第十二話 かみなりすなわち こえをはっす

雷乃発声その一 絶体絶命

 船倉に押し込められた恵姫とお福。腹が減ったと言うので味噌玉を差し出すも、いつまで経っても恵姫は食べようとしません。しびれを切らした男はがなり立てました。


「やいやい、いい加減に食わねえか。いつまで腕を突き出していなけりゃならねえんだよ」


 恵姫は平然としたものです。澄ました顔で言いました。


「これでは食えぬ。手を縛られておるのじゃぞ。縄を解いてくれ」


 男が困った顔で女を振り向きました。どうやらこの女が男たちのかしらのようです。女頭領は少し考えてから言いました。


「あんたの縄を解くわけにはいかないね。そっちの娘に食べさせてもらいな」

『ちっ、当てが外れたわ』


 小さく舌打ちする恵姫。それでも望みを完全に断たれたわけではありません。言われた通りに恵姫とお福は互いに近付き合いました。二人とも縄の端が柱に括り付けられているので、体が触れ合う距離まで近付くことはできません。

 縄が伸びきるほどに近付いた場所で、お福は味噌玉を二つ受け取り、一つを恵姫の口に近付けました。


「お福、お福」

 恵姫が小声で名を呼んでいます。お福は首を傾げました。

「懐じゃ、懐の中のものを取れ」


 懐にあるのは、もちろん例の印籠です。いつもは帯に挟んでいる印籠ですが、小袖に羽織袴の男装束となっている今は懐に隠してあるのです。それを直に手で握れば姫の力を使えるのです。

 恵姫の考えを察したお福は目で頷きました。右手を一旦引っ込めて味噌玉を二つ持ち、それを再び恵姫の口に近付けながら、左手を懐の中に忍び込ませます。


「おいおい、くすぐったいぞ、お福」


 思わず声をあげ身をよじる恵姫。この動きを女頭領が見逃すはずがありません。


「ちょっと、何してるんだい」

「しまった!」


 つかつかと歩み寄った女頭領はお福の左手を捩じ上げました。手に持った物が床に落ちます。


『万事休すじゃ。あれを奪われては業が出せぬ』

「なんだい、これは」


 女頭領の呆れたような声が聞こえます。床に転がっている物を拾い上げる女頭領。それを見て恵姫も、そしてお福も、女頭領と同じく「何だ、これは」と思いました。それは神宮外宮の土産物屋で買った鯛車だったのです。


「子供のおもちゃかい。くだらない」

「く、くだらないとは何じゃ。鯛は縁起物であるぞ。わらわは飯を食う時は必ず鯛を見ながら食うのじゃ。そうすれば不味い飯も美味く食えるからのう」


 咄嗟に言い訳をする恵姫。女頭領は興味無さそうに鯛車を放り投げると、吐き捨てるように言いました。


「さっさと食いな。いつまでもあんたたちに構っていられるほど暇じゃないんだからね」


 お福は姿勢を直すと、恵姫の口に味噌玉を運びました。それを齧りながら恵姫は考えました。


『うむ、どうやら昨晩の馬鹿騒ぎの折に、鯛車を懐に入れたまま眠ってしまったようじゃのう。それにしても印籠はどこに……はっ!』


 ここで恵姫はようやく思い出しました。水芸を披露しようとして雁四郎に印籠を取り上げられたことを。そのまま返してもらうことなく眠り、ここに運ばれてしまったのです。


『雁四郎の奴、どこまで役に立たぬおのこなのじゃ。印籠がなければここから抜け出す手立てがないではないか。ここまで従者としての資質に欠けておるとは思わなんだわ、まったく』


 と、心の中は不平不満で一杯の恵姫ですが、どう考えても自業自得です。そもそも昨晩の馬鹿騒ぎで神海水を使ってしまったら、印籠を持っていたとしても今と同じ状況だったわけですから、これで雁四郎を責めるのは酷と言うものでしょう。ただ、姫の証しである印籠をすぐに返さなかったのは、確かに雁四郎の落ち度であるかもしれません。

