竹笋生その五 戻ったもの

 ヒナは相変わらずお福の手の平でピーピー鳴いています。筍の刺身を賞味して良い気分になっていた恵姫も、少々鬱陶しさを感じ始めました。


「餌を貰っているくせによく鳴くのう。お福、何とかならぬのか」


 お福は困った顔をしています。見れば餌を包んでいた懐紙の上にはもう何も残っていません。全部与えてしまったようです。


「なんと、あれほどあったのにもう食い尽くしてしまったのか。雀の世の毘沙とでも言うべき大食いじゃな。ああ、気にするなお福。わらわが探してきてやるぞ。そなたは座ってヒナの面倒を見ておれ」


 これも勿論、お福の機嫌取りです。食後の重い腰を上げてお福から懐紙を受け取る恵姫。


『あんな食う事しか能のないヒナのために働くのは癪じゃが、これも絵草紙のためじゃ。我慢、我慢』


 恵姫は竹林の中を這うようにして餌になりそうな物を探し始めました。ヒナは相変わらずピーピー鳴いています。お福はなんとかなだめようとしていますが、まるで言う事を聞きません。腹が減った時の恵姫そっくりです。

 困ったお福は立ち上がると、大きく背伸びをして両手でヒナを持ち上げました。赤ん坊をあやす母親のようにヒナを動かして気を紛らわせようとしたのです。しかし、それは逆にヒナの野生の本能を目覚めさせたようでした。腹が減って辛抱できないと言わんばかりに、突然ヒナが羽ばたき始めたのです。


「あっ!」


 お福が声を上げるのと同時に、ヒナは手の平を蹴って空に舞い上がりました。力強い羽ばたき、しかし所詮は初めての飛行、すぐに浮力を失って滑空しながら高度を下げて行き、恵姫のすぐ近くに落っこちました。


「ほう、飛べるではないか。そろそろ己の力で餌を探してみてはどうじゃ」


 竹林の中、初めて飛んだ雀のヒナ、筍を賞味して満足顔の人々。それは初夏によく見られる長閑で有り触れた場面のひとつに過ぎません。けれども思わぬ出来事というものは、そんな時に起きるものなのです。

 ガサリ、と、竹林の奥で音がしました。そしていきなり何者かが飛び出してきたのです。その場所の一番間近に居た雁四郎が叫びました。


「猪だ!」


 皆、一斉に顔を向けました。猛然と突き進む猪は明らかに雀のヒナを狙っています。誰もが遠すぎました。雁四郎も毘沙姫も黒姫もお福も磯島も小柄女中も。

 ただ一人、恵姫を除いては。

 毘沙姫が叫びます。


「恵、立て、逃げろ!」


 言われるまでもなく恵姫は立ち上がっています。けれども逃げはしませんでした。猪の進む方へ、バタバタと小さな羽を動かしているヒナの方へ、その身を躍らせたのです。


 どしり、と、鈍い音がしました。


 猪の前には体を丸めた恵姫が倒れています。ヒナを助けるために自らの体を投げ出したのでした。動きを止められた猪は一旦下がり、もう一度襲い掛かろうと前足で土を掻いています。


「姫様!」

「恵!」


 雁四郎と毘沙姫が同時に得物を抜きました。すぐに駆け出そうとする二人、しかし、黒姫がそれを制しました。


「待って、あたしに任せて」

 その手には既に小槌が握られていました。持ち上がる髪、先端の白い発光、そして黒姫の言葉。

「召す!」


 竹林に響いたその声が消えないうちに、猪は恵姫の傍から消え、黒姫の前にうずくまって現れました。小槌で自分の頭を叩き、神妙な顔付きで猪に手を当てる黒姫。しばらく後、その顔にようやくいつもの笑顔が戻りました。


