蛙始鳴その三 文の力

「おや、あれは厳左ではないか」


 中庭に出て来た恵姫の目に最初に飛び込んできたのは、池のほとりに佇む厳左です。


「丁度良いわい、探す手間が省けた。お~い、厳左」


 池目掛けて駆け出す恵姫。厳左は紙袋を持っています。どうやら池の鯉に餌をやっているようです。


「これは姫様。何か御用ですかな」

「うむ、本日は不義理の日であろう。そちに不義理状を渡そうと思ってな」


 厳左の顔が緩みました。毎年貰う不義理状に大した違いはありません。文面もほとんど同じです。それでも恵姫が手渡しで文を渡してくれる、それだけで妙に嬉しくなるのです。


「有難く頂戴致そう」


 厳左は紙袋を懐に仕舞うと、恵姫が差し出している文を受け取りました。折り畳んだ紙を開くと、魚の絵が描かれています。


「これはまた見事な真鯉だな」

「違うぞ、厳左。それは赤鯛じゃ。年のせいで目が弱ってきたのではないか」


 苦笑いをして続きを読む厳左。こんな事が書かれていました。


『厳左、毎日の城内のお勤めご苦労である。そなたあっての比寿家じゃ、感謝しておるぞ。奥御殿の賄い費用を四苦八苦して捻出してくれていること、誠に有難いと思っておる。もう少し銭を多く回してくれれば、もっと有難いのじゃがのう。毎日の池の鯉の餌やり、ご苦労である。そなたのおかげで鯉どもは丸々と太っておる。そこで相談なのじゃが一匹わらわにくれぬかのう。捌いて美味そうな洗いにした暁には、厳左にも半分は食わしてやるぞ。あらあらかしこ』

「断る!」


 即答です。池の鯉を眺めながらよだれを垂らしていた恵姫は、鯉の洗いを味わう夢から覚めたような目で厳左を見ました。


「うむ、一分の隙もない決断の速さ、さすがは城代家老厳左であるな。右手の具合はどうじゃ。まだ痛むか」


 新田の候補地を下見に行き、瀬津姫と一戦交えたのが半月前。厳左の右手にはまだ白い布が巻かれています。


「かなり良くなっておる。もう半月もすれば箸を握り、更に半月もすれば刀も握れるであろう。ご心配痛み入る」


 厳左は軽く頭を下げると、手に持った文を丁寧に折り畳んで懐に仕舞いました。


「そうか、無理をするでないぞ。ところで雁四郎はどこじゃ。彼奴にも不義理状を書いてあるのでな」

「今日は南の裏門で番をしているはずだ。昼飯もそこで食うから、行けば会えよう。ところで姫様、その油紙、中の文はまだ何通かあるようだが」

「うむ、雁四郎の後は黒と毘沙にも渡すつもりじゃ。今日は衣替えじゃからな、二人とも野良仕事には行かず屋敷に居るであろう」


 厳左の顔が曇りました。お福が居ないところを見ると、どうやら恵姫一人で城外に出るつもりのようです。


「一人で庄屋の屋敷に行くのは危険すぎる。瀬津姫に我らの行動を漏らした者とて、まだ判明はしておらぬのに」


 それを聞いた恵姫の顔も曇りました。瀬津姫に襲われた日、すぐに城に戻った厳左によって、新田候補地下見の件を知っている者全ての調査が行われたのでした。城内の者、城外の者、それぞれについて怪しい人物が数名浮かんだのですが、確実にそうだと判断できるだけの証拠は見つかりませんでした。そしてそのまま今に至っているのです。


「なあに、水に近寄らねば大丈夫じゃ。今日は雨が降る心配もないしのう」

「領内に潜んでいるのは瀬津姫だけとは限るまい。それでも行くと言うなら雁四郎を供に付けよう」

「雁四郎は裏門の番であろう。居なくなっては困ろうが」

「城内見回り番を裏門の番にし、見回りはわしがすることにしよう。今日は役方の任もないし、天気が良いので外の方が気持ちがいい」


 珍しく親切だなと恵姫は感じました。危険と判断すれば頑強に城外へ出るのを阻止するのがいつもの厳左です。もしかしたら恵姫に不義理状を貰った事で、心が少し和らいでいるのかもしれません。

