霜止出苗その五 四人の心
小枝を右手に持って向き合った毘沙姫に、雁四郎は声を掛けます。
「毘沙姫様、そのような小枝でよろしいのですか。背中の大剣を使われても良いのですよ」
「冗談がきついな、雁四郎。大剣など使ったらお前の命はないぞ」
苦笑いをする雁四郎。その通りなので反論もできません。
「ならば、参る!」
勢いよく踏み出した雁四郎。身軽にかわす毘沙姫、その動きには無駄が全くありません。しかも右手の小枝は木刀を受けません。雁四郎の打ち込みは、全て身をかわすことによって避け、隙を見て小枝を突き出すのです。その度に揺らぐ雁四郎の体。
「ははは、雁四郎。まだまだ未熟者だな。厳左に勝てるようになるには、あと二、三十年かかるのではないか」
「その前に毘沙姫様に勝ってみせまする」
「冗談。百年かかっても無理だ」
必死の雁四郎に比べ毘沙姫は余裕です。やがて少し飽きてきたのでしょう、不敵な笑いを浮かべて「そろそろ終わるか」と言うと、向かって来た雁四郎を足払いし、同時に木刀を掴むと思い切り引っ張りました。
「あっ!」
前のめりになって倒れながら、雁四郎の木刀は手から離れて勢いよく飛んでいきます。その先にはお福が座っています。
「お福殿、危ない!」
思わず叫ぶ雁四郎。驚いたお福は固まったまま動くこともできません。しかし幸いな事に、飛んできた木刀はお福に当たらず、袖をかすめてゴザに突き刺さりました。
「お福ちゃん!」
「お、お福、大丈夫か!」
色を失ってお福に駆け寄る恵姫と黒姫。お福は真っ青な顔をして震えています。四つん這いになっている雁四郎と、その頭を小枝で叩いていた毘沙姫も、思わぬ事態に平謝りです。
「す、すまん。こんなつもりではなかったのだ」
「いえ、毘沙姫様のせいではありません。全てはこの雁四郎の未熟さゆえの不始末。お許しくだされ」
「まったく、そなたたちはどこまで役に立たぬのじゃ」
お福に怪我はないと分かった恵姫は、二人に食って掛かりました。既に我を忘れるほどに頭に血が上っているようです。早口でまくしたて始めました。
「誰がお福を驚かせろと言ったのじゃ。わらわはお福を元気付けてやってくれと言ったのじゃぞ。それがどうじゃ、見よ、恐れをなして震えているではないか。何の為に城を出てお福をここまで連れて来たと思っておるのじゃ。すっかり暗くなってしまったお福を、元の明るいお福に戻してくれと磯島に頼まれたからなのじゃぞ。ここまでわらわの期待を裏切ってくれるとは思わなんだわ。これでは磯島に合わせる顔がなかろうが」
「お、おい、恵……」
「恵姫様、それをお福殿に知られるのは……」
「あ~あ、めぐちゃん、自分から言っちゃったねえ」
「はっ!」
三人の冷たい視線を浴びて我に返る恵姫。お福はゴザの上に小さくなって座っています。その姿は今日これまでで一番暗く、一番元気がなく、一番落ち込んで見えました。
『な、なんという事じゃ。わらわ自らがお福の意気消沈に止めを刺してしまうとは……』
余りにも大き過ぎる自分の失態に眩暈すら感じる恵姫です。全てを知ったお福はそこまで気を使わせて申し訳ないとばかりに、悲しそうな顔をしています。
「お福、済まぬ。そなたを騙す気などなかったのじゃ。わらわも磯島もそしてここに居る皆も、以前のように元気なお福に戻って欲しい、ただそれだけを願ってこのような愚かな真似をしてしまったのじゃ。分かってくれ」
お福はこっくりと頷きました。そしてこれ以上構ってくれるなと言いたそうに硬い表情になりました。その姿を見た時、恵姫の中に別の決意が芽生え始めました。すっかり閉じられたままのお福の心。その心をこじ開けるには人の心を以ってするしかないのではないか、これまでのようにお福に隠し事をしたままで、お福の心にこちらの心を届けることなど出来はしないのではないか、恵姫はそう感じたのです。
「おい、毘沙。そなた佐保姫様の言葉を聞いたであろう」
「な、なんだ、いきなり」
突然の問い掛けに驚く毘沙姫。同時にお福もビクリと体を震わせました。
『やはりな、お福の元気のなさは佐保姫様の言葉が原因なのじゃ』
ここはもう根本から断ち切った方がいい、そう考えた恵姫は思い切った行動に出ました。
「わらわも聞いた。これから苦しい選択を迫られる、しかしわらわならばどんな困難も乗り越えられる、とな。佐保姫様はそう仰っておられた」
