虹始見その四 鯛と鯛焼き

「与太郎殿、酒は如何かな」


 厳左が杯を持って勧めてきました。すかさず雁四郎がそれを制します。


「お爺爺様、与太郎殿は十八です。お忘れですか、酒は二十才になってからという比寿家の家訓を」

「おう、失念しておった。済まぬな与太郎殿。ならば、雁四郎、そちが飲め」


 厳左は徳利を持つと雁四郎の杯に注ぎます。随分若く見えますが、雁四郎は二十才を越えているようです。与太郎は何の気なしに尋ねました。


「雁さんはいくつなんですか。誕生日はいつですか」


 そう言われた雁四郎は厳左と顔を見合わせました。


「拙者は今年二十才ですが、生まれた日は、はて、いつであったか。九月ころであったと記憶しておりますが、日にちまでは……」

「えっ、でも誕生日が分からなければ年齢も分からないでしょう」

「いえ、年が改まればひとつ年を取るのですから、誕生の日など意味はないでしょう」


 ここで与太郎は気付きました。この時代は数え年なのです。


「そうか、年の数え方が違うんだ。ごめん、ごめん。僕らの時代では誕生日になると一つ年を取るから」


 地獄耳の恵姫が二人の会話を聞き付け、しゃしゃり出てきました。


「ほう、誕生日で年を取るのか。すると、うるう月で同じ月が二度ある年はどうなるのじゃ」

「うるう月なんてないよ。暦も違うんだから」

「ならば、こちらの世の数え方では、与太郎はいくつになるのじゃ」

「えっと、確か、二才足せばいいんだっけ。この時代では二十才ってことになるのかな」


 これを聞いた厳左が再び杯を持ってやってきました。


「おお、与太郎殿は二十才であったか。ならば、飲め飲め」

「えっ、いや、あの、でも」


 問答無用で杯を持たされ、酒を注がれる与太郎。相も変わらず馬鹿正直な性格が災いしてしまったようです。それを横目で見ていた恵姫が忌々しそうにつぶやきました。


「ふん、与太郎に酒を飲ませるなど勿体無いわ。わらわでさえ甘酒で我慢しておると言うのに。気晴らしに包丁でも振るうかのう」


 恵姫は傍らの風呂敷包みから愛用の包丁を取り出すと、毛氈を下りて、料理の世話をしている女中たちに歩み寄りました。


「これ、そろそろわらわの腕前を披露しようと思っておる。支度をしてくれぬか」

「かしこまりました」


 女中たちは直ちにまな板を用意しました、その上には朝、恵姫が磯で釣ってきた磯真鯛が置かれています。懐から紐を取り出し、襷掛けで袖をまとめると、恵姫の見事な包丁捌きが始まりました。


「はっ! ほっ!、とう!」


 鱗を引き、頭と鰓を落とし、三枚におろし、柵を切って刺身にしていきます。流れるような動きと無駄のない所作。熟練した業師の芸事を見ているかのようです。切り分けられた刺身は女中の手によって皿に盛りつけられ、最初に与太郎の前に置かれました。


「さあ、与太郎殿、召し上がってください」


 雁四郎に言われて箸を取る与太郎、摘まんだ身を醤油とわさびと共に口に含みました。

「ん、うっ!」

 思わず唸る与太郎。一口噛んだ途端、とろけるような食感と甘味と旨味が舌の上に広がります。

「お、美味しい!」


 生魚と言えば、回転寿司の安い握りの上に乗っている切り身しか知らなかった与太郎にとって、これはもはや次元の違う食べ物でした。


「旨かろう。当たり前じゃ。わらわの捌いた刺身なのじゃからな。おい、全部食うでないぞ。わらわの分も残しておけよ、じゅる」

「姫様、よだれが垂れておりますよ」


 しっかりと与太郎に釘を刺しつつ、二匹目の磯真鯛に取り掛かる恵姫。その口元から垂れているよだれを磯島が拭き取っています。いつものことなので手慣れたものです。


「与太郎殿、花見料理は他にもある。さあ、食われよ」


 厳左に勧められて与太郎は重箱に箸を伸ばしました。かまぼこ、焼魚、野菜の煮物、まるで正月のお節料理です。与太郎はそういった和風の料理はあまり好きではありませんでした。けれども、こうして桜の下で大勢の人々と共に食べていると、これまでに感じたことのない味わいが口の中に広がるのです。


