麦秋至その二 芽久姫
「磯島に付き合っていただきありがとうございました。先日のお稽古事お休みの際の約束、これで果たしていただいた事になります。後は姫様の好きになさいませ」
磯島は不機嫌でした。せっかく丹精込めて施した化粧も、恵姫の女心を目覚めさせるには至らなかったのですから無理もありません。そそくさと化粧道具を箱に詰めています。
「そうか、ご苦労であったな。約束を果たせてわらわも肩の荷が下りた心地じゃ。これで本日の麦刈りも心置きなく励めそうじゃわい。くは~」
親の心子知らず、磯島の心恵姫知らず。美しくなった自分の容姿に何の感動もできないまま、化粧されている間にすっかり固くなってしまった体を、伸びをしてほぐす恵姫です。
「そうそう、今日はお福の同行はありませんよ。麦刈りは重労働、体の強くないお福に無理をさせたくありませんから。それと、くれぐれも申しておきますが、お福が居ないからと言って羽目を外すような振る舞いは控えてくださいましね」
「分かっておる。わらわももう子供ではないのじゃからな」
自信たっぷりに返答する恵姫を冷ややかに眺めながら、磯島は化粧箱を持って座敷を出て行きました。
一人になった恵姫は開け放しになっている縁側の障子を閉めました。これから外出するのですから戸締りは当然です。次に座敷の隅に置いてある物入れに近付くと、そこから手鏡を取り出しました。キョロキョロと辺りを見回し、鏡に顔を向ける恵姫。
「ふむ、こうして見ると、わらわもなかなかに可愛らしいではないか。馬子にも衣装とはよく言ったものじゃ。この愛らしさで城下を歩けば、誰もがわらわの姿に釘付けであろうな。ふっふっふ」
そうです。磯島の目論見はある程度は当たっていたのです。先程の人形とか棺桶とかは、恵姫の照れが言わしめた心にもない言葉。本当は磯島に施された化粧効果によって、恵姫の中にもお淑やかな感情が芽生え始めていたのです。
「そうじゃ、確か物入れの中にはアレも入っておったはず……」
手鏡を放り出して物入れの中を漁り始めた恵姫。しばらくして何やら取り出すと頭に乗せました。まるで揚羽蝶が頭に止まったかのような被り物、純白の揚げ帽子でした。放り出した手鏡をもう一度手に取り、自分の姿をまじまじと眺める恵姫。
「おお、なんと愛らしいおなごじゃ。これを被るともはや別人ではないか。人に会うのが楽しみになってきたわい。まずは雁四郎じゃな」
手鏡を物入れに戻すと恵姫は座敷を出ました。「行って参るぞ」と声を掛けて奥御殿を飛び出し、中庭を突っ切り、表御殿の玄関まで行くと大声で叫びます。
「おーい、雁四郎、待たせたな。庄屋の屋敷へ行くぞ」
しばらくして廊下を歩いてくる音が聞こえてきました。姿を現したのは雁四郎です。一月前、苗代田作りを手伝っていた時と同じ野良着姿で腰には脇差を帯びています。
「恵姫様、お待た……」
雁四郎の言葉はそこで途切れました。恵姫の前で棒立ちになっています。が、すぐに丁寧な口調で目の前の娘に話し掛けました。
「し、失礼致しました。人違いをしていたようです。あの、どちらからお越しいただいた姫様でしょうか」
『ほほう、雁四郎め。わらわとは気が付いておらぬようじゃな。ここはひとつからかってやるか』
恵姫の顔が悪い表情になりました。また良からぬことを企んでいるようです。
「お、おっほん。わちきは恵姫の遠い親戚、
どうやら別人に成りすまそうとしているようです。しかし言葉遣いが有り得ないくらい不自然なのと、いきなり遠い親戚なんかがやって来るはずがないので、雁四郎も恵姫の嘘にすぐ気が付くでしょう。
「左様でございましたか。拙者は雁四郎、本日の警護と麦刈りの助っ人を任されております。少々遅れておりますので、すぐに出発致しましょう」
全然気が付いていません! 雁四郎は若い娘を見慣れていないので、化粧と揚げ帽子と言葉遣いだけで完全に騙されてしまったようです。
『くくく、雁四郎も存外間抜けであるな。これでは与太郎と似たり寄ったりではないか』
