第二十四話 むぎのとき いたる
麦秋至その一 お化粧姫
「今日で四月も終わりか。そろそろ暖かさを通り越して暑くなる頃じゃのう」
開け放した障子の向こうに広がる初夏の景色を眺めながら、今朝も恵姫は座敷でゴロゴロしていました。いつもならばこの時間は、朝食が済んでお稽古事が始まるまでのほんの束の間のひと時。あまりのんびりとはしていられません。けれども今日はゆっくりと寛いでいます。お稽古事がお休みだからです。
「先日、お福と二人で麦畑に行った時にはよく実っておったのう。これならば今年も黒が美味い菓子をたんまり作ってくれるじゃろうな」
恵姫の頭の中には、雀の
庄屋と比寿家は親類ということもあり、人手が必要な時には恵姫も手を貸すことになっています。今日の麦刈りは朝からお手伝いです。その為に午前のお稽古事はお休みになったのでした。
「姫様、そろそろ支度をしてくださいませ」
知らぬうちに磯島が座敷に上がり込んでいます。他の女中は襖を開ける前に必ず何らかの合図をしますが、磯島だけは何の前触れもなく座敷に入ってきます。恵姫が「磯島くノ一説」を捨てきれない理由はここにあります。
「そうじゃな、そろそろ出掛けるとするか。雁四郎は来ておるのか」
「既に表御殿にて待機しているはずでございます。さてと」
磯島が恵姫の前に箱を置きました。蒔絵が施された漆塗りの立派な箱です。恵姫は起き上がって座布団に座ると、その箱をじっくりと眺めました。
「これは……化粧箱ではないか」
如何にお転婆と言っても一応恵姫も娘です。自前の化粧道具くらいは持っているのです。ただし普段はほとんど化粧をしません。晴れの日は浜へ行くので化粧をしてもすぐ落ちるし、雨の日はどうせ一日御殿に居て誰にも会わないのだから、化粧などしても仕方ないと言い張るからです。結局、化粧をするのは正月か、あるいは何か改まった儀式がある時くらいで、自分の化粧箱も磯島に預けっ放しになっているのです。
「どうしてこんな物を持って来るのじゃ。今日は麦刈りに行くのじゃぞ。化粧などしても意味がないであろう」
「そう言って毎日化粧をせずにこれまで過ごされてきました。その歳月こそ意味がなかったのでございます」
今日の磯島は妙に強気です。強風が吹く時は柳のように逆らわず受け流すのが一番。恵姫は黙って磯島の話を聞きます。
「年頃のおなごならば、たとえ人目に触れずとも身だしなみに気を付けるのは当たり前の事。姫様はこれまで余りにも無頓着すぎたのでございます。先日の初物筍試食会の時、どうあっても姫様に婿養子を取らねばならぬと厳左殿と意見をひとつにしました。ならば普段の身だしなみにもそれ相応の気配りが必要かと存じます」
「うむ、まあ、それはそうじゃが。だからと言って麦刈りの日に化粧などせずとも……」
「何を仰っているのです。麦刈りの為に城の外へ出られるからこそ化粧が必要なのです。数日前、あの雀――確か名は飛入助ですね――あの雀が嘴を赤くして縁側に飛んできた時、私は思ったのでございます。こんな雀でさえ嘴に紅を差している、それにひきかえ恵姫様は色気のいの字もない。なんとかせねばならない、と」
あの時、芍薬の花びらを嘴にくっ付けた飛入助を見ながらぼんやり突っ立っていたのは、そんな事を考えていたからなのかと、今更ながらに合点がいく恵姫です。
「いや、待て磯島。言っておくが飛入助は雄じゃぞ。嘴が桃色だったのも何も己を飾り立てるためではなく、単に花びらと戯れた結果……」
「今は姫様の話をしているのです。雀の話はどうでもよいのでございます!」
大変な剣幕です。雀の話を持ち出してきたのは磯島の方なのに、自ら否定しています。どうやら今の磯島は論理的思考を少々欠いているようです。