 言葉に出さずにぼやきながらも味噌玉を食べ終えた恵姫は、お福に合図して吸筒を口に近付けさせました。


「なんじゃ、吸筒は一本しかないのか。二人では足りぬぞ」

「水は貴重なんだよ、我慢しな」

「おまけにただの水か。茶を飲みたいのう」

「船の上で火を焚いて茶を沸かせってのかい。冗談はやめとくれよ」

「ちゃんちゃらおかしくて臍が茶を沸かすってやつですな」

「お前まで馬鹿なお喋りに付き合うことはないんだよ。もういい、行きな」


 女頭領に叱られた男は飲み終わった吸筒を持って、船倉から出て行きました。それを見届けた女頭領は縄を持つと、お福に近付き両手を縛り始めました。


「何をするのじゃ。お福は縛らぬと言ったではないか」

「気が変わったんだよ。両手が使えると何をしでかすか分からないからね」


 どうやら恵姫の懐から鯛車を取り出したことで、女頭領の警戒心が増してしまったようです。恵姫の計画は完全に裏目に出てしまいました。ただ恵姫とは違って後ろ手ではなく前で縛られていました。多少の手心は加えているようです。


「これでよし」


 女頭領がお福を縛り終えると、先程の男が戸を開けて顔を出しました。


「お頭、風が出てきたようです。そろそろ帆上げの準備を」

「ああ、分かったよ。あんたたち大人しくしているんだよ。外海に出ちまったらもう逃げようがないんだからね。さっさと観念してしまった方が身のためさ。あんた、外でしっかり見張ってるんだよ」

「へい、分かってまさぁ」


 ずっと付き添っていた男と一緒に船倉を出ていく女頭領。戸が閉まり錠の掛かる音が聞こえます。遠ざかっていく足音は二人だけ。味噌玉を持って来た男は戸の外に残って見張っているようです。

 恵姫とお福はほっと息を吐きました。閉じ込められているとはいえ、直接監視する者が居ないというだけで、気分はかなり休まるものです。


「さて、どうするかのう」

 と、取り敢えず言ってはみたものの、何の手立ても思いつきません。

「仕方ない、寝るとするか」


 暇な時はいつもそうしているように、恵姫は床に寝っ転がりました。果報は寝て待ての格言を実践するつもりです。

 やがて上の方が騒がしくなってきました。帆を張っているのでしょう。ほどなく船倉はゆらゆらと揺れ始めました。


「動き出したか。外海に出れば如何に雁四郎でも見つけるのは難しいであろうな」


 恵姫は天井の格子を見詰めました。この船倉と外を結ぶ唯一の空間。あの格子窓の向こうには海が、海水があるのです。


「やってみるか……」


 恵姫は心を静め、自分の気を髪の一本一本に集中させました。


『海を感じよ。穏やかで激しくて青くて灰色の海を……感じよ、我が髪。海を捕らえよ、我が心。海を、海を……』


 恵姫の髪がわずかに持ち上がり、髪の先端が薄らと光り始めました。しかし、それは直ぐに収まり、元の垂れ髪に戻ってしまいました。


「やはり無理じゃな。この肌に潮風を、この目に海を、この耳に波の音を、この鼻に礒の香りを感じねば、業も力も使えぬ」


 落胆する恵姫。そんな恵姫にお福は寂しい笑顔を向けました。もう全てを諦めきっているようです。


「お福……」


 何とかお福を元気付けてやりたい、そう思った恵姫は縛られた足を伸ばしました。ゆらゆらと船が傾くたびに行ったり来たりする鯛車。足でそれを受け止めた恵姫は、床に寝転んで遊び始めました。


「ほれ、お福見てみろ。転がすと尾びれが動くのじゃぞ。うまくできておるのう。面白いのう」


 お福は少し笑みを浮かべましたが、すぐに元の暗い顔に戻ってしまいました。さすがにこんな事では気が晴れないようです。恵姫は鯛車を足で弄びながら自分の無力を痛感しました。そうして船倉に重い空気が流れ始めた時、


「きゃっ!」


 突然、お福が叫び声をあげました。と同時に何かが落ちて来たような音もしました。


「どうした、お福!」


 恵姫が目を遣ると、お福は床に倒れ、その上になにやら人がーー奇妙な装束の男が、お福の体に覆いかぶさるように乗っています。与太郎でした。

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