腐草為蛍その二 火太郎

「ここは母様父様のお屋敷……」


 磯島が立っていたのは京の都の外れにある屋敷の庭でした。嫁ぐまで母や父と過ごした思い出の地。そして夫と死に別れ間渡矢の城へ女中として入るまで過ごした懐かしい屋敷。二度と戻ることはあるまいと思っていた場所に磯島は立っていたのです。


「どうして、私はこんな所に……」

「こんにちは」


 声を掛けて来たのは幼い童でした。墨染の小袖に裏柳色の袴。磯島にとっては初めて見る童、にもかかわらずその姿は、嫁ぎ先に置いてきた我が子に似ているように思えました。


「そなたは誰ですか。何故このような場所に居るのです」

「名は……ほたろ……」

「ほたろ……火太郎ほたろうですか。もしや与太郎殿と同じく後の世から来たのですか」


 磯島の問いには答えず、火太郎は虫籠を差し出しました。


「これに光を集めてください。出来るだけ多く」


 気付けば磯島の手には受け取った覚えのない虫籠が乗っています。火太郎の袴が黄緑色に光り始めました。


「これ、火太郎、光を集めろとはどのような意味なのです。何故私にこのような頼みごとをするのです」

「お願い致しましたよ、磯島様」


 次第に輝きを増していく光はやがて火太郎を包み込みました。その余りの眩しさに磯島の目は閉じられ、再び目を開けた時には見慣れた天井板が見えていました。


「夢、だったようですね」

 そこは四畳半の座敷でした。女中頭の磯島に与えられた小さいながらも床の間のある座敷です。

「火太郎……」


 磯島が思い出せたのはその名だけでした。つい先ほどまで見ていたのに、どんな夢を見ていたのか、もうほとんど覚えていません。磯島は夜具から起き上がると床の間の前に座りました。そこには昨晩蛍狩りに使った虫籠が置いてあります。


「ああ、なんて事でしょう。たった一晩で……」


 虫籠の中を覗いた磯島は嘆きの声を上げました。眠りに就くまで座敷を仄かに照らしていた蛍が全て骸になっていたのです。


「一匹も残らず死に絶えてしまうとは、それほどまでに弱っているようには見えなかったのに」


 何も生きていない虫籠を見る磯島は、貰ったばかりの玩具を壊してしまった幼子のようでした。磯島は明り取りの窓に近付くと、障子を開け、虫籠の中の骸を窓の外へと落としました。骸がなくなった虫籠の底にあるのは一匹の蛍が導いた錆だらけの小刀、まるで我が家を得た主のような揺るぎない威圧感を帯びて鎮座する小刀でした。


 * * *


「どうじゃ、磯島。なかなかの出来であろう」


 自慢顔で花入れを押し出す恵姫。本日の午前のお稽古は生花です。何の考えもなく突っ込んだだけの抛入なげいれ花、風情も気品もあったものではありません。


「そうですね……」


 磯島は目の前に突き出された花を黙々と手直ししています。いつも聞かされる小言も泣き言もすっかり影を潜めています。


『なにやら今日の磯島はいつもと違うのう。まるでわらわなどここに居らぬかのように振る舞っておるではないか』


 その違和感は朝起きた時から始まっていました。夜着を片付ける時も、朝の支度をする時も、朝食の間も、そして今も、磯島はほとんど口を利かず、その目には何も映らず、その耳には何も聞こえず、ただ与えられた役目をこなす人形のように見えていたのです。


「そうですね、では分からぬであろう。きちんと『恵姫様の生けるお花には感服致しました。もはや教える事は何もございません。生花のお稽古は本日で終了と致します』と言わぬか。多少の世辞ならば許すぞ」

