穀雨

第十六話 あし はじめてしょうず

葭始生その一 葦原

 すっかり暖かさを感じ始めた晩春の日差しの中を、恵姫、厳左、雁四郎の三人がのんびりと歩いていました。珍しく午前の外出なのは、これから間渡矢城下の東に広がる干潟を見に行くからです。潮が引く時刻に合わせ、昼前に出て来たのでした。


「今日は、お福殿は一緒ではないのですね」


 雁四郎がこんな質問をするのも無理はありません。お福が城で働き始めてから、恵姫が外出する時には必ずと言っていいほどお福が同行していたからです。


「ほほう、お福が居らぬのが不服か、雁四郎。与太郎同様、お主もお福に惚れておるようじゃな」


 道中の退屈しのぎに雁四郎で遊んでやろうと目論む恵姫です。すっかり悪い顔になっています。


「め、滅相もない。からかうのはおやめください、恵姫様」

「否定する割には顔が赤いのう、雁四郎」

「こ、これは日に照らされ、長く歩いたために、そうなっているのです」

「花見の時にはお福に酒の酌などをしてもらっていたではないか。わらわの目は誤魔化せぬぞ」

「そ、それは」


 雁四郎が言い淀んだところで、興味なさげに聞いていた厳左の助け舟が出ました。


「お福の同行は必要なしと磯島殿が判断されたのだ、雁四郎。厳左が居ればお福が居らずとも姫様は悪さをできぬからな。お福には女中としてのお役目がある。そうそう姫様の相手ばかりもしておれぬ」

「そうでしたか。納得いたしました」


『ちっ、厳左め。話をまとめおって』


 せっかくの雁四郎いじりを途中で打ち切られて、少々ご不満の恵姫。ただ、その胸の中にはひとつの心配事がありました。お福です。六日前の花見の折、佐保姫に言葉を掛けられてから、お福は元気をなくしていました。何かの物思いに耽るように、ぼんやりしている事が多くなっていたのです。今日、お福が同行しなかったのは、厳左が居るからという理由の他に、そんなお福を案じた磯島の気遣いもあったのです。


『あの時に聞かされた佐保姫様の言葉、必ずやってくる闇、苦しい選択……気が重くなる言葉ばかりじゃった。お福もわらわと同じように辛い言葉を聞かされたのであろうか』 


 そう考えると一層お福が哀れに思われました。さりとて恵姫にしてやれることはありません。恵姫や黒姫同様、それはお福自身の力で乗り越えねばならないことです。せめてお福には余計な気遣いをさせないようにしよう、そう思いながら恵姫はこの数日を過ごしていたのです


「まだ三月だと言うのに、今日は暖かさを通り越して暑いほどですね」


 雁四郎は眩しそうに空を見上げています。恵姫も空に目を遣りました。真上にほうき星が浮かんでいます。


「与太郎の奴め、こちらに来るのを嫌がっておるようじゃな」

「例のほうき星が見えているのですか、恵姫様」


 与太郎とほうき星の関係は、花見に同行した者たちには教えてあります。与太郎が現れる時、つまりほうき星が昇り始める時は分かりませんが、与太郎が消える時、つまりほうき星が沈む時は事前に分かるので、それだけでも与太郎の謎めいた部分はかなり軽減されたと言えます。


「まったく恩知らずな奴じゃ。花見で散々飲み食いしおってそのまま雲隠れとはな。己の世の鯛焼きをこちらに持ってくるくらいの恩返しもできぬとは、どこまでしみったれなのじゃ」

「いや、単に与太郎殿の都合がつかないだけでしょう。それに長く待たされれば、次に会った時の喜びも大きくなるというものです。拙者も与太郎殿とまた打ち合ってみたいと思っているのですよ」


 どうやら雁四郎は与太郎に稽古を付けてやるのを楽しみにしているようです。かつて手足を縛られ、厳左に斬られそうになり、座敷牢に放り込まれていた事が、信じられないくらいの与太郎大人気です。