「美味しい、どうしてだろう、こんな素朴な料理なのに……」

「旨いに決まっておるわ。はぐはぐ。皆の手料理なのじゃからな。むにゅむにゅ」

「姫様、口に物を入れて喋るのはおやめください」


 三匹目に捌いた鯛を一匹丸々独り占めにして、刺身を頬張っている恵姫の言葉。ああ、そうなんだと与太郎は思いました。

 これまで自分が食べてきた物、コンビニで、食堂で、スーパーで手に入れた物、それは誰が作ったのか、どのように作ったのか、分からないものばかりでした。しかし、今、食べている物は違います。この土地で生まれ、この海で捕れ、ここに居る人たちの手によって作られた食物なのです。そこに込められた作り手の心がこの料理を通して自分に伝わっている、だから美味しいんだ、与太郎はそんな風に感じたのでした。


「めぐ様ってやっぱり凄いね。そして僕はやっぱり与太郎だよ。そう呼ばれるのも仕方ない、なんだかそんな気がしてきた」

「今頃気付いたのか、このたわけ者めが、ぐびぐび、ぷは~」

「姫様、お茶を飲んだ後に、ぷは~、はおやめください、はしたない」


 一気に一匹分の刺身を平らげお茶を飲む恵姫を磯島がたしなめました。これだけ人目が付く場所でも平然と無作法を決め込むのですから、恵姫の度胸もたいしたものです。


「は~い、それじゃ、食後のお菓子は如何ですか」

 黒姫がお手製のお菓子を配り始めました。厳左の屋敷で初お披露目をした魚の形をした焼菓子です。

「与太ちゃんも、おひとつどうぞ」


 黒姫から渡された焼菓子、どこかで見覚えのある形です。


「あ、こ、これは、鯛焼きだね」


 驚く与太郎。こんな昔の時代に鯛焼きがあるとは思ってもみなかったのです。


「ほう、与太郎の世にもこんな菓子があるのか。しかも鯛焼きとな。ちょっと詳しく話してみよ。ぱくぱく」


 与太郎の時代の事などには、さほど興味のない恵姫ですが、菓子の名に鯛が付くとなると放ってはおけません。鯛焼きを頬張りながら与太郎に尋ねます。


「いや、詳しくも何も、これと同じで、小麦粉を溶いて鯛の形に焼いて、中に餡を詰めたものだよ。ただ、見た目はもっと鯛に似ているかな。鱗とか目とか口とかもきちんと形作られていて、一目で鯛と分かるんだ。中身は……ああ、これは塩味の味噌餡だね。僕らの時代では甘い小豆餡が一般的かな」

「お、おお、な、なんということじゃ。与太郎の世にそのような鯛の菓子があるとは……じゅる」


 またもよだれを垂らし始めた恵姫です。磯島が手拭で拭いています。


「おい、与太郎。今度来る時はその鯛焼きとやらを持ってくるのじゃ。十個、いや百個持って来い」

「え、む、無理だよ」

「何が無理じゃ。黒とてこうして皆に配るだけの菓子をこしらえてきたのじゃぞ。お主にできぬはずがなかろう。無論、ただでとは言わんぞ。代わりに捕れたての鯛の刺身を振る舞ってやる。どうじゃ、悪い話ではなかろうが」


 確かに悪い話ではないのですが、いつこちらに来られるのか分からないのですから、用意のしようがありません。与太郎は困ってしまいました。


「鯛焼きって日が経つと皮が固くなっちゃうんだよ。ずっと手に持っているとなると冷凍とかも無理だし。中の小豆餡だけなら何とかなるかなあ」

「何とかせよ、知恵を絞れ与太郎。後の世の者であるという意地を見せ……おや」


 恵姫は空を見上げました。続いて磯島も黒姫も厳左も雁太郎も、そこに居る全員が空を見上げました。


「雨じゃ! 降ってきおったわ」


 心配していた事が現実になってしまいました。慌てて片付けを始める女中たち、幔幕を外し花ござや毛氈を丸める家臣たち。てんやわんやの大騒動です。


「ここでは濡れる。一旦、林の中へ避難だ。花ござを張ってその下でやり過ごすのだ」


 厳左の指示で桜の木を離れ、椎の木が多く立つ林の中へと駆け込みます。そうこうするうちに雨足は次第に強くなってきました。恵姫たちは枝々に花ござを張り、その下に身を隠しています。椎の木の枝葉と花ござのおかげで、ほとんど濡れることはありません。このままなんとかやり過ごせそうです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る