牡丹華その四 鯛焼き試食
磯島が与太郎の側に付いたことで、恵姫の気持ちにも少し変化が起きたようです。
「うむ、わかった。わらわも少しお主に期待を掛け過ぎたようじゃな。二匹とはいえど、この世にはない珍しい菓子を持参した功績に免じ、残り九十八匹の鯛焼きについては不問と致そう、じゃがな」
恵姫は手に持った鯛焼きのひとつを与太郎の前に突き出しました。尻尾が齧られて歯形が付いています。
「この不細工な菓子は何なのじゃ。この欠けた部分、この歯形、明らかに誰かが食った跡じゃ。与太郎、説明せい」
「うん、そうだよ。僕が食べたんだ」
全く悪びれる風もなく返答する与太郎に、収まりかけていた恵姫の怒りが再び爆発しました。
「この不埒者めが。献上品を口にするとは失礼にも程があるぞ。如何に美味そうで、他人にやるのが惜しくて、一口くらいならいいじゃろうとか思って、ついつい齧ったにしてもじゃな」
「それは姫様のことでございましょう。聞いておりますよ。松平様へ献上の干し鮑、一つくすねたそうですね。雁四郎様が嘆いておりました」
「うぐっ……」
常に冷静な磯島の間髪入れぬ再度のツッコミです。これは事実なので恵姫も否定はできません。追及の手が緩められたところで、与太郎の言い訳です。
「う~ん、確かに齧ったのはお行儀が悪いとは思うけど、それも仕方なかったんだよ。これまで二日に一回の割合で鯛焼きを買っていたんだけど、もしここに来られなかったら、二日目に朝食代わりに食べる事にしていたんだ。そろそろ暖かくなってきたから、それ以上放置すると傷んじゃうからね。それで、今回もどうやら駄目みたいだと判断して食べようと一口齧った瞬間、ここに来てしまったんだ。もしほんの少しでも早くここに来ていたら、鯛焼きも無傷だったんだけどね。いやあ、本当に運が悪かったなあ」
悪びれることなく話す与太郎のお気楽加減に、幾分苛立ちを覚える恵姫でしたが、事情は理解できないでもありませんでした。花見から今日まで二十日間、鯛焼きを買っても来られずに食べ、また買っても来られずに食べを、与太郎は十回近く繰り返していたのです。むしろ今日、二匹とも食べ終わる前にここへ来られたことだけでも運が良かったと言うべきでしょう。
「なるほど。よし、わらわの怒りは収まった。この二匹の鯛焼き、有難くいただこうぞ。そうじゃ、黒や毘沙も食いたいに違いない。磯島、さっそく庄屋の屋敷へ……」
「いいえ、今日は城の外へ出るのはおやめください」
常に冷静な磯島の本日三度目の間髪入れぬツッコミです。しかし、これにはさすがの恵姫も不満顔です。
「どうしてじゃ。そもそも黒が魚の菓子を作って来てくれたから、与太郎は鯛焼きを持ってくることになったのじゃぞ。黒に食わしてやらねば気の毒であろうが」
「黒姫様に菓子を差し上げるのは構いません。城の外へは出ないで欲しいと申しているのです。お忘れなのですか、瀬津姫様のこと。まだ領内のどこかに潜んでおるやもしれぬのです。しかも本日は雨。瀬津姫様の力を考えればこれほど有利な日はありますまい。外へ出た途端、姫様は瀬津姫様の餌食になったも同然です」
瀬津姫の力は水を制する力。勿論、雨にもその力は及びます。地も空も全てが水に覆われている雨の日は、瀬津姫の独断場と言ってよいでしょう。
「瀬津か。忘れておったわ。確かに雨の日に出歩くの危険すぎるな。では、黒と毘沙を城へ呼ぶとするか。毘沙は与太郎に会いたがっておったから、少々天気が悪くても来てくれるであろう」
「それならば結構でございます。さて、話も終わったことですし、そろそろお稽古事の続きを……」
そう言って立ち上がろうとした磯島よりも早く、恵姫が小座敷の襖を開けました。
「さあさあ、支度じゃ支度じゃ。わらわは表御殿へ行く。与太郎来訪の時には必ず知らせよと、厳左に言われているのでな」
「あ、姫様、お稽古事は……」
