腐草為蛍その三 磯島の病

「なんじゃと、具合が悪いじゃと」


 朝食の膳を前にした恵姫は思わず大きな声を出してしまいました。膳を持って来た女中――羽根突きで初めて恵姫を負かした小柄女中――が言い難そうに説明します。


「磯島様は御気分が優れず、床より起き上がる事さえ叶わぬと申されております。僭越ながら本日は不肖この私めが恵姫様のお世話をさせていただきます」


 有り得ない事でした。朝晩の寝床の支度や片付け、八つ時のお茶などは他の女中が世話をする事はありました。しかし食事の時は磯島の体調がどれほど悪くても必ず傍に控えていたのです。それは恵姫の養育係を言い付かった時から、磯島自身も恵姫と共に食事をしていたからです。今では一緒に食事をする時もしない時もありますが、それでも必ず傍に控えて恵姫の食事の様子を見ています。食事作法もまたお稽古事のひとつだからです。


「昨日から様子がおかしいとは思っておったが、それ程までとはのう」


 お稽古事がなくなれば大喜びする恵姫も、今日ばかりは素直に喜べませんでした。手早く食事を済ませ、膳と一緒に小柄女中を下げさせると、今日一日をどう過ごすそうかと思案します。縁側に出れば湿った風。そろそろ梅雨に入っているのかもしれません。


「空には一面の厚い雲か。いつ降って来てもおかしくない空模様じゃ。昨日は思う存分浜遊びをして二日分の魚を釣り上げた事じゃし、取り敢えず昼までは寝て過ごすことにするかのう」


 そう言いながら座敷に戻った恵姫はすぐに廊下に出ました。向かうは勿論磯島の部屋です。


「まずは磯島の様子を見届けねばな。気分が悪いだの、床から起き上がれぬなど真っ赤な嘘。本当は部屋から出たがらぬほどに虫籠に執着しておるのじゃ。これでは磯島もわらわの絵草紙好きを笑えまい」


 磯島が恵姫の世話をしたがらないのは、虫籠を一日中愛でていたいから、恵姫はそう考えているのです。昨日、襖の隙間から覗いた磯島の姿を見ればきっと誰でもそう思ってしまう事でしょう。


「磯島~、入るぞ~」


 返事も聞かずに襖を開ける恵姫。予想に反して磯島は本当に床に就いていました。夜着に包まって横になっているのです。


「い、磯島、そなた本当に具合が悪かったのか」


 虫籠を眺めて喜んでいる姿を想像していた恵姫は、思いも掛けない磯島の様子に少し胸が痛みました。すぐに枕元に寄り、額に手を当てます。


「熱はないようじゃ。痛むところはあるか」

「これは姫様。御心配をお掛けして申し訳ありませぬ。元気がないだけでございます。寝ていれば時期に良くなりましょう」


 気丈に振る舞う磯島。恵姫にはそうは思えませんでした。青ざめた頬、目の下の隈、血色の悪い唇。何か悪い病に罹っているようにしか見えません。


「医者には診てもらったのか」

 弱々しく首を振る磯島。

「ならば呼んで来る。待っておれ」


 恵姫は奥御殿を出るとすぐさま表御殿へ駆け込みました。玄関で大声を張り上げます。


「厳左、厳左、おるか~。わらわじゃ。厳左がおらねば誰でも良い、早く参れ」

「こんな早朝から何事だ、騒々しい……おや、姫様。どうされた」

「厳左、磯島が大変なのじゃ!」


 しかめっ面をした厳左が玄関に現われると、恵姫は早口で事の次第を説明しました。話半分に聞いていた厳左もどうやら事態の深刻さが飲み込めたようです。


「あの磯島殿がお役目も稽古事も投げ出されるとは、余程お体の具合が優れぬのであろうな。分かった、すぐに医者を呼びにやろう」


 厳左の命で直ちに城下から御典医がやって来ました。医者の見立ては虚労きょろう、即ち心身共に弱っているので精の付く物を食べ、養生に努めれば自ずと回復する、との事でした。


