蚯蚓出その五 鯨丸齧り
「なんじゃと、鯨!」
ちょうど鯛を食べ終わった恵姫は、皆が見ている海面に目を遣りました。今はもうその体の一部は海の外に出て、ゆったりとした早さで動いています。網元も少々驚いているようです。
「あれは座頭鯨ですな。滅多に見られぬ大型の鯨です。皮膚にあまりフジツボが付いておりませぬゆえ、まだ子……おや、恵姫様、どうかなされましたか」
恵姫の様子がどうも変です。船べりで齧り付くように鯨を凝視し、手も体も小刻みに震え、口からはよだれも垂れているように思われます。
「くじら、くじら、遂にわらわの前に姿を現しおったか。待っておった、待ちかねたぞ鯨よ。さあ、正々堂々遣り合おうではないか。その美味そうな体、わらわが食い尽くしてやる」
「あ、あの恵姫様……」
恵姫の髪が持ち上がっています。その先端は青白い発光。嫌な予感しかしない網元です。
「くじらあ~!」
雄叫びを上げて恵姫は指揮船を飛び出しました。海面を飛び跳ねながら鯨に向かって一直線に進んで行きます。
「恵姫様、お戻りくだされ! 姫様あー!」
船団に響き渡る網元の叫び声。誰もが手を止めて鯨を見ると、浅黒い鯨の背中に恵姫が張り付いています。
「恵、あの馬鹿!」
毘沙姫は掬っていた手網を放り投げると、隣の雁四郎を右手で抱きかかえました。
「えっ、毘沙姫様、何を、うわー」
再び毘沙姫が空へ飛び上りました。今度は指揮船に飛び移ります。
「おい、この船を鯨に寄せろ。ここからでは遠すぎて飛べぬ」
雁四郎を投げ捨てて網元に詰め寄る毘沙姫。しかし網元は首を横に振ります。
「それは無理というものです。不用意に近付けば鯨の起こす波で転覆しかねませぬ」
「姫様、恵姫様―、戻ってくださーい」
雁四郎が呼び掛けますが、そんな声が恵姫に届くはずがありません。鯨は身を捩るようにして上体を宙に投げ出しています。恵姫が背中を齧っているので、それを振り払おうとしているのでしょう。
「いかん、鯨が潜るぞ」
背中を丸めた鯨が潜水を始めたようです。大きな尾びれを海面に出したかと思うと、そのまま見えなくなってしまいました。
「お助けせねば」
雁四郎は腰蓑を取り平袖の上衣も脱ぎ捨てました。褌一丁で海に飛び込むつもりです。しかし網元がそれを制しました。
「雁四郎殿、無茶はおやめください。到底助けられるものではありません」
「しかし、このままでは」
その時、突然、海面に水柱が立ち上がりました。轟く爆音と共に水柱の下から姿を現す鯨。打ち上げられた花火のように垂直に空高く伸びあがって行きます。
「恵め、力を使ったな」
毘沙姫が言うまでもなく、それは一目瞭然でした。背中に張り付いている恵姫の髪は完全に扇形に広がり、全体が青く発光しています。海水を使って鯨を宙に跳ね上げたのでしょう。
「わははは、食われろ。観念してわらわに食われるのじゃ~!」
恵姫の雄叫びが船まで聞こえてきます。すっかり覇気を喪失してしまた雁四郎は、脱ぎ捨てた上衣を拾って再び身にまといました。まだまだ恵姫の事を分かっていないなと思いながら。
「それにしても恐ろしいほどの鯨への執念。何があれほど恵姫様を駆り立てているのでしょう」
「鯨の丸齧りは恵の夢だからな。まあ放っておくか、食い飽きたら戻って来るだろう」
呑気に会話をする網元と毘沙姫。先程までの緊張感はすっかりなくなってしまいました。しかし最も警戒せねばならないのは、そんな風に誰の心にも油断が生まれた時なのです。
「お、おい、あれを見ろ。鯨がもう一頭いるぞ」
遠くで舞い上がる白い吹き潮。間違いなく鯨のものです。その姿が海面に現れた時、誰もが息を飲みました。
「こ、これは、親鯨だ」
子鯨の数倍はあろうかと思われる超大型の鯨が、ゆっくりと、しかし着実に恵姫が張り付いている鯨に近付いて行きます。
「恵姫様、親鯨です、お逃げください!」
大声を上げる雁四郎。聞く耳持たぬ恵姫。親鯨は子鯨のすぐ傍まで来ると、胸びれを使って上体を宙に投げ出しました。
「恵姫様―!」
