第十八話 ぼたん はなさく

牡丹華その一 雨の芍薬

 雨が降っていました。間渡矢城も奥御殿も中庭も、乾いているものは濡らし、濡れているものは更に濡らし、人の心まで湿らせてしまおうと企みながら雨は降り続けています。磯島を前にして奥御殿の座敷に座る恵姫の胸中も、すっかり湿り気を帯びていました。


「やみそうにない雨じゃのう。これでは午後の浜遊びは無理じゃな」

「百穀春雨でございますね。今は種を撒く時期、百姓たちにとっては有難い雨となりましょう」

「雨が降っておっては、黒も野良仕事は休みであろうな。毘沙ともども庄屋の屋敷で何をしておるのじゃろうか」


 縁側の障子に日は差していません。まだ昼前だというのに、座敷は日暮れ時のような暗さの中に沈んでいます。


「よし、仕上がったぞ。どうじゃ、磯島」


 自信満々で花瓶を見せる恵姫。そこには桃色の芍薬の花と、緑色の擬宝珠ぎぼうしの葉がかなり適当に突っ込まれています。磯島は眉をひそめました。


「お花のお稽古事を始められて早数年。それなのに未だにこのような幼子のお遊びのような花しか生けられぬとは。一体、恵姫様にはどのように生け花の心をお伝えすれば良いものか……」


 本日の午前のお稽古事は生花です。恵姫は抛入なげいれ花に挑み、ようやく自信作を仕上げたのですが、どうやら磯島は気に入らないとみえます。


「なんじゃ、磯島。わらわの生け方に不満か」

「不満も何もこれでは花が生きておりません。生花ならぬ死に花でございますよ。野に咲いているかの如く仕上げるのが生花。この有様では花は野に捨て置かれているも同然です」

「磯島は細かいことに気を使い過ぎじゃ。そもそも座敷に花なぞ飾っても仕方なかろう。むしろ鯛や海老を飾った方が賑やかではないか。腹も膨れるしのう」


 もはや出るため息すら尽きてしまった磯島です。お花もお茶もその他のお稽古事も、万事がこの調子の恵姫。

 向いていないのは分かっています。好きでもない事をやらせているのですから、身が入らないのも分かります。分かってはいますがやらずに済ます訳にもいかないのが磯島の辛い所です。目の前に置かれた花瓶の芍薬を整えながら、磯島は話しました。


「この芍薬は昨日中庭で花を開き、今日摘んできたもの。牡丹同様、美しい花でございますでしょう」

「ん、そうか。まあ、花は芍薬に限らず何でも美しいからのう。厳左は時々芍薬の根を掘り起こし、煎じて飲んでおるそうじゃぞ。右手の痛みに効くとか言ってのう。年寄りは無理をせず体を労わればよいものを、いつまでも無理しおって」


 話が変な方向に逸れて行ったので、磯島はまたも眉をひそめました。一日に何度も眉をひそめるので眉間には深い皺ができています。磯島はこの皺を密かに恵皺と呼んでいました。


「根の話などしてはおりませぬ。花の話をしているのです。ご存知でございましょう。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。姫様にはこの芍薬のように優雅なおなごになっていただきたいのです」

「おお、その諺ならば知っておるぞ。幼き頃は黒と一緒によく歌っていたものじゃ。釣れば黒鯛、網には真鯛、泳ぐ魚は金目鯛」

「誰も魚の話などしてはおりませぬ!」


 磯島はとうとう怒ってしまいました。眉間の恵皺が一層深くなっています。


「なんと嘆かわしいことでございましょう。毎日お稽古事を続けているのに、姫様のお行儀はさっぱり良くなりません。いえ、良くなるどころか日増しに悪くなっている、そんな気さえ致します。このままでは比寿家の行く末はお先真っ暗でございます。このような有様では江戸に居られるお殿様に合わせる顔がございません。よよよ」


 伏せた顔を袖で隠して背中を震わせる磯島。よよよと言っても泣いていないのは明白です。しかし、このような芝居じみた真似をする磯島の姿は、恵姫の心に若干の自責の念を呼び覚ましたようです。