「普段の浜遊びはともかくとしても、城下へ出られるのならば、お化粧をしていただきたく存じます。数日前、雀の事で黒姫様と相談する為にお稽古事をお休みにしました。その時、約束したはずです。磯島に付き合って欲しいと。このお化粧がその付き合いです。どうあっても今日はお化粧をしていただきます」
ああ、そう言えばそんな約束をしたなと思い出す恵姫です。約束をした以上、付き合わない訳にはいきません。それに絵草紙を取り上げるとか、浜に行ってはいけないとかなら頑強に抵抗もしますが、化粧くらいならば大して苦にもなりません。ここは素直に従うのが上策、恵姫は快諾しました。
「相分かった。本日は磯島の好きにするが良いぞ」
ようやく恵姫に聞き入れてもらえた磯島の頬は、紅を差したように喜びの色に染まりました。すぐさま化粧箱の蓋を開けます。
「まずは、そうですね、
恵姫は目を閉じ、何も言わず、磯島の好きにさせていました。その瞼の裏に映るのはまな板の上の鯛。
『わらわがいつも食っていた鯛どもも、きっとこのような心地で捌かれていたのであろうなあ。これからはもう少し優しく捌いてやるとしようぞ』
一体どれくらいの間、磯島に弄ばれていたことでしょう。知らぬ間に恵姫は眠ってしまっていたのですが、肩を叩かれて目を覚ましました。
「姫様、最後の仕上げでございます。目を開けてくださいまし」
「ふあ~、もう終わったのか」
眠そうに目を開ける恵姫の前には蛤を手に持った磯島。
「ほう、蛤の酒蒸しか。麦刈りの前に精を付けよと言うのじゃな」
「食べるのではありません。これはお紅蛤貝です」
磯島は蛤を開けました。貝の内側は両面緑色に塗られています。
「何じゃ、この色は。今、紅と言わなんだか。どう見ても緑色ではないか」
「まあ、見ていてくださいまし」
磯島は水差しの水で右手の薬指を濡らすと、蛤の内側をすっと刷きました。
「おおっ!」
驚いたことに濡らした部分は紅色になっています。磯島の薬指も紅色です。
「じっとしていてくださいまし」
そのまま薬指を恵姫の唇に付ける磯島。なにやらこそばゆい気持ちになる恵姫です。考えてみれば正月の装いの時には毎年白粉を塗られていますが、唇に紅を塗られることはありませんでした。幼い時から食い意地が張っていて、塗っても全て舐めてしまうので塗らなくなってしまったのです。
「さあ、終わりましたよ。姫様、ご覧ください」
磯島が恵姫の前に手鏡を向けました。そこに映る自分の顔を見て恵姫は息を飲みました。それはまさしく絵草紙に描かれた平安の世の貴族でした。自分とはまるで別人に見えます。
「こ、これが、わらわか……」
美しく化粧された自分の姿に驚く恵姫を見て、磯島が微笑みました。
『これで姫様は自らを装う事に興味を抱くはず。どんなに男勝りでも所詮はおなご、美を求める気持ちは必ずあるはず。そして着飾ることを覚えればお転婆もお行儀の悪さも自ずと影を潜め、姫様は品の良い淑女へと変貌を遂げられる。そうなれば婿養子など、いとも容易く迎えられるというもの。ふっふっ』
比寿家の安泰と存続に心血注ぐ磯島らしい目論見です。が、次の恵姫の一言が磯島のやる気を一挙にへし折ってしまいました。
「これはまた何という不気味さじゃ。まるで魂のない人形と同じではないか。あるいは死化粧を施されて棺桶に入れられた……」
「縁起の悪い事を仰るのはおやめください!」
恵姫の気質をまだまだ把握できていないなと、改めて思い知らされる磯島ではありました。
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