「何かと心労を掛ける事が多かったのでありましょう。しばらくはお役目を忘れ御静養なされませ」


 そう言って御典医は帰っていきました。


「悪い病ではなさそうじゃ。今日はゆっくりと休むが良いぞ」


 看病のお福と共に磯島を励ます恵姫。その言葉が聞こえているのかいないのか、磯島は目を閉じて横たわったまま何の返事もありません。


「眠っておるのかのう。わらわは座敷に戻る。お福、済まぬが磯島の事、頼んだぞ」


 頭を下げるお福に任せて恵姫は立ち上がりました。と、その目に床の間に置いてある虫籠が映りました。二日前、蛍狩りの時に持参し、昨日磯島が見詰めていた虫籠、恵姫は何げなくその虫籠を手に取りました。


「こ、これは、如何なることじゃ……」


 その虫籠には何も居ませんでした。ただ小刀が一本横たわっているだけです。見覚えあのある小刀、それは二日前、川辺の草むらから磯島が拾ってきた小刀に違いありませんでした。


「信じられぬ、二日前に見た時から様変わりし過ぎておるではないか」


 恵姫はあの夜の事を思い出していました。雁四郎もお福もそして自分も、虫籠に蛍を集めてその輝きに見入っている時、川辺から戻って来た磯島は扇子の他に何かを手にしていたのです。


「雁四郎殿、提灯を渡してください」


 差し出された提灯を受け取った磯島はその覆いを取りました。覆いの下で燃えていた灯火が辺りをほんのりと照らします。その明かりの中に浮かび上がったのは小刀。古ぼけて刃も柄も欠け、赤錆に覆われたそれは、小刀というよりはただの棒にしか見えませんでした。


「磯島様、それは、拾われたのですか」

「そうです。美しい小刀でございましょう。蛍と共に虫籠に入れておきましょう。お福、籠を貸しなさい」


 美しい小刀と言われて不審な表情をする雁四郎。委細構わずお福の虫籠に小刀を入れる磯島。今、恵姫が手に持っている虫籠と小刀は、まさにその時の物。ひとつだけ違うのは小刀の赤錆がほとんどなくなり、二日前の磯島の言葉通り、美しい刀身が現われていることでした。


「妙じゃ。磯島が一日でこの小刀を磨き上げたとでも言うのか。もしそうならば何のために」


 恵姫はお福を見ました。お福も虫籠の中の小刀を見て奇妙に感じているようです。しかし恵姫同様、何故小刀の様子が変わっているのか、その理由は分からないようでした。となれば、あの夜のもう一人の同行者、雁四郎の意見も聞いてみたいところです。


「あるいは、磯島の体調の変化に、この小刀が何か関係しておるのかもしれぬのう」

 恵姫は虫籠を持って枕元に近付くと小さく声を掛けました。

「磯島、済まぬがこの虫籠、しばらくわらわに貸してくれ」


 眠っているのだから返事はないと知りつつも、一応断りを入れて持ち去ろうとする恵姫。その背中に思いも寄らない声が掛かりました。


「なりませぬ!」


 磯島の声です。振り向いた恵姫は血の気の引くような驚きと恐れに襲われました。床から起き上がった磯島がこちらに手を伸ばしていたのです。


「虫籠を、その小刀を持ち出してはなりませぬ。如何に姫様とて許すことはできませぬ。お返しください!」


 熱にうなされるような言葉を発し、ふらつく体で虫籠を掴もうとする磯島の姿は、もはやこの世の者には見えませんでした。


「わ、分かった。磯島。持ち出したりはせぬぞ。ほれ、元通りに置いておくからな。安心して休むが良いぞ」


 恵姫は急いで虫籠を床の間に戻しました。それを見た磯島は床に戻り横たわります。恵姫もお福もしばらく口が利けませんでした。今、目の前で起きた事が本当だとは思えなかったのです。


「磯島、一体そなたに何があったと言うのじゃ……」


 結局、恵姫はその日一日中、奥御殿の中に留まり続けました。昼前から降り出した雨音を聞きながら絵草紙を眺め、時々磯島の部屋を覗いて様子を伺う、そんな事を繰り返しながらその日は過ぎていったのです。

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