「そっか~、筍を全部取られるんじゃないかと心配になっちゃったんだね。大丈夫だよ。あたしたちはこれ以上取らないから。お詫びに筍を少しあげるね」


 黒姫は筍を二本取り出すと、猪に咥えさせました。それで満足したのか猪は素直に竹藪の向こうへと消えて行きました。


「恵姫様!」


 六人は地に倒れたままの恵姫の元へ駆け寄りました。何かを守るように体を丸めて横たわっています。


「お怪我はありませんか、恵姫様」


 雁四郎が尋ねると、恵姫はゆっくりと顔を上げました。


「あ、ああ、大丈夫じゃ」


 その声を聞いて、皆、一様にほっとした表情になりました。無傷ではないにしても命に関わるような大怪我は負っていないようです。


「申し訳ござらぬ。拙者が付いていながらこのような事になるとは」

「気にするな、雁四郎。猪の突進など厳左とて止めるのは無理じゃ、それよりも……」


 恵姫はお福を見ると、にっこりと笑って両手を掲げました。そこには雀のヒナが優しく包まれています。


「お福、心配せずともよい。ヒナは無事じゃ、傷一つない。よかったのう、よかったのう」


 差し出された恵姫の手からヒナを受け取ると、お福は深々と頭を下げました。そして鳥籠に戻した後、恵姫の顔に付いた土を丁寧に拭き取りました。まるで自分の我儘を拭い去ろうとでもしているかのように、まるで我を張って恵姫を危険に晒した自分自身を責めているかのように……


 * * *


「あ痛たたた、猪め、思い切りぶつかりおって」


 夕食を取りながら恵姫は顔をしかめました。牙で突かれるようなことはなかったものの、体当たりを食らった腰の辺りは赤く腫れていました。結局、筍狩りはそこで終了し、恵姫は毘沙姫に背負われて帰城したのです。


「あのようなヒナに情けを掛けるからです。捨て置けばよいものを」


 膳の向こうに座っている磯島の冷たい言葉です。ヒナよりも恵姫の体の方が大切なのですから、磯島にとっては当然の考え方でした。


「咄嗟のことでな。無意識に体が動いたのじゃ」


 恵姫にとっても自分の行動は理解しがたいものでした。あんなに鬱陶しく思っていたヒナを助けるとは、今でも信じられない気持ちなのです。


「野良猫も三日も飼えば情が移ると申します。お福も姫様も、あのヒナを我が子のように感じ始めているのでしょう。その点に関してだけは、磯島、嬉しゅう思いますよ」

「我が子か。そうじゃな、馬鹿な子ほど可愛いと言うからな。知らぬうちにあのヒナに情が芽生えておるのかもな」


 和やかな雰囲気の中で夕食が終わると、すぐに夜具が準備されました。体が痛むので無理をせず、今晩は早目に床に就くことにしたのです。


「今日は疲れたのう。ぐっすり眠れそうじゃわい」


 夜着に包まって横になると静かに襖が開きました。障子を透かして差し込む夕焼けがお福の姿を浮かび上がらせています。恵姫は布団の上で半身を起こしました。


「なんじゃ、お福……ああ、今晩はそなたが控えの番か。別に挨拶は要らぬぞ」


 お福は立ち上がると控えの間ではなく恵姫の元へやって来ました。左手には鳥籠を、そして右手には四角い何かを持っています。


「お福、それは……」


 お福は恵姫の傍に座ると、それを恵姫に差し出し深く頭を下げました。


「返してくれるのか、お福。これを、わらわに」


 顔をあげたお福はにっこりと笑っています。それはもう心の中に何のわだかまりも持たない、以前のままのお福の笑顔でした。


「ようやく許してくれたのじゃな。礼を言うぞ、お福」


 今度は恵姫が頭を下げました。それが再び自分の手元に戻って来たことへの感謝。そしてお福が以前の優しさを取り戻してくれたことへの感謝、恵姫は心底嬉しいと感じました。

 お福は軽く頭を下げると、鳥籠を持って控えの間へと歩いて行きました。恵姫は渡されたものをしっかりと胸に抱きしめました。


「おお、ようやく返って来たか。体を張ってヒナを助けた甲斐があったというものじゃ。嬉しすぎて目が冴えてしまったわい。このままでは眠れぬのう」


 そして行燈の明かりを灯すと、腰の痛みも忘れてさっそく返してもらったばかりの絵草紙『伊瀬生真鯛蒲焼いせうまれまだいのかばやき』を読み始める恵姫ではありました。

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