桜始開その五 風待ち島

 妙に体が痛むと恵姫は思いました。腕を動かそうと思ったのですが、動きません。足を開こうと思ったのですが、開きません。このまま寝ているのは苦しいだけなので、仕方なく目を開けました。


「ふあ~、よく寝たわい」


 昨晩は少しはしゃぎすぎたようです。まだ頭がぼんやりします。


「ようやくお目覚めかい。よく寝ていたねえ、もうとっくに夜は明けてんだよ」


 どこかで聞いたような女の声です。寝ぼけ眼の顔で声のする方を見れば、昨晩、大部屋で一緒に泊まった女です。


「ああ、そなたか。まだ暗いようじゃがもう朝なのかのう……おや、ちょっと待て。ここは大部屋ではないな。しかも、おい、何じゃこれは。わらわの手と足が縛られておるではないか」


 恵姫が驚くのも無理はありませんでした。後ろ手に縛られ、足首も縛られ、そんな状態で寝転がっているのは畳の上ではなく板の上。周囲は襖も障子もない柱と板壁。天井は剥き出しの梁と板で、一部分だけ格子窓になっており、そこから弱い日の光が差し込んでいます。どう考えても人が眠るような場所ではありません。


「ここは……船、船倉じゃな」


 恵姫がそう思ったのは揺れているからでした。この独特の揺れは水の上に浮いているからに違いない、そう感じたのです。


「おや、よく分かったねえ。魚問屋の娘だって言っていたけど、船にも乗っていたのかい」

「うむ、船は大好きじゃからな。しかしこの揺れでは走ってはおらぬな。まだ島羽の港におるのか」

「ははは、何を言ってるんだい。島羽なんてとっくに出ちまったよ。今はいい風が出るのを答志島で待っているところさ」


 女は陽気に笑っています。恵姫の言葉がおかしくてたまらない、とでも言いたげな笑い方です。それでもこうして船に乗せてくれているのですから、取り敢えず礼を言っておこうと恵姫は思いました。


「そうか、わざわざ船で間渡矢まで送ってくれるとは有り難い。礼を言うぞ。街道を歩くのはもううんざりしておったのじゃ。では、この縄を解いてくれ。縛られておらずとも、船の揺れくらいで体をぶつけるようなヘマはせぬ」

「ほっほっほ、まだ自分の置かれている状況が飲み込めていないのかい」


 突然笑い出す女。まるで馬鹿にしているような女の態度に、恵姫の機嫌が悪くなりました。


「なにを笑っておるのじゃ。わらわの状況はきちんと飲み込めておる。そなたの船旅のついでに、わらわたちを間渡矢の魚問屋まで乗せて行ってくれるのであろう。頼んでもおらぬのに眠っておる間に船に運んでくれるとは、親切な旅人もあったものじゃ」

「あたしが親切だって、ははは。どこまで呑気なお嬢さんなんだろうね、おい、入んな」


 女が指をパチンと鳴らしました。戸の向こうで「へい」と声がすると、男が二人入ってきました。その顔を見た恵姫は驚きの声をあげました。


「やや、お主たちは昨日、海豚屋の主人と揉めていた小悪党ではないか。何故、こんな所に……」


 と言いながら頭を回転させる恵姫。世間慣れしていない恵姫でもおおよその見当は付きます。


「なるほど、読めたわ。これは罠。全て仕組まれていたのじゃな。城下で見掛けた美しい娘、つまりわらわに一目惚れしたどこぞの若君が、『力づくでも自分のモノにしたい!』と海豚屋の主人に相談。そこでこいつら小悪党を使って臭い芝居を演出。わらわたちを温泉宿に泊めて眠っている隙に船に乗せ、若君の所へ送り届ける、これが真相であろう。うむ、まあ仕方ないのう。わらわのように容姿端麗なおなごは、島羽の城下には滅多に居らぬであろうからな。して、その若君とは誰なのじゃ。別にこんな真似をせずとも、直接言えば会ってやらんでもないのにのう」


 聞いていた女も男二名も、呆れてものが言えませんでした。ここまでお気楽な娘は今まで会ったことがありません。


「一体、どこまで自惚うぬぼれているんだい、このお嬢さんは。いいかい、あたしたちは人買いだよ。金で買うこともあるが、こうしてかどわかして売り飛ばすこともあるんだよ」