「いや、磯島、何もわらわの行儀が悪いくらいで、そこまで深刻に考える事もないのではないか。雨が降って浜で遊べず鬱屈した心が、わらわの無作法な振る舞いを引き起こした、そう考えて許してくれ磯島よ」


 相手が弱気に出ればすぐさま攻勢に移るのが駆け引きの基本。伏せていた顔を上げた磯島は思もしなかった言葉を投げ掛けてきました。


「分かりました。ではお花のお稽古はここまでにして、今から昔話を致しましょう。本日のお天気は雨。目の前には芍薬の花、となれば、これはもう小町と深草の悲恋物語しかございません。この話をお聞きになれば、蕾であった恵姫様の乙女心もきっと花開くことでしょう」


 いや、そんな悲恋話より赤鯛黒鯛釣合戦の話でもしてくれた方がよっぽど有難いと思う恵姫ですが、磯島の機嫌を損ねて間もなくやって来る昼飯が粗食に変更されでもしたら大変なので、ここは素直に従う事にしました。


「分かった。ではその悲恋話とやらを聞こうかのう」

「絶世の美女、小野小町に惚れるおのこは多数居れど、深草少将ほど想い深かったおのこは居りませぬ」

「想いが深かったから深草か。安直な名付け方じゃのう」

「茶々を入れるのはおやめください。さて、深草少将はなんとしても小町殿のお顔を一目見たいと文を出しました。すると返って来た文には『今日より毎日芍薬を持って来て、私の屋敷の庭に植えてください。芍薬が百株になった時、あなたにお会いしましょう』と書かれていたのです」

「芍薬百株より鯛百匹の方が良くはないか。小町とかいうおなごも相当頭が悪いのう」


 恵姫より小野小町の方がお利口なのは疑いようのない事実ですが、今はそんな事を言っていても仕方ないので、磯島は話を進めます。


「こうして深草少将は野山から芍薬一株を刈り取っては、毎日一里ほどの道を歩いて小町殿の屋敷へ通い、株を植えて帰って来るという日々を過ごしていたのです。そして、ようやく待ち焦がれた百日目がやってきました。ところがその日は風が吹き荒れ、大雨が降り、川も水かさを増してとても外を出歩けるような天気ではなかったのです。周りの者は止めました。こんな大嵐の日に外に出るなどとんでもない、下手をすれば命を落としかねない、考え直しなさいと。けれども深草少将は聞き入れません。ここで諦めたらこれまでの九十九日が無駄になってしまう、どうしても行かねばならぬと、いつものように芍薬を一株持って小町殿の屋敷へ向かったのです。途中に川がありました。水かさが増し大変な勢いで流れています。深草少将は用心深く柴で出来た橋を渡ろうとしました。が、運の悪いことに柴が切れて橋は崩壊。深草少将は芍薬を握ったまま川に流され行方不明になってしまいました。これを聞いた小町殿は、植えられた九十九株の芍薬に九十九首の歌を捧げ、深草少将を供養したということです」


 ここで磯島はほうと息を継ぎました。それから恵姫の顔を黙って見ています。


「ふむ、で続きはどうなるのじゃ、磯島」

「続きなどありませぬ。これで終わりです。誠に涙を誘う哀しい物語でございましょう」


 それを聞いた恵姫は不満顔をして言いました。


「どこが哀しいのじゃ。小町とやら恐るべき悪女ではないか。全く会う気のないおのこに芍薬百本を要求して諦めさせようとし、馬鹿正直に毎日通ってくると、これはまずいと考えを変え、柴に切り込みを入れて橋を崩壊させ、鬱陶しい深草を事故に見せかけて亡き者にするとはのう。無理難題を押し付けて求婚者を追い払った竹取物語のかぐや姫よりたちが悪いのではないか。まあ、悪女の戯言を真に受けた深草の方も、阿呆と言えば阿呆じゃがな」

「ひ、姫様……」


 磯島の眉間の恵皺が更に深くなりました。そして、もう何を言おうと恵姫の思考を根本から変えるのは無理なのだなと、改めて思うのでした。

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