小満

第二十二話 かいこおきて くわをはむ

蚕起食桑その一 でか雀

「ヒナを拾って今日で十日目。遂に本格的な雨となったか。腰もまだ痛むし、気が重い一日になりそうじゃわい」


 筍狩りの翌日は朝から雨でした。朝食を取った恵姫は、昨晩ようやくお福から返してもらった絵草紙「伊瀬生真鯛蒲焼」を手に、座敷でごろごろしています。


「今日の稽古事が休みになったのはいいが、こんなモノを押し付けられては満足に書も読めぬわ」


 こんなモノとは雀のヒナです。昨日、このヒナを守るために我が身を投げ出した恵姫。その傷がまだ癒えぬうちにお稽古事を始めるのは、如何に教育熱心な磯島でもできませんでした。よって今日のお稽古事はお休み、その代わり、いつもはお福の役目である午前のヒナの世話を恵姫がすることになったのです。


「本日の昼は間渡矢城の重臣たちと共に筍料理の会食となります。その準備でお福も含め奥御殿は大忙し。ヒナにかまっている暇などありませぬ。本日のヒナの世話は姫様にしていただきとうございます」


 こう言われては恵姫も断れません。朝食が終わって持ち込まれたヒナに、今日は一日中付き合う事になったのです。


「餌をやったばかりなので今は大人しくしておるが、しばらくすればまた騒ぎ出すのは目に見えておる。もう餌はないし、困ったものじゃ」


 十日前にヒナを拾ってから、俄雨はあっても本降りになることは一度もありませんでした。しかし、今日は止みそうにない雨が朝から降り続いています。手元にあった餌は全てヒナに与えてしまいました。このままでは雨の中へ餌を探しに行かなくてはなりません。


「大好きな釣りとて雨の日には行わぬと言うのに、何が悲しくてこんな食う事しか能のない阿呆ヒナの為に、雨の中、地べたを這ってミミズを探さねばならんのじゃ。忌々しいにも程があるわい」


 そう思うと、せっかく返してもらった絵草紙を眺めても、まるで楽しくありません。気分は優れず腰も痛む、最悪の状態の今日の恵姫です。


「あの、入ってもよろしいでしょうか」


 突然、襖の向こうから声が聞こえました。女中の声ではありません。一瞬、おやっと思った恵姫ですが、声の主が誰かすぐに分かったので、興味なさげに答えました。


「構わぬ、入れ」

「失礼します」


 襖を開けて入って来たのは与太郎でした。恵姫は寝っ転がったまま話し掛けます。


「おや、お主ひとりで来たのか。与太郎が来たと言うのに、誰もわらわの元へ知らせに来ぬとはな」

「うん、何だか今日はすごく忙しいみたいで、自分一人でめぐ様の座敷に行けって言われちゃったんだ」


 おどおどしてもじもじしながら、居心地悪そうにしている与太郎です。破廉恥で横暴で我儘な恵姫と二人きりなのです。緊張するなと言う方が無理な話でしょう。今日は何をさせられるのかと、内心ビクビクしているはずです。


「しかし、なんじゃな与太郎。最初の頃はお主が来ただけで大騒ぎをしておったのに、今では軒先に雀が飛んできた程度の扱いじゃ。わらわもいちいちほうき星が昇っているか確認する気にもなれぬ。慣れとは実に恐ろしいものじゃな」

「ははは」


 与太郎は笑うだけです。下手な返事をしてご機嫌を損ねては大変です。とにかく笑っておけば波風は立たないはず、与太郎もそんな思考ができるほどに世渡り上手になってきたようです。


「で、今日は鯛焼きをいくつ持って来てくれたのじゃ」

「えっ、鯛焼きは不味いから食べたくないって言っていたでしょ。もう買ってないよ」

「そうか、では今日は何を持って来てくれたのじゃ」

「えっと、その……何も持って来ていません」

「ちっ!」


 恵姫の舌打ちが聞こえてきます。どうやら気分を害してしまったようです。


「間渡矢の領主の屋敷に手ぶらでやって来るとはのう。礼儀を知らぬおのこじゃ。しかもここで昼と夕を食って行くつもりであろう。厚かましいにも程があるぞ、与太郎」

「えへへ。あ、でも僕の時代の日付とか時刻はちゃんと覚えて来たよ。今日は僕の時代では五月二十日。でも旧暦だと四月十四日になるよ。時間はまだ十時過ぎくらいだったかなあ。この時代の言い方だと巳の刻くらいかな」