「ほう、売り飛ばすとな。どこへ売り飛ばすつもりなのじゃ」

「そうだね、そっちの娘なら吉原でも大丈夫さね」

「吉原か。江戸には一度行ったことがあるが、吉原住まいも悪くないのう」

「誰があんただって言ったんだよ。そっちの娘だよ」


 そう言われて恵姫はそっちを見ました。お福が大人しく座っていますが、恵姫とは違って手も足も縛られてはいません。腰に結わえられた縄が柱にくくり付けられているだけです。


「なんじゃ。どうしてお福の手足は縛らぬのじゃ」

「こっちの娘は上玉だからね、手や足に傷を付けたくないんだよ。それにあんたと違って大人しいしね。一言も口を利かないし」


 お福は顔を伏せて座っています。すっかり観念している様子です。なんと哀れな姿であろう、と恵姫は思いました。


「ところで雁四郎はどうした。別の船倉に居るのか」

「あいつは逃がしたよ。町人の姿をしているが、昨日の身のこなしをみると相当腕が立つようだからね。どうせ用心棒か何かだろう。下手に船に乗せると厄介だからね」

「そうか、雁四郎はここには居らぬのか」


 恵姫にとってもお福にとってもそれは朗報でした。雁四郎ならば手を尽くして探し出してくれるのではないか、そんな微かな希望を抱くことができるからです。


「しかし、雁四郎を逃がすとは、そなたたちも優しいところがあるではないか。不要ならば口封じのために命を奪うのが一番であろうに」

「そこは考え方さ。三人とも行方不明になれば、あんたの親類縁者が血眼になって探すだろう。昨日の揉め事は見ていた奴が大勢いる。海豚屋に行ったことがすぐ分かる。怪しいと睨まれれば、今後同じことは二度とできなくなる。それじゃ困るだろう。ところが一人だけ自由になったとなれば、一番疑われるのは誰だと思う」

「雁四郎か」

「そうさ。あの男が二人を殺めて知らぬふりをしている、そう考えるのが一番自然さね。海豚屋の主人も、『男の目付きが悪かった』だの、『朝、三人で宿を出るのを見た』だのと嘘を付けば、疑いはますます濃くなる。無実の罪をなすりつけられ処刑されればそれで終わりさ。もっともこんな事は、あんまり頻繁にやるわけにもいかない。拐かしはあの娘みたいな飛び切りの上玉を見掛けた時だけさ」


『なるほどのう、世の中はまだまだわらわの知らぬ事で満ち溢れておるのじゃな』


 恵姫は感心してしまいました。そしてどんな事でもそれを生業とするのであれば、知恵と行動力が不可欠であると、今更ながらに感じたのです。


『ふむ、どうやらこやつら、かなり年季の入った人買いのようじゃな。わらわだけなら何とでもなるが、お福が心配じゃ。わらわと引き離されでもしたら、二度と助けられぬかもしれぬ。ここは早目に逃げ出す算段をせねばならぬな』


 ようやく真面目に事の重大さを認識し始めた恵姫です。さっそく脱出作戦の開始です。


「わらわの置かれた状況はよく分かった。では、朝飯を用意してくれ。腹が減ったのでな。ああ、茶も頼むぞ」

「はあ?」


 女は口を開けてポカンとしています。男二名も同様です。


「はあ、ではない。飯じゃ。わらわたちは大切な商品なのじゃろう。腹を減らせてどうするのじゃ」


 女は憎々し気な顔で恵姫を睨み付けています。飯の用意をするくらいのことは言われなくてもしたのでしょうが、こうして面と向かって用意しろと言われると、無性に腹が立つものです。


「いちいち小生意気な娘だね。ちょっと、何か持ってきてやんな」


 そう言われて男の一人が船倉から出て行きました。しばらくして戻ってきた男の手には二つの茶色い玉と一本の竹の吸筒。


「ほらよ」


 そう言って顔の前に突き出されたものは、どうやら味噌玉のようです。


「なんじゃ味噌か。握り飯くらいないのか」

「贅沢言うんじゃねえ。これでもこの船じゃ、かなりマシな食い物なんだぜ。ほらとっとと食いな」


 恵姫はにやりと笑いました。食い物は味噌玉でも握り飯でもなんでもよかったのです。手に、あれを握りさえすれば、ここを抜け出すくらいわけはないのです。心配そうに自分を見るお福に、恵姫は心の中で呼び掛けました。


『案ずるな、お福。すぐにここから出してやるからな』

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