蚯蚓出その三 鯛網船団出港

 その日は朝から快晴でした。目の前に広がる青い海、白い波、青い空、白い雲。間渡矢港は島羽港に次ぐ志麻国二番目の良港。その港は早朝から多くの漁船でひしめき合っています。全て鯛漁に出る漁船です。どの船にも色取り取りののぼり旗が掲げられ、それらが風に揺られる様は賑やかなお祭りのようです。


「恵姫様、ようこそお越しくださいました」


 迎えるのは網元です。間渡矢で唯一大網を持っている漁民です。日頃は個別に船を出す漁民たちも、網漁の時は網元に雇われ漁に参加することになります。今日は雁四郎と毘沙姫もそのひとりなのでした。


「うむ、天気は良し、風も良し、波も良し、本日は大漁間違いなしであるな」


 網元に迎えられた恵姫がまとう装束は、竜宮城の乙姫の如き艶やかさです。垂れ髪の額は釵子さいしで飾られ、薄紅の唐衣に浅紫の切袴。左手に扇、右手に鈴。日頃のお転婆はすっかり鳴りを潜め、しずしずと指揮船に乗り込んで行きます。


「始めようぞ!」


 舳に立った恵姫の合図で、岸辺から太鼓と笛の音が聞こえてきました。曲に合わせて舞いを披露する恵姫。船出に先駆けて行われる大漁祈願の舞いです。


「こうして見ておりますと、さすがは神に仕える姫という感じが致しますな」


 引き船に乗り込んでいる雁四郎が隣の毘沙姫に話し掛けました。二人とも腰蓑を着け、額には鉢巻、そして毘沙姫はこんな時でも大剣を背負っています。


「恵の舞いか。滑稽だ。あれはかなり適当にやっている」

「適当……誠ですか、毘沙姫様」


 大漁祈願の舞いを見るのは初めての雁四郎です。改めて恵姫を見てみると、手や足の動きがちぐはぐで、ぎくしゃくしていて、優雅さとは程遠いものでした。どうやら普段とは違う雅な装束に惑わされていたようです。


「姫は皆、伊瀬の斎主宮で一通り舞いを習うのだ。恵は最初から最後まで下手だった。変わらんな」


 毘沙姫は愉快そうに眺めています。きっと毘沙姫様も満足に舞えないのだろうなあと、理由もなく思ってしまう雁四郎でした。

 それでもそんな先入観なしに眺めれば、それなりに様になっている恵姫の舞いです。港に集まった人々は賞賛の眼差しで恵姫の舞いに見入っていました。


「お見事でございました、恵姫様」


 舞い終わった恵姫を褒める網元。沸き起こる拍手。満足顔の恵姫。きっと今年も上出来の舞いであったと思っているのでしょう、引き船に乗る雁四郎と毘沙姫に向かって、どうだと言わんばかりに鈴を持った右手を突き出しています。


「それでは今年最後の鯛網漁の船出じゃ。皆の衆、景気良く行こうぞ!」


 恵姫の威勢のいい声。本来は網元が声を掛けるのですが、今日は恵姫にその役目を譲っています。恵姫の掛け声に合わせて一斉に湧き上がる鬨の声。勇ましい事この上もありません。恵姫は自分の心が大いに沸き立つのを感じました。


『うむ、これほどわらわに忠誠を誓えるならば、やがて来るであろう島羽城攻略とて、必ずや成功するに違いない』


 まだまだ野望は捨て切れていないようです。


 大切なお役目が一段落した恵姫とは違って、雁四郎と毘沙姫はここからが本番です。二人とも櫂を持ち引き船の上で気合いを入れます。


「漕ぐぞ、雁四郎」

「はい」


 二人を乗せた船が動き始めました。が、とんでもない方向へ動いて行きます。雁四郎が声をあげました。


「毘沙姫様、力を入れ過ぎです。それでは真っ直ぐ進みませぬ。他の漕ぎ手に合わせて漕いでくだされ」

「ああ、すまん。初めてなのだ。勝手がわからぬ」


 姫の力を使わなくても怪力の毘沙姫です。左右に分かれた漕ぎ手の一方だけ力が入れば、反対方向へ曲がって行き、船は円を描くだけになってしまいます。結局、毘沙姫は左手一本で漕ぐことになりました。