磯島の言葉を無視して脱兎の如く廊下を走っていく恵姫。本日のお花の稽古を強引に打ち切ろうとする気満々です。磯島はやれやれとばかりにため息をつきました。
恵姫からの知らせを受けて、さっそく城から庄屋の屋敷へ使いが出されました。間もなく黒姫と毘沙姫がやって来ました。その頃には既に昼になっていたので、昼食がてら与太郎の鯛焼きを味わうこととなりました。
表御殿の小居間には恵姫を始めとして黒姫、毘沙姫、お福、磯島。それから与太郎、厳左、雁四郎の計八名が昼の膳を楽しんでいます。厳左はまだ右手が不自由で箸が持てないため、一人だけ握り飯を食べています。
「与太郎か。聞いていた通りの腑抜けだな。これでは浪人止む方なしだ」
「てへへ」
会っていきなり与太郎に浴びせられた毘沙姫の言葉です。初対面の相手に向かって遠慮も気遣いもありません。裏表のない毘沙姫らしい人物評と言えましょう。苦笑いする与太郎です。
「毘沙ちゃん、それは言い過ぎだよ~。めぐちゃんの頼みを聞いて、こうして鯛焼きを持って来てくれたんだから、与太ちゃんだってやればできるんだよ。やらないだけなんだよ。与太ちゃん、頑張れ!」
「てへへ」
いかにも陽気で楽天的な黒姫らしい取り成しです。ただ最後の言葉がちょっと引っ掛かるので、作り笑いしてしまう与太郎です。
「黒、あまりおだてるでない。百匹と申し付けたのに持って来たのは二匹だけ、しかも一匹は食い掛けじゃ。ここまで役立たずじゃと毘沙の言葉通り、下手すれば一生浪人暮らしであろうな」
「てへへ」
恵姫の悪口にはとっくに慣れているはずの与太郎なのですが、やはり何度聞いても胸に堪えます。心で泣きながら顔で笑う与太郎です。
「……」
「てへへ」
お福は何も言わずに与太郎の顔を見ています。思わず照れ笑いする与太郎です。
「さあ、それでは与太郎殿持参の鯛焼き、いただこうではありませんか」
雁四郎の威勢のいい声が場に響き渡りました。こう見えて雁四郎は男ながらに菓子好きで、本日の鯛焼き試食会を恵姫の次に楽しみにしていたのです。
「私がお配りしましょう」
磯島が立ち上がりました。女中が運んできた小皿を皆の前に置いて行きます。食べるのは恵姫、お福、黒姫、毘沙姫、雁四郎の五人。厳左は甘い物を好まないので無し。磯島も得体の知れぬ物は食べたくないので無し。与太郎は今日まで散々食べてきたので無しです。
配られた小皿を見て、雁四郎がおずおずと口を開きました。
「あの、恵姫様」
「なんじゃ、雁四郎、何か申したいことでもあるのか」
「二匹を五人で分けたにしては、拙者の前に置かれたこの小皿に乗っております鯛焼きは、少々小さいような気が致します」
そうなのです。雁四郎の小皿に乗っている鯛焼きは、一匹の六分の一くらいの大きさしかありません。しかも尻尾の部分は欠けて歯形が付いています。
「ああ、その事か。鯛焼きは貢献度に応じて分配したのじゃ。まず、今回の鯛焼き試食に最も貢献したわらわは一匹丸ごとである。次に魚の菓子を与太郎に見せた黒には一匹の半分を与え、残りの半分を三人で分けたゆえ、そちの割り当てはその程度の大きさになってしまったのじゃな。ああ、尻尾が欠けているのは与太郎が食ったからじゃ。文句は与太郎に言ってくれ」
「……承知つかまつりました……」
落胆の雁四郎です。鯛焼き半分を三等分、しかも、縦にではなく横に三等分しています。雁四郎に分け与えられたのは大部分が尻尾。甘く味付けされていると聞かされていた小豆餡は、ほとんど入っていません。
『主君への御奉公こそ臣下の務め。耐えるのだ、雁四郎』
拳を握って気丈に振る舞う雁四郎の姿を眺めながら、尻尾を齧って悪い事をしたなあと、ちょっぴり反省する与太郎ではありました。
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