蚯蚓出その四 大漁の予感

「恵姫様、そろそろお目覚めください。姫様、姫様!」


 誰かが体を揺らしています。心地よく眠っている恵姫にとっては実に耳障りな声です。


「むにゃむにゃ、まだ眠いのじゃ。寝かせろ」


 今朝は夜が明ける前に城を立ち、間渡矢の港まで歩いて来たのです。おまけに船の上で大漁祈願の舞い、港を出てからは舳で仁王立ち。これだけ働かせておいて眠るなとは酷すぎる、よって、まだまだ眠っていてもいいのだと勝手に理由を付けて眠り続ける恵姫です。


「姫様、鯛でございます。美味そうな鯛がおりますよ」

「た、鯛じゃと!」


 鯛の一言で目を覚ます恵姫。思い通りの反応に笑みを漏らす網元。この自分勝手我儘娘と、伊達に長年付き合って来たのではありません。網元も要領は心得ているようです。


「どこじゃ、脂が乗って丸々太った美味そうな鯛はどこにおるのじゃ」

「潮目を見ますれば、この辺りかと」


 網元の言葉を聞いて恵姫はすっくと立ち上がり海上を見回しました。船はすっかり沖合に来ています。どの船も漕ぐのを止め、指揮船の指示を待っている状態でした。


「どれ、少し探ってみようかのう」


 邪魔になる額の釵子さいしを外し、海面を見詰める恵姫。その髪は持ち上がり、先端は淡い青色に発光しています。


「このままもう少し先に進んでみよ」

「承知しました。漕ぎ方始め!」


 髪の先端を光らせたまま海面を見詰め続ける恵姫。大漁の女神とは単なるお飾りの呼称ではありません。恵姫の力を使えば陸と同じく海中をも見通せるのです。これにより魚群を的確に捉え、最も効率的な海域に網を仕掛けることが可能になります。


「右じゃ。向きを右に変えよ」

「舵、卯面に取れ!」


 船に取り付けられた和磁石羅針盤は十二支方位です。船首が子、右は卯、左が酉になっています。

 恵姫の指示に従い指揮船は航行を続けます。姫の力をこのような商業目的に利用する事は本来ならば禁則事項です。しかし頻繁に行うのでなければ、斎主宮も大目に見ているのが実情でした。今回も間渡矢での大漁祈願の儀礼として、年一回だけ利用するということで許されているのです。

 やがて、海面を見詰めていた恵姫が顔を上げました。


「ここじゃな。網を張るならばここじゃ」


 その言葉を聞いた網元は髭だらけの顔をにっこりさせました。


「私も同じ見立てです。さすがは姫様。漕ぎ方止め!」


 用は済んだとばかりに腰を下ろす恵姫。使っていた力は僅かでしたが、時間が長かったのでさすがに疲れています。


「網船、網を下ろせ!」


 網元の声を聞いてどの船も賑やかになってきました。いよいよ本番だ、そんな活気に満ちた雰囲気が漂い始めています。二隻の網船は恵姫の指示した海域を中心として、大きな弧を描きながら網を下ろしていきます。やがて網は大きな円となって魚群を取り囲みました。


「網を下ろし終われば追い込みだ。網を絞れ!」

「おう、始まるか、皆の衆、力を合わせて網を引くのじゃぞ」


 休んでいた恵姫が急に元気になりました。どうやら網の中で暴れる鯛の気配を感じているようです。再び右手に鈴、左手に扇子を持って、舳で振り鳴らしています。

 引き船の動きが止まると雁四郎と毘沙姫は櫂を置きました。網引きにも加わるつもりなのです。


「雁四郎、網船に移るぞ」

「はい。しかし、移るにしてももう少し近付かねば……うわ、何を為されます!」


 毘沙姫は雁四郎の体を右手に抱えると空高く飛び跳ねました。反動で揺れる引き船、まるで鳥のように網船に向かって空を飛ぶ二人。


「どうっ!」


 掛け声と共に見事に着地を決めた毘沙姫。飛び移った先の網船は大きく揺れ、網を下ろしていた者たちの顔には、驚きを通り越して恐れの色が浮かんでいます。何より一番顔色を失っていたのは雁四郎でした。毘沙姫が体を放すと、そのまま船底に倒れ込みました。