親鯨の体は子鯨にかぶさり、胸ひれで恵姫を叩き落としました。そのまま海へと転がっていく恵姫。同時に大波が押し寄せて船を揺らします。
「恵、力を使え!」
毘沙姫が叫んでも恵姫は動きません。力なく波間を漂っているだけです。
「これはいかん、気を失っておられるのだ」
網元の言葉を聞いて雁四郎は再び上衣を脱ぎ捨てました。しかし、その体はすぐに力強い腕で拘束されました。
「離してくだされ、姫様が」
叫ぶ雁四郎。網元はその腕でがっちりと雁四郎の体を抱えています。
「何をなされるおつもりなのです。先程よりも事態は悪化しているのですよ」
「親鯨が来るぞ!」
どうやら余程頭に来ているようです。親鯨と子鯨がこちらに向かって進んできました。網元は大声を上げました。
「網船、網の回収を急げ。それ以外の船は漕げ。漕いで鯨から遠ざかれ」
「な、何を申される、恵姫様を見捨てられるのか」
「このままでは船ごと鯨に壊されます。一旦、退く以外に手はありますまい」
それは網元として当然の決断でした。如何に恵姫といえども、大勢の民の命を犠牲にしてまで助けることはできません。雁四郎は唇を噛みしめました。そして、力一杯網元の腕を振り解くと、海に向かって飛び込みました。
「雁四郎殿、おやめなされ!」
「姫様、すぐにお助けいたしますぞ」
荒れる波をものともせず、恵姫向かって泳ぐ雁四郎。網元も上衣を脱ぐと海に飛び込みました。波間に揺れる恵姫は完全に意識を失っているのか、びくりとも動きません。
「くそ、どいつもこいつも手が焼ける」
それまで能面のように無表情だった毘沙姫の顔が怒気に彩られ始めました。背中の大剣を抜き両腕で構える毘沙姫、その髪は持ち上がり、赤く発光を始めています。
「どうっ!」
掛け声一番、毘沙姫は船底を蹴って飛び上りました。二度雁四郎を抱えて飛んだ、その数倍の高さにまで舞い上がると、大剣を振り上げ大声を発します。
「斬!」
振り下ろした大剣は空を切り裂き、海を切り裂き、船と鯨の間に大きな溝を作りました。二頭の鯨の体が剥き出しになっています。
「打!」
今度は横に大剣を薙ぎ払いました。巻き上がった大風は海面を打って大波を起こし、二頭の鯨をあっと言う間に沖へと運び去ってしまいました。
「ふっ……」
空から無事に船へと着地した毘沙姫は、大剣を元通りに背中の鞘へ納めました。全ては毘沙姫が空に跳ね、船に下りるまでのほんの僅かな時間の出来事でした。
「これが、毘沙姫様の力……」
誰もが初めて目にする伊瀬の姫衆随一の怪力、毘沙姫の本当の姿でした。
「お~い、引き上げてくれ」
海から声がします。海面に漂う三人、網元と雁四郎が恵姫を指揮船まで引っ張って来たのです。
甲板に寝かされた恵姫はぐったりとしています。息はありますが、まだ意識は戻りません。雁四郎が辛抱強く呼び続けます
「姫様、恵姫様!」
「う、う~ん、むにゃむにゃ」
やっと口を利きました。皆、安堵の息をつきます。
「く、鯨、まだ食い足りぬわ、く、食わせろ……」
安堵の息は呆れた溜息に変わりました。同時に船中に笑い声が起きました。どうやら恵姫は無事のようです。
「さあ、後は間渡矢に戻るだけだ。皆、港に着くまで気を抜くでないぞ!」
「おうー!」
網元の言葉を受けて、船首を間渡矢に向ける漁民たち。生船には捕れた鯛やその他の海の幸が溢れんばかりに積み込まれています。文字通りの大漁でした。
「ご苦労だった、雁四郎」
毘沙姫から労いの言葉を掛けられて、雁四郎は少し照れました。
「いえ、毘沙姫様こそ、大層お疲れになられたでしょう」
毘沙姫はそれには答えず、西に傾きかけている陽を見ながら言いました。
「恵は海に愛されている。海の獣に倒される事はあっても、海で命を落とす事は決してない。覚えておけ、雁四郎」
陽に照らされた毘沙姫はまるで軍神のように雁四郎の目に映りました。そして姫についてもその力についても、まだまだ知らないことばかりだと、雁四郎は思うのでした。
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