牡丹華その二 丸出尻

「磯島様、恵姫様」


 襖の向こうから女中の声がしました。珍しいことです。お稽古事の最中は極力邪魔をしないようにと言い渡してあるからです。にもかかわらず女中が来たのは如何なることであろうと、胸をざわつかせながら磯島は返事をしました。


「何事です。今は姫様のお稽古事の時間なのですよ」

「与太郎様が参られました」


 そんな事かと気が抜ける磯島。一方の恵姫は両眼を輝かせて立ち上がりました。


「おお、やっと来おったか。待ちかねたぞ」


 そして障子を開けると縁側に出て眼下に広がる東の海を眺めました。雨に煙る灰色の海と空の間には、くっきりとほうき星が輝いています。


「うむ。与太郎が来る時はほうき星が昇る時でもある、これはもう疑う余地はなさそうじゃな」

「姫様、与太郎殿が来たから何だと言うのです。あの者は私たちにとって益にも害にもならぬと分かったではありませぬか。言ってみれば野良猫が庭に遊びに来るようなもの。構うだけ時間の無駄です。それよりも早くお座りなさいませ。まだ本日のお稽古は終わっていないのですよ」

『ちっ、磯島め。わらわの腹の内を読みおったか』


 与太郎が来たことで稽古事を打ち切らせようとした恵姫の目論見を、磯島は既に見破っていたようです。だからと言って簡単に諦める恵姫ではありません。ここは食い下がるのみです。


「いや、磯島、確かに与太郎は箸にも棒にも掛からぬ奴じゃが、捨て置くわけにはいかぬであろう。男子禁制の奥御殿に入り込んでいるのじゃからな。此度はどのようにお福の元に出現したのか、確かめておかねばならぬ」

「そ、それはそうかもしれませぬが、悲鳴も聞こえず、騒ぎも起きていないのですから、わざわざ姫様が確認されずともよいのではないですか」

「いやいや、違うぞ磯島。与太郎は客人ではない。島羽にてわらわを救った恩義をはあれど、依然として無法な侵入者に変わりはない。この奥御殿の主であるわらわ、そして女中の頭であるそなたが直々に目通りする義務がある。おい、そこの女中、与太郎はどこに現れたのじゃ」

「は、はい、お福は小座敷にて縫い物をしておりましたので、そこに現れました」

「小座敷じゃな、分かった。行くぞ磯島」


 磯島の返事も聞かずに座敷を飛び出す恵姫。すっかり困り顔の磯島。当惑して廊下に佇む女中。


「仕方ありませんね。お前も来なさい。一緒に行きましょう」


 磯島は女中に声を掛けると、廊下を早足で進んで行く恵姫の後を追いました。

 小座敷は女中部屋の隣にあり、雑務やちょっとした作業の時に使う三畳ほどの小さな部屋です。到着した恵姫は声も掛けずにいきなり障子を開けました。


「与太郎、来るのが遅いぞ。何をしておったの……」


 恵姫の言葉が途切れました。とんでもない光景を目の当たりにしてしまったからです。中に居るのは与太郎とお福の二人。与太郎はお福の前で四つん這いになって尻を丸出しにしています。そしてお福はその丸出しの尻に触れているのでした。一気に興奮状態に陥る恵姫。


「な、なんという事じゃ。おい、与太郎。最初に来た時もお福に尻を見せていたが、お主、尻を見せて喜ぶなどという趣味の持ち主であったのか。なんという変態なのじゃ。驚いたぞ。お福もお福じゃ。いくらなんでもそんな変態に付き合う義理はなかろうが。相手の喜ぶことを全てしてやるのが親切ではないぞ。その喜び方は間違っているときっぱり拒否し断固たる態度で臨まねば、この世に変態がはびこるばかりじゃ。それとも……ま、まさか、お福、そなた、尻を見せられると嬉しくなるとか、そんな趣味があったのか。初めて与太郎の尻を見た時に座敷から逃げ出したのは、恥ずかしかったからではなく、嬉しさの余りであったのか。うむ、そうか、それならば仕方がない。わらわが許す。じっくりと与太郎の尻を見るが良い」

