虹始見その五 佐保姫

 椎の木の下で雨宿りをする間渡矢城お花見御一行の面々。木を見上げたり地を見下ろしたりしながら、雨が止むのを待っています。


「お主のせいじゃぞ、与太郎」


 如何にも不機嫌な顔で恵姫が言いました。


「えっ、どうして僕のせいなの」

「こんな天気の悪い日に来るからじゃ。これまで二度ほうき星が昇った時はいずれも良い天気であったのに、わざわざこんな日を選んでくるとは……さては、わらわたちを雨に濡らそうという魂胆か、与太郎」


 これも恵姫お得意の言い掛かりです。与太郎は来る日を選ぶことができないと知っていてこんな事を言うのですから、余程機嫌が悪いのでしょう。


「そ、そんなこと、言われても……」

「桜雨もまた風情があるものですよ、恵姫様。与太郎殿、気にすることはありませぬぞ」


 雁四郎が助け舟を出してくれました。つまらなそうな顔をする恵姫は、それ以上は何も言いませんでした。言われてみれば雨に濡れた桜には、日に照らされている時とは違う美しさがあると感じたからです。

 雨が葉に当たる音、地を叩く音。誰も何も言わず、雨に濡れる桜を見ながらその音を聞いていました。しかしそれも次第に小さくなっていきます。


「おや、小降りになってきたか」


 花ござから顔を出して見上げた厳左の目に、切れかけた雨雲が映りました。と、同時に黒姫の声。


「見て、虹が出ているよ」


 皆、一斉に空を見上げました。雨はまだ降りながらも日差しの戻って来た空、そこにくっきりと七色の虹が現れていたのです。


「ほう、虹を背にした桜か。このような光景は初めて見るのう」


 恵姫は濡れるのも構わず花ござの下から出ました。灰色の空に掛かる半円の虹。その丁度真ん中に、花から、葉から、枝から雫を垂らす、大島桜が立っているのです。


「あれは……」


 いや、立っているのは桜の木だけではありませんでした。人が、まるで虹のように儚げなひとりの女が、桜の木の根元に立っているのです。五衣唐衣裳いつつぎぬからぎぬもをまとい、恵姫の髪よりもっと長い大垂髪おすべらかしを背に這わせたその姿は、かつての宮中の高貴な女性を彷彿ほうふつとさせます。


「あれは、あれは佐保姫、様……」


 まるでその女性に誘われるように、恵姫が桜の木に向かって歩き始めました。恵姫に続いて黒姫とお福も、そして与太郎も桜の木に歩み寄って行きます。


「これは、一体、何が……」


 雁四郎には見えないのです。いや雁四郎だけでなく、桜の木に歩んでいく四人以外には、女性の姿は見えないのです。妙な胸騒ぎを感じた雁四郎は四人と同じく桜の木に近付こうとしました、しかし、


「来るでない!」


 恵姫が右手を上げて雁四郎を制しました。有無を言わさぬその威圧感は、恵姫の言葉ではなく、まるで桜の木がそう言わせているように思えました。


「この人は、一体……」


 与太郎は怯えていました。こうして桜の木の下まで歩いて来たのは、自分の意志ではなく他の何者かに操られているように感じたからです。そして、いきなり現れたこの女性もまた、現実に存在しているようには見えませんでした。


「ここに御座おわすは佐保姫様、人にはあらず神、春の女神じゃ」


 すぐ近くにいる恵姫の声も、どこか遠くから聞こえてくるように与太郎には思えました。そして四人の歩みが止まった時、佐保姫は慈愛に満ちた声で恵姫に話し始めました。


「恵姫。また会えましたね。誰の声にも惑わされず、どんな苦境にも屈しないあなたの強さ。これからあなたはこれまでにない苦しい選択を迫られるでしょう。けれどもその澄んだ目と耳があれば、どんな困難も乗り越えられるはずです。あなた自身を信じ、あなたの心に背かず、真っ直ぐに歩みなさい」