 話がまとまった二人は連れ立って南の裏門へ向かいました。丁度、昼食を終えた雁四郎が、門の前に腰を下ろして吸筒から水を飲んでいるところでした。


「こ、これは恵姫様、ご家老様」


 慌てて立ち上がり頭を下げる雁四郎。恵姫は近寄ると、文を取り出しました。


「受け取れ雁四郎。今日は不義理の日、お主への文じゃ」

「不義理……ああ、そうでしたね」


 雁四郎も恵姫から毎年不義理状を貰っています。そして毎年同じような絵と文を眺め、読んでいるのです。今年もいつもと大差ないだろうなあと思いながら受け取った紙を広げました。魚の絵が描かれています。


「これは立派な鰆でございますな」

「阿保、鰆は去年書いた文字じゃ。これは石鯛である。よく覚えておくように」


 もう何を言っても仕方がないので、雁四郎は返事をせずに先を読み始めました。こんな事が書かれていました。


『雁四郎、いつもわらわの護衛役を務めてくれて感謝しておる。伊瀬への旅では重い財布を腹に巻き、さぞかし辛かったであろう。これからは重い財布はわらわが持ち歩くようにするので安心するがよい。天気が良い日は稽古事を放り出しても午前中に浜へ行きたいので、雁四郎は朝早くから奥御殿の縁側で待機しておれ。わらわが朝飯を食ったらすぐに東の木戸口から城外へ出られるよう手はずを整えておくのじゃぞ。磯島はうまく誤魔化してくれ。あらあらかしこ』

「御冗談はおやめください」


 今年は例年になく酷い内容だなあと雁四郎は思いました。こんな事、磯島や厳左に知られたらただではすみません。厳左に文面を見られないように、手に持った紙を折り畳み、懐に仕舞う雁四郎です。


「なんじゃ、年を取っても生真面目さは変わらぬのう。まあよい。お主がこんな文くらいで信念を曲げるようなおのこでない事は承知しておる」

「恐れ入ります」


 褒められたのか馬鹿にされたのかよく分かりませんが、雁四郎は取り敢えず礼を言いました。にこやかな顔をしています。やはり文を貰ったことで、多少の嬉しさを感じているようです。 


「では庄屋の屋敷へ行くとするか。雁四郎、付いて参れ」

「えっ、しかし拙者はお役目が……」

「うむ、その事だがな」


 厳左が雁四郎に事の成り行きを説明しました。それを聞いて雁四郎も納得したようです。


「承知しました。お供致します」


 快く承諾した雁四郎は恵姫と共に北の城門へと向かいました。狭い城内でも南から北まで横断するのですから、それなりに距離があります。珍しく恵姫が無駄口を叩かないので、雁四郎が口を開きました。


「本日から四月。夏がやって参りましたな。季節の変わり目の不義理の日。この習慣を頑なに守っておられるのは、恵姫様だけでございましょう。これ程の拘りを持たれているのには、何か理由がおありなのですか」

「うむ、まあな」


 はっきりとは答えない恵姫です。雁四郎もそれ以上深く尋ねるようなことはしません。人には人それぞれの拘りがあるものです。雁四郎とて木刀での素振りを毎日欠かさないという拘りを持っています。その理由を訊かれたとしても、好きだから、としか答えられないでしょう。


 二人は中庭を抜け、表御殿を通り過ぎ、開いた城門から外へ出ます。いつになく口数が少ない恵姫です。雁四郎が場を盛り上げようと、またも話し掛けます。


「それにしても不義理状に限らず、文というものは妙に嬉しいものでございますな。言葉をいただける、それも目に見える形でいただけるのは、御馳走をいただくのと同じくらいの喜びがあるように感じまする」

「そうじゃな。鯛の刺身に勝るとも劣らぬ有難さがある、どちらかを選べと言われれば、わらわとて迷うであろう」


 その言葉は少なからず雁四郎を驚かせました。


『あの魚大好き恵姫様が鯛と同等の価値を不義理状に見出しているとは……一体、どのような理由があるのだろう』


 そんな思いに駆られながらも、その理由を聞き出そうとはしませんでした。これもまた尋ねてはいけない事柄のように思われたからです。

 こうして二人は何となく重い空気を漂わせながら、城下に向かう山道を下って行くのでした。

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