心の中でほくそ笑む恵姫。もちろん表情にはそんな気配は全く見せません。こうなったら悪のりは更に度を増します。
「お待ちください、雁四郎様。わちきは武勇に名高い厳左様にもご挨拶がしたいのでありんす」
「ご家老様ですか。分かりました。しばしお待ちを」
雁四郎は表御殿の奥へと急ぎます。雁四郎が騙せたのだから厳左も騙せるはず、恵姫はわくわくしながら厳左がやって来るのを待ちました。
「……芽久姫様、はて、聞いたことがないが……」
声が徐々に近づいてきます。ほどなく玄関に姿を現した厳左。恵姫の姿を見て目を丸くしています。
「こ、このおなごは……」
「先ほど申し上げました芽久姫様でございますよ、ご家老様」
「そちが厳左か。わちきは恵姫の遠い親戚の芽久姫でありんす。代わりに麦刈りに行くでありんす」
厳左は目を見開いたまま絶句しています。完全に言葉を失っています。
「如何なされました、ご家老様」
「んっ、いや……時に雁四郎、お主は心の底からこのお方を芽久姫様と思っておるのだな」
「はいっ! そのように申されたのですから、間違いありません」
厳左は苦笑いをして首を振りました。それから恵姫に向かって言いました。
「芽久姫様、麦刈りは辛い仕事、無理はせぬように。それからその化粧、よく似合っておる。では、わしはこれにて」
厳左は軽く頭を下げて表御殿の奥へと戻って行きました。
「さあ、拙者たちも出掛けると致しましょう、芽久姫様」
雁四郎に促されて歩き出す恵姫。厳左の反応は恵姫にとっては物足りないものでした。
『厳左め。これほど愛らしい姫を前にしたのなら、もう少し喜んでも良さそうなものじゃがのう。口を半開きにして突っ立ったままで何を考えておったのじゃ。あの態度、どうにも釈然とせぬわ。それでも最後に化粧が似合うておると褒めておったから良しとするかのう』
厳左も騙せたようなので、それなりに満足している恵姫です。
こうして二人は庄屋の屋敷を目指して歩き始めました。恵姫は日頃のお転婆ぶりを封印し、雁四郎の後ろを三歩下がってしずしずと歩いて行きます。
城門を出て山道を下り始めても間を開けて付いてくるので、雁四郎が困った顔で言いました。
「芽久姫様、それだけ離れて歩かれては、いざ何かあった時にお守りすることができませぬ。もう少し拙者の近くを歩いていただけませぬか」
「そ、そんな……殿方の近くに身を寄せるなど、恥ずかしゅうてできないでありんす」
とても恵姫の口から出た言葉とは思えません。女というのは恐いものです。その気になれば完全に別人に成り切れるのですからね。
「う~む、困りましたなあ」
「そ、それでは手をつないで歩いてみては如何でありんすか」
近くに寄るよりも手をつなぐ方がよっぽど恥ずかしい行為であるのは自明の理。ここで普通の男ならば恵姫の嘘に気が付くはずですが、いきなり手をつながれた雁四郎はすっかり舞い上がってしまい、正常な思考ができなくなったようでした。
「え、お、あ……手、手をつなぐなど、いえ、あの……」
「離さないでくださいでありんす」
恵姫に自分の左手を固く握り締められた雁四郎。息は乱れ、頬は上気し、薄っすらと額に汗まで浮かべています。
『ふん、武士ともあろう者がなんという恥ずかしい姿を晒しておるのじゃ。若いおなごに手を握られたくらいで、ここまで己を見失うのか。雁四郎の緩んだ顔を見ておると無性に腹が立って来るわい。先日の水口祭、最後に残った桜鯛の一夜干しを巡って、わらわと毘沙が命懸けの争奪戦を繰り広げた折、間に割って入った雁四郎の足と言わず手と言わず、掴んで殴って引っ掻いてやった時には顔色ひとつ変えなんだ癖に、今のこの情けない有様は一体何なのじゃ。あの時と今と、握っている手は同じなのじゃぞ』
確かに同じなのですが、雁四郎は同じだと思っていないのだから仕方がありません。恵姫の腹立たしさとは裏腹にすっかり
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