「おう、見えてきた」


 厳左が声をあげました。三人の遠く前方には海が、そしてその手前には干潟が広がっています。


「ほう、ここが新田開発の候補地か」


 先日、庄屋の屋敷で話に出た新田開発の計画は、間渡矢城の有能な家臣たちによって着々と進められていたのです。任を受けた役方が領内の各地を見て回り、最終的に最適と判断したこの場所を恵姫に見てもらうために、今日こうして三人は連れ立ってやってきたのでした。


「ここは細いながらも川が流れ込んでおる。今からため池を作っておけばさほど水には困らぬであろう。なにより海に近ければ姫様の力が大いに役立つ。やはりここが一番の場所とわしは考える」


 恵姫は辺り一面を見回しました。遠浅の海、その手前の干潟には枯れた葦と、芽を出した葦が混在しています。左側にはさほど大きくない川、その川岸も葦原になっています。


「随分と海が遠いのう」

「今は潮が引いているのです。満ちてくればこの干潟のほとんどが海水に覆われましょう」

「そうか、ならばわらわの力も役に立つのう」


 厳左の言葉通り、どうやらここが新田開発には最適の地のようです。恵姫も大いに満足でした。

 海を見た後は川岸の葦原に近付きました。刈り残しの枯れた葦が川の流れに洗われています。


「豊葦原の瑞穂の国とはよく言ったものじゃ。葦は簾にも屋根にも松明にも使える。しかし新田になればこの葦原はなくなるのであろう。民が困らぬか」

「葦原は他にもある。この河辺一帯の葦が失われたとて、不足するようなことはない、それが役方の見立てだ」


 領内を全て見て回った役方がそう判断したのなら間違いはないはず、厳左の言葉に納得した恵姫は水辺まで近づくと、新田開発のために消え行く運命にある葦の茎に触れました。水面からは緑の若芽、葦牙あしかびが顔を出しています。恵姫はその芽を摘み取ると、口に含んで噛み始めました。驚いた雁四郎は、ここは家臣の務めとばかりに注意します。


「姫様ともあろうお方がそのような物を口にされますな。、城に戻れば茶菓子もありましょう」

「懐かしいな」


 厳左も水辺に近寄ると葦牙を摘み取り口に入れました。


「お爺爺様まで……はっ、いやご家老様まで、そのような……」


 恵姫だけでなく厳左まで同じ行動を取ったことで、雁四郎は戸惑ってしまったようです。城のお役目の時には「ご家老様」と言うべきであるのに、ついつい「お爺爺様」と口走ってしまいました。厳左は別に諌める様子もなく、雁四郎に葦牙を突き出します。


「食ってみろ、雁四郎。思えばお前にはこのような物を食わせたことはなかったな。だが我らが若かったころ、ひもじくなるとこうして春の葦原に来て、萌え出たばかりの芽を齧っていたものだ」

「そうじゃぞ。わらわも幼い時、黒と一緒に春の葦原で芽をかじって遊んだものじゃ。これは立派に食えるし、なかなかに美味い。ほれ、齧ってみよ」


 自分より目上の姫と家老から食べろと言われれば、食べないわけにはいきません。雁四郎は厳左の手から葦牙を受け取ると、口に含んで噛みました。筍のように微かな甘みがあります。


「これは……悪くありませぬな」


 雁四郎は噛んでいた葦牙を吐き出すと、もう一本摘み取って口に含みました。雁四郎の豹変ぶりに、恵姫も厳左もすっかり可笑しくなりました。


「ははは、雁四郎、だいぶ気に入ったようだな」

「厳左、新田のためにこの葦原を潰すと、雁四郎が文句を言うのではないか。困ったのう」

「お二方とも、からかうのはおやめくだされ」


 雁四郎は照れながらも、自分の未熟さを痛感していました。未だ知らない事ばかり、厳左は勿論、恵姫に対してもまだまだ頭が上がりそうにない、雁四郎は改めてそう思うのでした。


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