乃東枯その二 毘沙姫の足

「むにゃむにゃ、重いのう……」


 夏は短夜。涼しい夜はすぐに終わり、まだ寝足りないのに蒸し暑い朝がやって来ます。縁側の障子が開け放された恵姫の座敷にも、朝日が差し込み始めています。


「暑い、むむむ、暑いのう……」


 絶え間なく飛んでくる虫たちから身を守るために、座敷の天井に吊り下げられた大きな蚊帳。その蚊帳の中で眠っているのは恵姫ともう一人。


「重い、暑い……ああ、駄目じゃ。寝ておれぬ!」


 夢うつつのまま目を開けた恵姫。体を起こそうと思っても動きません。腹と胸の上に何かが乗っているのです。


「ゴー、ゴー」


 隣からは何やら洞穴を吹き抜ける風のような音が聞こえてきます。寝息です。毘沙姫が立てているのです。体に乗っているのは毘沙姫の両足なのです。


「くっ、毘沙の奴め。なんという寝相の悪さじゃ。蚊帳の端と端に布団を敷き、間に大剣を置いて離れて寝ておったのに、それを乗り越えてこちらまでやって来るとは。しかも何じゃこの寝息は。熊や獅子でもこれほどの寝息を立てる奴は居るまいに。ああ、そんな事よりこの足じゃ。重うて敵わぬ。早くどかさねば」


 恵姫は両手で毘沙姫の足を掴みました。しかし寝たままで力は入らず、しかも丸太のように重いのでビクともしません。


「ぐぐ、動かぬではないか。おい、毘沙、起きよ。いつまで寝ておるのじゃ。起きて足を除けてくれ」

「ゴー、ゴー」


 全く起きる気配がありません。どこでもすぐに眠れる寝付きの良さと、大地が揺れても目を覚まさない寝起きの悪さが毘沙姫の持ち味。恵姫が騒ぎ立てたくらいでは起きません。


「困ったのう。じゃから昨晩は酒を飲ますなとあれほど言ったのじゃ。昼にもしこたま飲んでおった癖に、お田植えが終わったわらわとお福に『城まで送ってやる。護衛の雁四郎は屋敷に戻っていいぞ』などと言って勝手に付いて来たと思ったら『送ってやったのだから酒を飲ませろ、今日はお田植えの目出度い日、目出度い日に酒を飲まずにいつ酒を飲む』などと磯島を言いくるめて、父上秘蔵の銘酒『灘五郎』を勝手に開けおって。その挙句がこれじゃ。持て成した主を足蹴にするとは許し難い振る舞いぞ」


 別に足で蹴られたわけではないので足蹴にはされていないのですが、毘沙姫のお行儀が悪い事は間違っていません。さりとて昨晩の酒飲みは恵姫にも責任があるのです。それというのも磯島の目を盗んで、毘沙姫の盃に注がれていた酒をこっそり舐めていたからです。酒は二十歳になってからという比寿家の家訓に背いたのですから、足を乗せられて動けないのは天罰と言えましょう。


「うー、うー、駄目じゃ。びくとも動かぬぞ。これは足ではなく本当に丸太なのではないか。控えの間に詰めておるはずの女中も『控えの女中は不要。居られると気になって眠れぬ。下がってよい。安心しろ。恵は私が守る』などと言って追い払いおって、その挙句がこれじゃ。こんな有様でよくもわらわを守っているなどと言えたものじゃな。あ~、重い、暑苦しい。毘沙、いい加減に目を覚まさぬか」