この言葉を聞いた黒姫も毘沙姫も、そしてお福も我が耳を疑うほどに驚きました。佐保姫の言葉は他言無用。自分の心にだけ留めておくべきで、他者に教えてはならない、それが姫の間では暗黙の了解になっていたからです。
「恵、何故それを言う。それは口にしてはならぬ事だ。分かっているだろう」
「良いのじゃ、毘沙。こうでもせねばお福は己を取り戻せぬ。頼む、毘沙、黒、そなたたちが聞いた佐保姫様の言葉も教えてくれぬか」
いくら恵姫の頼みでも、こればかりは素直に聞けぬ二人です。口ごもる二人の足元に恵姫はひざまずくと頭を下げました。
「重ねて頼む。お福のために、お福の心に明るさを取り戻すために、そなたたちが聞いた佐保姫様の言葉をお福に聞かせてやってくれ」
「めぐちゃん……」
ここまで下手に出る恵姫の姿を、黒姫は見たことがありませんでした。どれほどお福を案じているか、その気持ちが丸くなった恵姫の背中から昇り立つような気さえします。
「うん、分かったよ、めぐちゃん。教えてあげる。あたしはね、明るさを捨てるほどの試練が待っているって言われたよ。でも暗闇に落ちた人を明るく照らせとも言われた、だから頑張ろうって思ったよ」
そう言って恵姫に手を差し伸べて立たせようとする黒姫。二人の姿を見て観念したのか、毘沙も話し出しました。
「ならば言うか。やがて力では倒せぬ敵が現れる。倒す為ではなく守るために力を使え、そう言われた。それから布にも会ったが、あいつも佐保姫様から言葉を聞かされたと言っていた。推測だが、記伊の姫衆を含めた全ての姫に佐保姫様は現われ、言葉を伝えているのだと思う。先日、瀬津があれほど無理強いしたのもそれが原因だろう」
お福の表情に変化が現れました。ずっと胸につっかえていた重しがようやく取り除かれた、そんな晴れ晴れとした明るさが戻って来たのです。
「あれ、お福ちゃんの顔、なんだか、雲が切れて日が差してきたみたいに……」
黒姫の言葉を聞きながらお福はゴザの上に立ちあがりました。そして恵姫に深々と頭を下げました。
「どういうことだ、恵。説明してくれ」
すっかり様変わりしたお福の態度に戸惑う毘沙姫。恵姫は満足げに話しました。
「佐保姫様の言葉は余りに暗く不吉なものじゃった。その為に全ての姫の心に影が差した。ならば、その影を吹き払うような楽しさを与えることでお福はきっと明るくなる、わらわはそう思っておった。じゃが、それは間違っておった。お福はわらわたちを心配しておったのじゃ。己と同じく辛い言葉を聞かされたのではないか、その為に心を痛めているのではないか、とな。お福の暗さは己の心の痛みではなく、他者の心の痛みを案じての事。ならば、わらわたちが聞かされた言葉を教え、わらわたちに心の痛みなどない事を伝えれば、お福は明るくなる、そう考えたのじゃ。そうであろう、お福」
お福は大きく頷きました。恵姫の言う通りだったのです。
「そうかあ、自分が言われたのと同じくらい辛い言葉を、あたしたちも佐保姫様から言われたと思って、お福ちゃんは心配してくれていたんだね。あ、でも、あたしたちの言葉を聞いて安心したってことは、お福ちゃんが聞かされた言葉は……」
「そうじゃ。わらわたちよりも、もっと辛く、もっと過酷な言葉であったのじゃろうな……」
そう言った恵姫も、そう聞かされた黒姫も毘沙姫も、お福が背負わされた哀しい宿命に思いを馳せて、胸が締め付けられるような気がしました。お福は三人に見詰められて、弱々しく首を振りました。私は大丈夫、そう言いたいのでしょう。それを見て恵姫が明るい声で言いました。
「お福。案ずることはない。佐保姫様が言っておられた、わらわはどんな困難も乗り越えられるとな。お福、わらわと共に苦境に立ち向かおうぞ」
「あたしも人を明るく照らせって言われたんだもの。お福ちゃんを守ってあげるよ」
「おう、守るのはこちらも同じだ。お福、お前を傷つけようとする者は、この毘沙様がことごとく叩きのめしてやる。安心するがいい」
三人の姫に囲まれて、お福は今日一番の笑みをその顔に浮かべました。それが確証の無い口約束であったにしても、自分に向けられた三人の真っ直ぐな心が本当に嬉しかったのです。
互いに互いの手を取り合う四人の姫を眺めながら、自分にも心許し合える仲間が欲しいものだと、ほのかな羨望を感じる雁四郎ではありました。
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