「はい……」


 力なく返事をする磯島。恵姫の冗談も全く通じていないようです。


『やはりおかしい。こんな腑抜けた磯島を見るのは初めてぞ。これでは与太郎以下ではないか』


 さすがの恵姫も少々心配になってきました。昨日までとは違い過ぎる磯島の態度、昨夜から今朝の間に磯島の身に何か良からぬ事が降り掛かったとしか考えられません。


「磯島、どこか具合でも悪いのではないのか。それとも気掛かりでもあるのか。わらわで良ければ話してみぬか、相談に乗ってやるぞ」

「いえ、別に……」


 磯島は手を入れ直した花入れを恵姫の方へ押し戻しました。適当に突っ込まれていただけの花は見事に生け直されています。


「これにて本日のお稽古事は終わりと致します」


 静かに頭を下げる磯島。驚く恵姫。それもそのはず、まだ朝四つの時太鼓も鳴ってはいないのですから。普段はお稽古事を怠けるためにあれこれ悪事を考える恵姫も、まさか磯島自らがお稽古事を怠けて良いと言い出すとは夢にも思いませんでした。


「い、磯島よ。そなた本気で申しておるのか。昼までにはまだ一刻以上あるのじゃぞ。早すぎるのではないか」

「長く稽古すれば上手くなるものでもございません。失礼致します」


 生花の道具を手に持ち座敷を出て行く磯島。残された花入れを眺めながら、恵姫は釈然としない思いに囚われていました。 


「何かある。磯島め、一体何を企んでおるのじゃ。これは探りを入れる必要があるな」


 恵姫は座敷を出ました。忍び足で廊下を進みます。目指すは磯島の座敷。他の女中に気取られないように注意深く周囲を伺い、恵姫は磯島の部屋の前に着きました。襖に耳を当てると微かな物音。磯島は中に居るようです。


『お稽古事を切り上げて何をしておるのか、わらわが突き止めてやる』


 用心深く襖を開けました。その隙間から中を覗き込みます。磯島は床の間の前に座っていました。手に何か持っています。


『あれは虫籠ではないか。しかも空じゃ。何故あのような物を……いや、空ではないな。何か入っておる』


 磯島は愛しい幼子を抱きしめるように虫籠を持ち、見詰めています。その虫籠の中には小刀――昨晩、磯島が草むらの中から拾い上げた小刀が入っているのでした。恵姫は襖を閉めました。忍び足で自分の座敷へ戻ります。


「どうやら磯島は虫籠を好いておるようじゃな。なるほど、一刻も早くあの虫籠を眺めたくて稽古事を終わらせたのか。虫だけではなく籠まで愛でるとは、どこまで虫馬鹿なのじゃ」


 結論が出ればこれ以上頭を悩ませるのは無駄な行いです。さっそく恵姫は城を出て海辺へ向かいました。昼に一旦戻り、昼過ぎからは夕暮れまで、その日は思う存分浜遊びに興じたのです。


 * * *


「ここは……京のお屋敷。私は戻って来たのですね」


 磯島はまたも懐かしい風景の中に立っていました。間渡矢に来てから一度も帰っていない生まれ故郷。その地に自分は立っているのです。


「磯島様」


 声が掛かりました。黒と黄緑で装われた童、火太郎です。


「おお、火太郎。私は集めましたよ。そなたの言葉通り、光を沢山集めました。これでそたなの望みは叶えられたのでしょう」


 磯島は虫籠を持っていました。眩しいばかりに薄緑の光を放つ虫籠、火太郎は嬉しそうにそれを受け取りました。


「ああ、どうしてそのような事が……」


 磯島の口から落胆の声が漏れ出ました。先程まで虫籠から放たれていた光、それが火太郎の手に渡った瞬間、燃え尽きた灯火のように弱まり、やがて消えてしまったのです。光を失った火太郎の頬には暗い陰が落ちていました。


「足りないのです。磯島様。これではまだ少なすぎるのです。もっと光を集めてください」

 気付けば磯島の手には虫籠が乗っています。火太郎の袴が黄緑色に光り始めました。

「お願い致しましたよ、磯島様」


 袴の光に包み込まれるように火太郎の姿は消えました。残されたのは輝きを失った虫籠、そしてその中に横たわる小刀……それはもう以前の小刀とは別物のように見えました。覆っていたはずの赤錆はほとんど消え、鈍い光を放つ刀身が現われていたからです。

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