「違いますよ! 何を勝手に変な妄想を膨らましているんですか。怪我したんですよ」

「怪我、じゃと」


 よく見るとお福は直接尻に触れているのではなく、布を手に持って尻に当てています。横には蝦蟇の油が入った蛤も置いてあります。


「お福の縫い針が刺さったのでございます」

 恵姫の後ろから女中の声が聞こえました。

「お福は繕い物をしておりましたのです。そこへ突然与太郎殿が現われまして、その拍子にお福の持っていた縫い針が与太郎殿の尻に刺さったのでございます」

「なんじゃ、二人とも変態ではなかったのか」


 女中の説明を聞いて納得すると同時にがっかりする恵姫。変態ではないと聞いてがっかりする方が余程変態であるような気もするのですが、その場にいた一同はそんな重要な事にも気付いていないようでした。


「しかし、与太郎よ。そうなるとお主もこちらへ来るのは命懸けじゃな。今回は縫い針じゃったからその程度の怪我で済んだが、もしお福が包丁を握っている時にこちらに来たら大変なことになるぞ。あるいはお福が崖っぷちに立っている時とか、焚火に当たっている時とか。おお、怖い怖い。想像しただけで身震いしたくなるわい」

「ちょっと、変な事を言わないでくださいよ。気になって夜も眠れなくなっちゃうでしょ」


 ようやく怪我の手当ても終わり、ズボンを履いた与太郎はお福の横に座りました。頬が少し赤くなっています。最初に来た時と同じで尻を見られていたのが恥ずかしかったのでしょう。一方のお福はあの時座敷から逃げ出したのが嘘のように平然とした様子です。どうやら怪我の治療に専念することで、恥ずかしさは吹き飛んでしまったようでした。


『ほほう、お福も少しは成長したようじゃのう。これも磯島に鍛えられたおかげか。それに比べて与太郎の情けなさは相変わらずじゃな。仕方ない、此奴はわらわが鍛えてやるか』


 変な所で変な親心を発揮する恵姫です。与太郎にとっては有難迷惑以外の何物でもありません。


「与太郎よ、もっと気にするが良いぞ。次にここへ来る時は更に怖ろしい出来事がお主を待っているであろう。ふっふっふ。いつ亡き者になっても悔いの残らぬよう、あちらの世では日々精いっぱい過ごすが良いぞ」

「ひええ~」


 これでは鍛えるというよりも脅しです。怯える与太郎を哀れに思った磯島が、落ち着き払った態度で言いました。


「与太郎殿、安心なさい。お福には包丁を持たせるようなことは致しませぬ。また危険な場所へ行かせるようなことも致しませぬ。今まで通りの毎日をお過ごしなさいませ」

「あ、ありがとうございます。磯島様」


 磯島に向かって頭を下げる与太郎を、つまらなそうに眺める恵姫。この腑抜けぶりが何とも気に入らないのです。


「姫様も与太郎殿を困らせるような物言いは、慎まれた方がよろしいのではないですか。危険を恐れて御神木のある部屋に立ち入らなくなれば、与太郎殿は二度とこちらに来なくなってしまうのですよ」

「むむ、それは、確かにそうじゃが……」


 磯島の言う通りでした。ほうき星の出現と御神木への接近、この二つの要件が満たされて初めて与太郎はこちらに来られるのです。そして今、ここで与太郎が来なくなってしまえば、力の減衰が一時的に止まる現象の解明もできなくなってしまいます。


「分かった。いつ与太郎が来ても良いように、お福には極力危険な真似をさせないようにする。であるから与太郎よ。もっと頻繁にこちらに来るのじゃ。お主が来れば姫の力が増すのじゃからな」

「え、はあ、でも、僕は別にこちらに来ても特に嬉しい事もないし……」

「嘘を付くな。お福に会えるではないか。分かっておるぞ。お福はお主の好いておるおふうという娘に瓜二つゆえ、もっと繁々と会いたいのであろう。んっ、どうじゃ、お福に尻を見られ尻を触られて嬉しかったのではないか。正直に申してみよ」

「う、嬉しかったです……えっ!」


 ここで何の前触れもなくお福の中指が与太郎の額を弾きました。まるで悪戯をした子供を咎める母親のようです。以前、どこかで見たことのある風景に遭遇し、ただただ驚くばかりの与太郎と恵姫と磯島ではありました。

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