牡丹華その三 鯛焼き献上

 与太郎の額に炸裂したお福の中指弾き。恵姫と磯島は顔を寄せ合うと、ヒソヒソ声で話し始めました。


「おい、またじゃぞ。これで二度目じゃ。確か最初は与太郎が別の女中の夜具に忍び込み、それに嫉妬したお福が与太郎の額を指で弾いたのじゃったな」

「左様でございます。しかし今回は嫉妬ではありませぬ。むしろ与太郎殿は尻を見られるのが嬉しいと申しているのですから、これはお福に気があると告白しているのも同然。なのに指弾きとは如何なることでございましょう」

「うむ、つまりお福は嫉妬しているのではなく、与太郎が他のおなごに気を向けるたびに、それを咎めていると考えた方がよかろうな」

「他のおなごと申しますと、最初はお福の隣で寝ていた女中。今回はお福自身、ということになりましょうか。では、与太郎殿は誰に気を向ければお福の怒りを買わずに済むのでしょうか」

「それは決まっておる。三百年の後の世に居る、おふうとかいう娘じゃ。おふうはお福の子孫、言ってみればお福の娘のようなものじゃ。娘を好いておるのなら他のおなごには目もくれず、一途におふうを想い続けるべしという、お福なりの母心があの指弾きなのじゃろうな」

「あの、二人とも、何をコソコソ喋っているんですか」


 与太郎が心配そうに訊いてきました。恵姫と磯島はくっ付け合っていた頭を離すと、素知らぬ顔で答えました。


「何でもありませんよ、与太郎殿」

「うむ、何でもないぞ与太郎。とにかくお主はおふうとかいう娘と仲良くなるのが一番じゃ。早く仕官の口を見付けて浪人生活を終わらせ、おふうと夫婦になれ。分かったな」

「えっ、えっ、ふうちゃんと夫婦に、ですか……ひょわ~」


 与太郎は変な声を出して天井を見上げています。見事な腑抜けぶりに恵姫は呆れ顔です。


「おい、いつまで呆けておるつもりじゃ。それよりもあれを出さぬか」

「あれ、ですか?」

「そうじゃ、あれじゃ」


 与太郎は考えています。あれが何かすぐには思いつかないようです。磯島を見、お福を見、恵姫を見、そこでようやく何か思いついたようです。もじもじしながら言いました。


「だ、出せと言われれば出しますけど、最初の時に見せたのと同じようなものしか履いてませんよ」

「履いてない? 何の話をしておるのじゃ」

「何って、今、あれを出せっていったじゃないですか。あれってパンツのことでしょう」


 どうやら与太郎は恵姫がパンツ大好き娘であると勘違いしているようです。勿論違うので恵姫は怒りながら否定しました。


「阿呆か。あんな半股引を見せられて誰が喜ぶと言うのじゃ。そうではない。花見の時に命じたであろう。黒が作って来た菓子、そなたの世では鯛焼きと呼ぶそうじゃが、あれを百個持って来いと言い付けたはずじゃ。どこにある、早う出さぬか」


 これは幾らなんでも無茶な注文でした。花見をしたのは二十日近く前のことです。しかも、いつこちらに来るか分からないので、確実に持って来るためには、毎日鯛焼きを準備して、自分の部屋に居る時には肌身離さず身に着けていなくてなりません。いくら恵姫を恐れている与太郎でも、そんな面倒な事できるはずがない、普通の人間ならばそう考えるでしょう、磯島もそう考えていましたので、恵姫に進言しました。


「姫様、他の物ならいざ知らず、食べ物をこちらへ持って来させるのは如何なものかと存じます。口に入れて万一毒でも入っておりましたら一大事。それでなくとも菓子のような傷み易い物を……」

「ああ、あれね、ちょっと待って」


 磯島の言葉を遮ると、与太郎は大きな巾着袋の中をまさぐり始めました。どうやら与太郎の世からわざわざ持参した袋のようです。話の腰を折られた磯島はまさかというような表情になりました。