「ゴー、ゴー」


 毘沙姫の様子は以前とまるで変わりません。動かざること山の如し。山が眠るのは冬だけですが、毘沙姫は一年中眠るのですから始末に負えません。

 恵姫は体の上に乗っかっている足を拳で叩きました。人の肌とは思えぬ硬さです。丸太を叩いているような気になります。


「うう、こちらの手が痛くなってきたわい。毘沙の体はいったいどうなっておるのじゃ。此奴、本当に人なのか。おーい、誰かー。この足を退かしてくれー。おーい、おーい」


 万策尽きた恵姫は毘沙姫の両足の下で叫びました。自力での脱出が不可能なら誰かの手を借りるしかありません。


「おーい、おーい、誰か居らぬかー」


 返事はありません。こちらに近付いてくる足音も聞こえません。それでも叫ぶより他に手はないので恵姫は叫び続けます。


「おーい、誰かあー。おーい、磯島ー」

「何か御用ですか、恵姫様」

「……えっ?」


 驚きました。当たり前です。毘沙姫が寝ている反対側から、突然磯島の声が聞こえて来たのですから。顔を声の聞こえてきた方に向けると、蚊帳の外に磯島が座っています。


「い、磯島、そなた、そんな所で何をしておるのじゃ」

「何をしておるのじゃも何もありません。今、姫様は私を呼んだではありませんか。呼ばれたからここに居るのです」

「いや、確かに呼んだが、それにしても現れるのが急すぎるのではないか」

「たまたまでございます」


 たまたま……実に便利な言葉です。と言うか、どこかでこれと同じやり取りをした気がする恵姫です。確かあれは正月の三日目のこと……いや、今はそんな事を考えている時ではありません。哀れにも兜の下で喘いでいるキリギリスのようなこの状況を、何とか打開してもらわなくてはならないのです。


「い、磯島。頼む。この足を除けてくれ。重くて暑くて敵わぬのじゃ」

「無理でございます。毘沙姫様のお御足を持ち上げることなど、女中十人掛かりでもできようはずがありません」


 いや、いくら何でも女中が十人いれば足の一本くらい持ち上がるだろうと恵姫は思ったのですが、反論してどうなるものでもないので、別のやり方を提案します。


「誰も持ち上げてくれとは言っておらぬ。毘沙を目覚めさせてくれればいいのじゃ。此奴の朝の寝起きの悪さは折り紙付きじゃが、磯島ならばできぬ事もあるまい」

「そうですね。では」


 磯島は蚊帳を持ち上げて中に入ると、座ったまま毘沙姫の体に擦り寄って来ました。これでようやく楽になると安堵する恵姫。しかし磯島がそう簡単に恵姫の頼みを聞いてくれるはずがありません。毘沙姫の傍に座ったまま何もしようとしないのです。


「おい、磯島、何をしておる。早く毘沙を起こさぬか」

「ええ、分かっておりますよ。それで、そのお願いを聞いてさしあげる代わりに、姫様はこの磯島に何をして下さるのですか」

「何をって……ま、まさか、わらわに見返りを求めておるのか」

「はい」


 当然と言わんばかりに頷いています。駆け引き上手の磯島が恵姫に一泡吹かせる絶好の機会を利用しないはずがありません。


『人の弱みに付け込みおって。なんというずる賢さじゃ。さりとて毘沙が自然に目覚めるのを待つには辛すぎる。喉も渇き腹も減ってきたしのう。仕方あるまい、ここはひとまず磯島の出方を伺うとするか』


 恵姫は気を落ち着けると、いかにも何でもないような口調で言いました。


「ああ、そうじゃな。まあ、それほどまでに申すのなら助けてもらう見返りを差し出さぬでもないぞ。じゃが何をすれば磯島が喜ぶのが、わらわには見当も付かぬ。何かして欲しい事はあるか?」

「して欲しい事、でございますか。そうですねえ……」


 磯島は考えています。今回は何かの目論見を持って恵姫に見返りを求めたのではない様子です。これならば応じ難い注文を突き付けられることはなかろうと、若干安心顔の恵姫。やがて磯島が答えました。


「本日は庄屋殿の田植え手伝いのため、一日城の外へ出られるのでございましたね」

「ああ、そうじゃ。それを止めていつも通りお稽古事をしろと言うなら、しても構わぬぞ。その代わり黒が腹を立てて、城に怒鳴り込んで来るかもしれぬがな」

「いえ、これは毎年恒例のことゆえ、手伝って差し上げてくださいませ。それで、本日の昼の食事は田で取られるのでしたね」

「それも心配ない。昼は庄屋が田植飯を用意してくれる。こちらは手ぶらで行けばよいのじゃ。吸筒くらいは持参した方がよいかもしれぬがな」

「本日の恵姫様、毘沙姫様の昼の食事は磯島が用意します。庄屋殿の田植飯には手を付けぬようにしてくださいませ。それが姫様を助ける見返りでございます」

「な、なんじゃと。庄屋の飯を食うな、じゃと」


 思いもしなかった磯島の要求に、少々面食らう恵姫ではありました。

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