 それは恵姫だけに語られた言葉でした。佐保姫はそれだけを言うと、今度は黒姫に話し始めました。


「黒姫。また会えましたね。いつも優しく喜びを忘れないあなたの明るさ。その明るさを捨て去らねばならないほどの試練の時が迫っています。けれども恐れることはありません。あなたの明るさは決して滅びません。そして暗闇に落ちた人々を明るく照らし続けるのです」


 それは黒姫だけに語られた言葉でした。佐保姫はそれだけを言うと、今度は与太郎に話し始めました。


「雄太。この世ではない別の世から来た者。あなたはまだ真実を知りません。そして自分の役目もまた知りません。それを知った時、あなたは苦しむでしょう。それがあなたに与えられた宿命。けれどもあなたならその宿命の重さに耐えられるはずです。自分の弱さを知っているあなたなら」


 それは与太郎だけに語られた言葉でした。佐保姫はそれだけを言うと、今度はお福に話し始めました。


「多福姫。過酷な宿命を背負わされた姫。あなたの身も心も引き裂かれる時が間もなくやって来るでしょう。それを選ぶかどうかはあなた自身です。かつての私も迷った末に選んだのです。けれどもあなたの選択に異を唱えられる者などひとりもおりません。あなた自身でお決めなさい。最も情け深く、最も力強く、そしてこの世界の運命を雄太と共に託された姫よ。あなたが発する言葉の重みを胸に抱いて歩んで行きなさい」


 それはお福だけに語られた言葉でした。佐保姫はそれだけを言うと、両手を広げました。


「姫の力を持つ者たち、昼が終われば夜が来ます。闇は避けられないのです。けれども明けぬ夜はなく、払われぬ闇もないのです。己を信じて進みなさい。佐保姫はいつでもあなたたちを見守っていますよ」


 その言葉を残して佐保姫の姿は消えました。夢から覚めたように四人は我に返りました。既に雨はやみ、空の雲は切れ青空も見えています。


「虹も……消えたか」


 恵姫の言葉を聞いて三人が見上げれば、あんなにはっきりと見えていた虹は、もうどこにも見えませんでした。


「あ、あの、今の佐保姫さんというのは、一体、何者なのでしょうか」


 恐る恐る尋ねる与太郎。恵姫は桜の木を見詰めたまま、淡々と答えました。


「先ほども言った通り、神じゃ。だが天に通じる神ではない。かつては佐保姫様も我らと同じ姫であったと聞いておる。ゆえに、姫の力を持つ者にしか見えぬのじゃ。遥か昔、人の体を捨ててあのような姿になった、斎主様はそう仰っておられた」

「与太ちゃん、消えちゃった……」


 寂しそうな黒姫の声。見れば、そこには与太郎の姿はなく、着ていた小袖と羽織、袴が地に伏すように残されていました。


「ここからは水平線は見えぬが、たった今、ほうき星が沈んだのであろうな」


 恵姫は不思議な偶然を感じていました。与太郎が来たこの日、ほうき星が昇り、雨が降り、虹が現れ、佐保姫が現れ、それらが消えた途端、与太郎も消えたのです。そこには何かの関連性があるような気がしてなりませんでした。


『与太郎をこの世に呼び寄せているのは姫の力などではなく、もっと大きな別の何かの仕業なのではないか……』


「恵姫様!」

 雁四郎が走ってきました。いきなり与太郎が消えたので驚いたのでしょう。

「何かありましたか。黙って桜の木の下に立っていたと思ったら、与太郎殿が消えてしまわれるし。それにお福殿の様子も……」


 言い淀む雁四郎の視線の先に居るお福は、まるで何かに祈りを捧げているかのように両手を固く合わせていました。顔は少し青ざめ、唇はぎゅっと噛み締められています。


「お福……」


 恵姫はそれ以上声を掛けることができませんでした。佐保姫に何を言われたのか、それを尋ねることは憚られました。ひとりひとりにしか聞こえない言葉で佐保姫は話したのです。それを聞き出すことは佐保姫の意志を無視するに等しい行為です。


「お福ちゃん」


 黒姫が両手でお福を抱きしめました。お福は少し表情を緩ませましたが、それでもその目は虚空を彷徨っていました。消えてしまった虹を探してでもいるかのように、お福の目は何かを追い求めているのでした。



※明日はお休みです。

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