『そんな要求には承服しかねる』と仰られれば、恵姫様も従わずともよろしゅうございます。見返り無しにお救いすることになりますが、それで構いません」


 磯島にしては緩い条件でした。毘沙姫自身は磯島の要求を受け入れても何の得にもならないのです。承服するはずがありません。こんな条件ならば迷っている必要はないでしょう。即答です。


「相分かった。その要件、受け入れようぞ。早く毘沙を起こして足を退かせてくれ」

「かしこまりました」

 磯島は毘沙姫の耳に顔を近付けると囁きました。

「毘沙姫様、朝のお食事の時刻でございます」

「ゴー、ゴー、ゴッ……う~ん、もう飯か」


 恵姫が大声で叫んでも、力一杯足を叩いても平気で眠っていたのに、耳元で飯と囁かれただけで目を覚ました毘沙姫。鯛食い放題と言われた時の恵姫と全く同じ反応です。


「どこまでも食い意地の張った奴じゃな。呆れてものが言えんわい」


 いや、その言葉、恵にだけは言われたくない、といつもの毘沙姫なら反論するところですが、まだ起きたばかりで頭がはっきりしていないのでしょう、いつも通りの朝の挨拶で答えます。


「あ~、よく寝た。おはよう恵。しかし寝相の悪い奴だな。こちらの布団に転がってきて足の下に潜り込むとは」

「阿呆、転がってきたのはそっちじゃ。いいから早く足を退かさぬか」


 そうだったのかと頭を振りながら、両足をのっそりと持ち上げる毘沙姫。体の重しが取れてようやく人心地が付いた恵姫。さっそく話を始める磯島。


「毘沙姫様、本日の田植えの件でございますが……」


 先程話し合った要件について毘沙姫に説明する磯島を眺めながら、恵姫はにんまり笑っていました。あんな要求を毘沙姫が飲むはずがない、飯と聞いただけで目を覚ますような奴が、豪勢な庄屋の田植飯を諦めるはずがない、それが恵姫の思惑です。そしてそれは満更間違ってもいないはずでした。これまでの毘沙姫の行動を考えれば、恵姫の思惑通りになるに決まっています。


『久しぶりに磯島の落胆する顔が見られるわい。これほど詰めが甘いとは、磯島も年のせいかのう』


 などとすっかり慢心していた恵姫の耳に、予想外の言葉が飛び込んできました。


「分かった。磯島が弁当を用意してくれるなら、それを食う。庄屋の田植飯には手を付けぬ」

「ありがとうございます。恵姫様、お聞きになられましたね。では」


 頭を下げた磯島はすぐに立ち上がり蚊帳の外へ出ようとしています。慌てて恵姫が引き留めました。


「ま、待て、磯島。毘沙は何か勘違いをしておるのじゃ。起きたばかりで頭が働いておらぬに違いない。おい、毘沙、磯島の話をちゃんと聞いたか。庄屋の田植飯が食えなくなるのじゃぞ。それでもいいのか」

「磯島が弁当を作ってくれるなら、それを食えばいいだろう」

「何を寝惚けたことを言っておるのじゃ。磯島の弁当は握り飯じゃぞ。それに引き換え庄屋の田植飯は、重箱に詰められた正月料理の如き御馳走じゃ。水口祭りの時に食ったであろう。同じ昼飯と言っても提灯と釣鐘の違いぞ。代わりに食えばいいなどと言える代物ではない」


 恵姫のあまりの剣幕に毘沙姫は頭を掻いて首を捻っています。寝起きでまだ頭がしっかり回っていなかったのは本当のようです。


「う~ん、確かにそうだな。しかし腹が膨れれば握り飯でも正月料理でも構わん。旅をしていれば数日間、何も食わずに山野を歩く時もあるのだ。何で腹を膨らますかはさして問題ではない」