「与太郎殿、もしや姫様の言葉を真に受けて……」

「はい、これ」


 与太郎は二個の鯛焼きを取り出しました。見事なまでの鯛です。黒姫手製の魚型焼き菓子が幼子の粘土細工に思えるくらい、目も鱗も尻尾もきちんと鯛しています。恵姫の興奮は一気に最高潮に達しました。


「お、おおっ! やるではないか、与太郎よ。見直したぞ。うむ、さすがは三百年の後の世の菓子。作り物とは思えぬほど大した鯛ではないか」


 恵姫は与太郎の手から二個の鯛焼きをふんだくりました。と、最高潮に達していた興奮が一気にどん底に沈みました。


「おい、与太郎、鯛焼きの一匹に歯形が付いて欠けておるではないか。どういうことじゃ。それに残りの九十八匹はどうした。もったいぶらずに全て出せ」

「めぐ様、その言い方はあんまりじゃないかなあ。せめてありがとうの一言くらいあってもいいんじゃない」

「喧しいわ。これは花見の時に飲み食いさせてやったお返しとして受け取るのじゃ。ありがとうはそちらが言うべき言葉であろう。それに礼ならこれから食わせる昼飯で十分であろう。早う残りの鯛焼きを出せ」

「ないよ。二匹しか持って来てないもん」

「な、なんじゃと!」


 鯛焼きを握りしめたままわなわなと震える恵姫の両手。下手するとあんこが飛び出そうなくらい、手に力が入っています。


「この役立たずが。二匹では少なすぎるであろうが。わらわとお福と黒と毘沙と厳左と雁四郎と磯島と」

「いえ、姫様、私は要りません」


 常に冷静な磯島の間髪入れぬツッコミです。得体のしれない物は安易に口にしないのが磯島の信条なのです。


「遠慮するでない、磯島。とにかく二匹では足りぬわ。与太郎、今から取りに戻れ。このままでは鯛焼きを奪い合う醜い争いが、この間渡矢城内で起こりかねぬ。残りの九十八匹を急いで調達するのじゃ」


 そんな争い、起こるはずがないと恵姫以外の者たちは思いました。別に二匹とも恵姫が食べたとしても誰も文句を言わないでしょう。それでもそんな意見をわざわざ言うのも面倒なので、誰も何も言わずに与太郎の反応を伺っていました。

 恵姫にさんざん言いたい放題言われた与太郎は、さすがに怒っています。珍しく強気な口調で喋り始めました。


「戻れって言ったって、半日経ってほうき星が沈まなきゃ戻れないって知っているでしょ。それに百匹なんて無理だよ、一所懸命安い店を探して、それでも一匹七十円もするんだよ。百匹だと七千円、安い米なら二十キロは買えるよ。あ、二十キロじゃわかんないか、えっと、一合が百五十グラムだから……」


 ここで与太郎はごにょごにょとつぶやき始めました。どうやら暗算が不得意のようです。


「えっと、つまり鯛焼き百匹は米十三升くらいの価値なんだよ。それを毎日用意して自分の部屋で待機しているなんて、できるわけないでしょ。今回の鯛焼き二匹だって二日に一度のペースで買っていたから、今日までに千五百円くらい使っちゃっているんだ。これじゃ今月のお小遣いは大ピンチだよ。それなのに感謝されるわけでもなく文句ばっかり言われて、踏んだり蹴ったりじゃないか。めぐ様は少しくらい僕の苦労を分かってくれてもいいんじゃないんですか」

「むむ……」


 与太郎の言葉は全て理解できたわけではありませんでした。しかしさすがの恵姫も少々言い過ぎたかもしれない、と感じ始めたようです。


「姫様、与太郎殿の仰る通りでございますよ。浪人の身で米十三升は余りにも荷が重すぎましょう。この二匹で我慢なされませ」

「い、磯島さん……」


 孤立無援の与太郎にとって、この口添えは身に沁みるほど嬉しいものでした。余りの有難さに磯島の姿が神々しく輝いて見える与太郎ではありました

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