「毘沙の奴、相変わらずの馬鹿力のようじゃな。まあ、それでも居らぬよりマシじゃ。網引きの時には存分に働いてもらうことにしようぞ」


 恵姫は網元と一緒に指揮船に乗っています。この船は潮の流れを見てどこで網を降ろすか決める役目を担っており、船団の先頭を進みます。その後に雁四郎と毘沙姫を乗せた二隻の引き船。これは網を積んだ二隻の網船を沖まで引っ張って行く船です。また引き網をしている時には網船の錨の役目もします。そして最後には二隻の生船。網にかかった魚を掬い上げ港まで運ぶ船です。これら合計七隻の船が沖合目指して進んで行くのです。


「網元よ、生船が二隻とは少ないのではないか。例年三隻は出ておろう」

「今年は特に漁獲が少ないのです。一隻目すら余裕を残したまま帰港する日がほとんどでした。もちろん本日は恵姫にお越しいただいておりますれば、二隻目が満杯になるのは間違いないと思っております」


 網元の言葉は浮かれていた恵姫の心に若干の影を落としました。昨年から続いていた不作と不漁は今に至るも続いている、その事実を改めて突き付けられた気がしました。しかし大漁の女神である自分が暗くなっていては始まりません。恵姫は右手の鈴を鳴らしながら、明るい声で言いました。


「その通りじゃ。わらわが乗っておるのじゃから、今日は今年一番の大漁になろうぞ。二隻の生船だけでなく、網船も引き船もこの指揮船も、活きのいい鯛で溢れ返らせて港に戻ることになるであろうな」


 自信満々な恵姫の言葉に、髭だらけの網元の顔には喜びが滲み出ています。


「海の女神となられた恵姫様の御告げとあらば、此度の大漁は約束されたも同然でございますな。さあ、皆の衆、力を入れて漕がれよ、漕がれよ」


 網元も気合いが入ってきたようです。雁四郎も毘沙姫も息を合わせて船を漕ぎます。

 やがて七隻の鯛網漁船団は間渡矢湾を出ました。ここからは南の熊野灘へと進路を向けます。黒潮が流れる海域は好漁場のひとつ。網元は潮を見ながら船を進めていきます。

 港を出てどれほど経ったでしょう。既に日は高く昇り、舳に立ちっ放しの恵姫もさすがに疲れてきました。


「少し小腹が減ったのう。どれどれ」


 恵姫は扇子と鈴を置くと、持参した袋から包みを取り出しました。磯島お手製の握り飯です。さっそく広げて食べ始めます。


「海の上で食う握り飯は格別であるのう」


 七隻の船に乗る者たち全員が忙しく働いていると言うのに、平気で飯を食べる恵姫。網元も他の漁民たちも見て見ぬ振りです。


「ほう、海鳥か。もぐもぐ」


 数羽の鳥が海面近くを舞っています。見て見ぬ振りをしていた網元も聞かぬ振りはできぬようで恵姫に教えてあげます。


水薙みずなぎ鳥ですな。繁殖地以外の陸には上がらぬ海鳥です。この辺りに鰯などがおるのかもしれませぬな」


 ならば鳥に食われる前にわらわたちが鰯を捕らえるのじゃ、と言いたかった恵姫ですが、船団を組んで移動中のこの状況では、さすがにそれは憚られました。大人しく握り飯を食い、吸筒の茶を飲みながら、海面に漂う水薙鳥を眺める恵姫。ふと昨日、中庭で見つけた雀のヒナが思い出されました。


『今頃、お福は大変であろうな。餌を探しそれをヒナに与えねばならぬ。頻繁にお役目を中断せねばできぬであろう。あれで強情なところがある娘じゃから、磯島も注意しにくかろうて』


 鳥籠のヒナに餌を与えているお福に、何も言えず渋い顔をする磯島、その姿を想像するだけで、恵姫は何とも愉快な気持ちになるのでした。

 波を掻き分け進む船は揺りかごのように揺れます。腹は満ち、日差しは暖かく、波音は子守唄のように耳に囁きかけてきます。これはもう眠りなさいと言われているようなものです。恵姫は欠伸をしました。


「ふあ~、今年はいつになく長閑であるのう」


 自分の欲望に忠実な恵姫は当然のように眠ってしまいました。力を奮う男たちのただ中で呑気に眠れる恵姫の胆力、女にしておくのは実に惜しいとしみじみ感じる網元ではありました。

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