蛙始鳴その二 不義理の日
「まだ寝ておられるのですか。しかもこのようにやりっ放しで。少しはお片付けしてくださいませ。それでなくとも忙しいと言うのに」
ぶつくさと文句を言う磯島の声で目が覚めた恵姫は、大きな欠伸をしました。
「ふあ~、磯島か。もう昼飯の時間か」
「そうでございますよ。これ、そこの者、文机と硯箱を納戸に仕舞って。これでは落ち着いて昼食の膳を用意することもできませぬ。おや、この包みは……」
女中に指図して座敷を片付けさせていた磯島は、文机の傍らに置いてある油紙を見付けました。起き上がった恵姫は眠そうな声で答えました。
「ああ、磯島、大事に扱うのじゃぞ。それは不義理状じゃ。皆に渡そうと思ってな」
四月一日は衣替えの日であると同時に不義理の日でもありました。
人の世の中で長い年月生きていれば、そこには必ず人と人とのお付き合いというものが発生します。長く生きれば生きるほど、関わり合う人も多くなり、長く生きれば生きるほど、次第にご縁が薄くなる人も多くなってきます。そんな風に最近すっかり縁遠くなってしまった方々へ日頃のご無沙汰を詫びる日、それが不義理の日なのです。
恵姫は幼い頃からこの習慣が大好きでした。しかし一日のほとんどを城内で過ごす恵姫にとって、親しく付き合いかつ長くご無沙汰をしている人など、そう多くはありません。そこでこの日は、全然ご無沙汰ではない人々へも文をしたためて渡しているのでした。
「不義理状……ああ、そう言えば四月一日は不義理の日でもありましたね。姫様が自発的に筆を取られるのは大変喜ばしい事とは思います。が、後片付けくらい、きちんとなさりませ」
起きたばかりの恵姫はぼんやりした目をして座ったままです。その間にも女中たちはさっさと文机を仕舞い、昼の膳を用意し、お茶を淹れています。
「うむ、文を書いて腹も減ったし、眠っている内に腹も減ったし、昼になって腹も減ったので飯にするか。磯島、これがそなたへの不義理状じゃ。わらわが飯を食っておる間、それでも読んでおれ」
恵姫は油紙に包んだ文の一つを磯島に渡すと、さっそく膳の前に座り食事を始めました。
「私などよりも、江戸の殿方、奥方様の方が余程ご無沙汰しておりましょう。そちらへは送られたのですか」
この疑問はもっともでした。本当に義理を欠いている殿様が不義理状を受け取っていないのなら、御無沙汰でも何でもない自分が不義理状を受け取るのは、余りに不自然過ぎるからです。
「無論じゃ。江戸だけでなく伊瀬の斎主様にも、花見が終わった後にきっちり書いて送っておる。今頃は父上も読まれておるじゃろう」
それを聞いて安心した磯島、折り畳まれた紙を広げました。まず目に入ったのは墨で描かれた魚の絵でした。
「姫様、美味しそうな鰹でございますね」
「何を言っておる、それは黒鯛じゃ。磯島はその程度の字も読めぬのか」
反論するのも馬鹿らしいので、その先に目を通す磯島です。こんな内容でした。
『磯島、いつもわらわに尽くしてくれて感謝しておる。お稽古事も感謝しておる。毎日ではなく二日に一回にしてくれれば、もっと感謝するのじゃがのう。美味い飯を食わしてくれて感謝しておる。毎日魚を食わしてくれれば、もっと感謝するのじゃがのう。なんだかんだでわらわは磯島を頼みにしておるぞ。そこで相談なのじゃが、取り上げられたままになっておるわらわの二冊の絵草紙、あれをそろそろ返してくれぬか。あらあらかしこ』
「返しませぬ!」
即答です。啜っていた椀の汁を、思わず吹き出しそうになる恵姫です。
「ぶぶっ。つれないのう磯島は。まあ、よい。それくらいで返してもらえるとは思ってはおらぬからな」
それでも磯島は文を折り畳むと自分の懐に仕舞いました。表情もどことなく嬉しそうです。やはり手書きの文というものは、それだけで大切にしたくなるものなのです。