「き、肝を冷やしましたぞ、毘沙姫様。姫の力で無茶をする時は拙者まで巻き込まず、一人でなさってください」


 咎めたくなるのも無理はありません。引き船から網船までは約十間。それだけの距離を人ひとり抱えて飛んだのですから。危険極まりない振る舞いです。


「姫の力? いや、力は使っていない。あれしき誰でも飛べるであろう」


 雁四郎の顔から更に色が失われました。あれが通常の力、では姫の力を使えば一体どれほどの事を……雁四郎はそこで考えるのを止めました。


「これを引けば良いのだな、それ」


 毘沙姫は網を両手で掴むと、力一杯手元に引き寄せました。途端に大きく傾く網船。勢い余って海に落ちた者もいます。恵姫ががなり立てました。


「こりゃ、毘沙。力を入れ過ぎじゃ。網の一部だけ引いてどうする。皆と息を合わせて引かぬか」

「なんだ、面倒だな」


 結局、毘沙姫は左手だけでゆるゆると引いています。少し冷めた感じの毘沙姫とは対照的に、鯛漁船団の熱気は最高潮に達していました。雁四郎も網を引く者も網元も、大きな手ごたえを感じていたのです。今年一番の、そして申し分ないほどの大漁は間違いない、誰もがそう感じていました。


「そりゃ引け、やれ引け、鯛じゃ、鯛じゃ」


 恵姫は扇子を振り、鈴を振り鳴らして舳で踊っています。海に響き渡る男たちの掛け声、力強く絞られていく大網、揺れる船、船側を洗う波。二隻の網船が近付いて行くにつれ、その間の海面が沸き立つように波打ち始めます。そして、弾けるような波飛沫の中から、それは遂に姿を現しました。


「おお、これは……」


 引き上げられた網の中で踊る魚たち、その光景は網元から言葉を失わせるのに十分な迫力でした。想像通り、いや想像以上の大漁です。


「さあ、捕れ、捕れ!」


 生船の者たちが掬い網で鯛を上げ始めました。毘沙姫と雁四郎は網を放すと、生船に乗り込んで掬う側に回ります。誰も彼も笑っています。手も足も踊っています。掛け声は歓喜しています。久しぶりの大漁の喜びが、作業の辛さを楽しさに変えているのです。


「鯛じゃ、鯛を食わせろ!」


 先ほどから喧しいくらいに叫んでいる恵姫のために、生船の一人が指揮船に向けて鯛を一匹投げてよこしました。


「おお、気が利くではないか」


 握り飯の入っていた袋から、今度は包丁を取り出す恵姫。まだピチピチしている鯛の頭を叩いて大人しくさせると、後は一気に捌いていきます。


『今年も包丁を持参されたか。捕ったばかりよりも少し寝かした方が美味いのだが』


 と網元は思うのでしたが、毎年のことなので見て見ぬ振りです。


「美味い、美味いぞ~」


 涙を流さんばかりに喜んで食べているので、つい声を掛けてしまう網元。


「よろしゅうございましたな。恵姫様」

「最後に鯛を食ったのは花見の時。実に一月ぶりなのじゃ。我慢した後の御馳走の美味さは格別じゃわい」


 七隻の船に乗る者たち全員が忙しく働いていると言うのに、平気で鯛を食べる恵姫。この図太さ、女にしておくのは実に惜しいと改めて感じる網元です。


「おい、あれは何だ」


 することが無くなって暇になっている引き船の者が南の海面を指差しました。そこだけ海の色が青黒くなっているのです。鯛を掬っている者以外は、皆、そちらに目を遣りました。海中に何か居るようです。

 と、突然吹き上がる白い潮、海面に現れた巨大な尾びれ。その光景を目の当たりにした者全員が同じ言葉を叫びました。



「く、鯨だあー!」

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