「ほう、同じ日の同じ時に来ておるのか」


 前回与太郎が来た時に、こちらとあちらで季節が同じだと聞いたので、もしや日付や時も同じなのではないかと恵姫は推測したのです。


『思った通りじゃ。与太郎が遡る年月は常に一定なのじゃろうな。向こうで十日過ごしてこちらに来れば、こちらも十日経っておるのじゃ。それにどんな意味があるのかは分からぬが』

「えへへへ」


 黙って考え込む恵姫の前で、何も考えずに笑う与太郎。その阿呆面を眺めている内に恵姫は妙に腹が立ってきました。


「何を呑気に笑っておるのじゃ。与太郎。そもそもお主、最近たるんでおるのではないか」

「えっ、たるんでいるってどういう意味?」

「浪人生活を早期に脱却し、おふうが奉公している大名に仕官できるように道場に通っていると申していたではないか。夜中や早朝にここへ来るのなら分かるが、こんな昼前にやって来るとは、お主、今日は道場に行かずに己の部屋に籠もって怠けていたのであろう」


 鋭い指摘でした。世渡り上手になってきた与太郎は、うまい言い訳を捻り出そうと考えを巡らせたのですが、さっぱり思い浮かばず、正直に白状します。


「えっと、その通りです。今日は雨が降っていたので外に出るのが面倒になっちゃって、図書館へ行くのは止めて、自室で勉強していました」

「雨を言い訳にするとは何事ぞ。雁四郎を見ろ。あの稽古馬鹿は雨の中でも喜んで木刀を振っておるぞ。あそこまで馬鹿になれとは言わんが、少しは見習え、与太郎」


 自分も雨の日には浜へ行かないのを棚に上げて酷い言い草です。さりとて与太郎自身、自分の軟弱さを自覚しているので、反論せずに笑って誤魔化します。


「えへへへ」

「えへへ、ではないわ。お主のその腑抜けた根性、わらわが叩き直してやる」


 そう言って恵姫はようやく起き上がると、鳥籠を与太郎の前に置きました。


「実はお福が雀のヒナを拾ってのう。わらわと二人で世話をしておる」


 雀と聞いて与太郎は驚きました。通常の倍くらいの大きさがあったからです。


「えっ、スズメのヒナ? でかっ! これヒナじゃなくてもう普通にスズメでしょ。って言うか普通のスズメよりも大きいよ、これ」

「うむ、昨日、雁四郎からそう言われて、わらわもお福も初めて此奴の大きさに気付いたのじゃ。間違いなくでかい、体だけでなく態度まででかい。お福が可愛がり過ぎたのが原因じゃな」


 鳥籠の中のヒナは既に羽毛も生えそろい、もはやヒナとは言えない程に親雀と変わりない姿になっています。与太郎はまじまじとでかい子雀を見詰めました。


「それで、この子雀がどうかしたんですか」

「実はな、これだけ大きい癖に此奴はまだ満足に飛べぬのじゃ。従って己の力で餌を取ることもできぬ。わらわやお福が食わせてやらねばならぬのじゃ」


 大きい癖に飛べないんじゃなくて、大きくて体が重すぎるから飛べないんじゃないかなあ、と与太郎は思いました。思うだけで口にはしませんが。


「そうなんですか。でも雀って雑食だから何でも食べるでしょう。朝ごはんの残りとかを食べさせればいいんじゃないですか」

「それが、此奴はヒナの頃から虫やミミズしか食わぬのじゃ。わらわやお福が米粒を練ったものや麩をふやかしたものを口に押し込んでも、嫌がって吐き出しよる。今は大人しくしておるが、やがて餌をくれとピーピー鳴き出すであろう。ところが餌はもうない。外に探しに行かねばならぬ」

「はあ、そうですか」


 まるで他人事のような与太郎の言い方に、少しむっとする恵姫です。どうやら自分に降り掛かろうとしている災難がまだ分かっていないようです。


「そうですか、ではないわ。鈍いおのこじゃ。与太郎、お主が外へ行って此奴の餌を探して来い。ミミズ、羽虫、青虫、生きていればなんでも食うぞ。さあ行け!」

「えっ、この雨の中を、僕が、ですか?」


 思わぬ恵姫の命令に、豆鉄砲を食らわされた鳩のようにあたふたする与太郎ではありました。

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