「は~、食った、食った。昼からは浜へは行かず庄屋の屋敷に行くぞ。黒や毘沙にも不義理状を渡したいからな」
「ご自由に。水辺に近付かない事と日暮れまでに戻られる事、この二つをお忘れにならぬように。ああ、それからお福は同行させませんよ。今日は猫の手も借りたいくらい忙しいのですから」
「承知しておる。おっと、そうじゃ。お福にも書いたのじゃった。おい、お福はどこに居る」
「今は昼休みでございます。女中部屋で食事を取っているか、あるいは……」
「分かった。では、行って参るぞ」
恵姫は文を包んだ油紙を手にすると、話の途中で座敷を飛び出していきました。その後姿を見送りながら、懐から文を取り出す磯島。紙を広げて黒鯛だと言っていた魚の絵を眺めます。
「あの姫様にも可愛い所があるようですね」
そうして我知らずにっこりとしてしまうのでした。
「お福、居るかあ」
女中部屋の襖を勢いよく開ける恵姫。数人の女中と一緒に食後のお茶を飲んでいたお福は目を丸くして恵姫を見ました。
「姫様、わざわざ来ていただかなくても、お呼びくださればこちらから参りますのに」
一番年長の女中が当惑顔で言いました。寛いでいる場面を上の者に見られるのはまるで怠けているようで、幾ら休憩中とはいえ気分の良いものではないのです。
「いやいや、そなたたちは食事の途中であろう。しかも本日は忙しい衣替えの日。呼び立てるのは申し訳ないと思うてな。お福、ちょっと、こっちに来ぬか」
部屋の外から恵姫が手招きしています。お福は湯呑を置くと、部屋の外に出ました。
「四月一日は不義理の日じゃ。そこでそなたにも不義理状を遣わそう。ほれ、受け取れ」
いきなり恵姫から文を突き出され、お福は驚いています。不義理状などを貰うのは生まれて初めてだったからです。と言うか、そんな習慣を守っている人が実際に居たという事自体が驚きでした。
「ほれほれ、何を遠慮しておるのじゃ。今日はわらわも忙しいのでな。早く読め」
急かされて文を手に取り、お福は紙を開きました。魚の絵が描かれています。
「……」
「ああ、それは池の鯉じゃ。美味そうな字であろう。昼飯を済ませた後だと言うのに、よだれが出て来るわい、じゅる」
聞かなかったことにして、お福は先に目を通したました。そこにはこんな事が書かれていました。
『お福、いつもわらわと遊んでくれて感謝しておる。与太郎が来るたびに抱き付かれていることは気の毒であるな。わらわも抱き付いてやってもよいのじゃぞ。与太郎に乳を触られたことは気の毒であったな。わらわも触ってやってもよいのじゃぞ。ああ、それから、今度は雀ではなく雉を呼んでくれぬか。雉鍋はまだ食ったことがなくてのう。あらあらかしこ』
「……!」
お福は首を横に振っています。どうやら書かれていた内容を全否定しているようです。
「おや、駄目か。まあよい。楽しみは後に取っておいた方が叶った時の喜びも倍増するからのう。さて、次は表御殿じゃ。お福、本日もお勤めに励めよ」
恵姫は慌ただしく廊下を戻って行きます。その後姿を見送った後、お福はもう一度文に目を遣りました。最初に描かれた魚の絵、余りにも拙い幼子の落書きのような絵なのに、不思議と鯉に見えてくるのでした。
「……」
知らぬうちにお福はにっこりと笑顔を浮かべてしまうのでした。そして丁寧に文を折り畳むと、大事に懐に仕舞いました。
奥御殿の玄関に着いた恵姫は、草履を履いて外に出ました。晴天です。四月最初の昼の日差しは夏の眩しさを感じさせてくれます。
「今日の午後は忙しくなりそうじゃわい」
文を包んだ油紙を抱えて、中庭へと走り出す恵姫ではありました。
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