「な、なんじゃと……」


 磯島の袂を掴んでいた恵姫の両手が力なく下に垂れました。


「納得されましたか、恵姫様。それでは女中を呼んで身支度をさせますので、これにて失礼致します」


 敷布団の上に両手両膝をついてがっくりと項垂れる恵姫を置いて、磯島は座敷を出て行きました。もはや口を利く元気もありません。重労働の田植え。次第に痛くなる足腰、気持ち悪い泥はね、照り付ける日差し、それらに耐えて苗を植え続けられるのは、ひとえに昼になれば庄屋の豪勢な田植飯を食べられるから、その楽しみがあればこそなのです。


「な、なのに、なのにじゃ。今年は庄屋の飯を食うことなく田植えをせねばならぬとは、何たる不運、何たる侘しさ、何たるやる瀬なさであろうか」

「おい、恵。元気を出せ。磯島の握り飯も美味いぞ」


 まるで他人事みたいに声を掛ける毘沙姫に、恵姫は腹が立って仕方がありませんでした。こんな事になってしまった原因は全て毘沙姫にあるのですから。


「元気を出せ、ではないわ。そもそもそなたが転がって来て、わらわの体に足を乗せたりするから、こんな目に遭ったのじゃぞ。責任を取れ、毘沙」

「いや、責任と言われても寝ている間の事だしなあ。なら私の分の握り飯をひとつやる。それでいいだろう」

「握り飯ひとつじゃと。そんな物が庄屋の豪華重箱田植飯の代わりになるはずがなかろう。馬鹿も休み休み言え」

「それはそうだが、だからと言って他にどうしようもないだろう」


 その通りでした。そして全責任を毘沙姫に負わせるのも間違っていました。磯島の要求を毘沙姫が了承するはずがない、そう思い込んだのは恵姫です。その思い込みが間違っていたからと言って毘沙姫を責める事はできません。

 そもそも恵姫と毘沙姫では食い意地の種類が違っていたのです。恵姫は美味い物への食い意地、毘沙姫は腹が膨れる物への食い意地。似通ってはいますが全くの別物でした。これだけ長い付き合いでありながら、そこに考えが及ばなかった恵姫の脇の甘さが、今回の悲劇を招いたとも言えるでしょう。


「あ~、庄屋謹製豪華飯、田植えと稲刈りの時にしか楽しめぬ庄屋の昼飯があ~」


 蚊帳の中で恵姫が嘆いている間に、女中が座敷にやって来ると、蚊帳を取り外し、敷布団や夜着を片付け、本日の田植え装束である早乙女姿に恵姫と毘沙姫を着替えさせ、朝食の膳を置いて座敷を出て行きました。膳の前には磯島が座っています。


「お早くお食べ下さい。田植えは日の出と共に始まっているはずでございます。今頃、黒姫様だけでなく間渡矢の娘たちも田にて働き始めておりますれば、手早く朝食を済ませて早々に城を立ち、手伝いに行かれませ」

「わ、分かっておるわい。はぐはぐ」


 田植えと稲刈りは一番人手が掛かります。この時ばかりは間渡矢の農民全員が手を貸し合って、全ての田植えを済ませていくことになっています。ただ恵姫が手伝うのは庄屋の田だけです。親類でもない者の田植えを、領主の娘に手伝ってもらうのは畏れ多いとの理由からです。


「それから、こちらの包みは私がこさえました本日のお弁当。握り飯だけでは力が出ぬと思い、昨日毘沙姫様がお田植え神事の役人より頂戴して参った若布の引張ひっぱり肴も入れておきました。もし庄屋殿から振る舞い酒などありましたら、一緒に召し上がってくださいね」

「おお、それは嬉しいな」


 毘沙姫は喜んでいますが、恵姫はちっとも嬉しくありません。


「酒の肴など入れてどうするのじゃ。わらわは酒を飲めぬと知っておろう」

「あら、そうでございましたね。ではお茶請けとして食べてくださいな。一応、吸筒も二本入れてあります。それからお福は行きませんよ。昨日のお田植えで相当疲れておりますからね。今日は半日休ませるつもりです」

「ああ、分かっておる、ずずっ」


 味噌汁をすすりながら一向に腹の虫が収まらない今朝の恵姫ではありました。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る