雷乃発声その二 与太郎奮闘

「えっ、ちょっと、何、これ、ええっ!、マジ?」


 与太郎の言葉は全く言葉になっていません。驚愕のあまり、声を言葉にすることすらできなくなっているようです。そして驚いたのはもちろん与太郎だけではありません。お福も恵姫も、そして戸の外で見張っている男も驚きました。


「おい、何だ、今の音は。何かあったのか」


 錠を開ける音がします。恵姫は慌てて与太郎に言いました。


「身を隠せ、早くするのじゃ」

「えっ、隠すってどうして、どこに、どうやって」

「世話が焼けるのう、ほれ、そこの木箱の陰にじゃ。早くせい」


 船倉にはあちこちに木箱が積まれています。そのひとつの物陰に与太郎は身を潜めました。戸が開き、男が入ってきます。


「おい、今、何か物が落ちたような音がしただろ。何の音だ」

「ああ、いや、なに、鯛車で遊んでおったら体が転がって、壁にぶつかったのじゃ。大丈夫、怪我はしておらぬぞ」


 恵姫の咄嗟の大嘘。これは長年に渡る磯島との戦いの中で身に着けた特技とも言えるものでした。恵姫のこれまでの人生は、如何にして磯島を欺くか、その修練であったと言っても過言ではないでしょう。そしてその修練の成果が、今、ようやく実ったのです。やはり磯島は大した教育者でありました。

 男は疑わしそうな目で船倉を見回していましたが、どこにも異常はないと分かると、

「気を付けろよ」

 と言い残して、外に出て行きました。ほどなくして錠を掛ける音。恵姫はほっと息を吐きました。


「あ、あのう、これは一体どのような状況なのか、説明していただけないでしょうか」


 木箱の陰から這って出て来た与太郎が、小声で恵姫に尋ねました。


「見て分からぬか。わらわとお福は人買いにかどわかされたのじゃ。船に乗せられ吉原に売られていくところじゃ」

「あちゃ~、またなんて時に来ちゃったんだろう」


 与太郎は両手で顔を覆っています。彼にとっては、道を歩いていたらいきなり頭上に隕石が落下してきたくらいの予期せぬ災難に違いありません。思わず同情したくなるような運の悪さです。さりとて恵姫たちにとっては文字通り、地獄に仏的な運の良さと言えます。これでここから逃げ出せる確率は相当高くなったはずです。


「おい、与太郎、いつまでも我が身の不運を嘆いていないで、さっさとわらわたちの縄を解け。このままでは逃げようにも逃げられぬ」

「う、うん」

 と言って与太郎はお福の縄を解きに掛かりました。


「おい、どうしてお福が先なのじゃ。姫であるわらわの縄を先に解くのが礼儀であろう」

「僕が来た三百年後の世界では身分なんか関係ないんです。弱い者を優先的に助けるのが当たり前なんです」

「ほう、身分がないのか。それは良き世であるな」


 恵姫は素直に感心しました。自分たちの子孫がそのような世を作っていることに、少しばかりの嬉しさを感じたのです。


「う~ん、なかなか解けないなあ」


 与太郎は悪戦苦闘しています。見ていてもいらいらするような手際の悪さです。恵姫はたまらず叱りつけました。


「与太郎、何をちんたらやっておるのじゃ。そんな手付きでは一日経っても縄は解けんぞ」

「僕が来た三百年後の世界では、こんな縄を結んだり解いたりなんて、普通の生活の中ではしないんです。だからできなくても仕方ないんです」

「なんと、縄の一本も解けぬのか。情けない」


 恵姫はがっかりしました。自分たちの子孫がそれほどまでに不器用になってしまっていることに、少しばかりの落胆を感じずにはいられませんでした。


「えっ!」


 与太郎が上ずった声を出しました。お福は縄で縛られた手をずらして、与太郎の手を掴むと、自分の胸元に導いたのです。


「な、なな、なんで僕の手を胸に……」

「お、おい、お福、何を始めるつもりじゃ」


 与太郎も恵姫も、思ってもみなかったお福の行動に度肝を抜かれました。それでもお福はやめようとしません。縛られた不自由な手をぎこちなく動かし、頬を少し赤らめながら、襟の合わせ目へ与太郎の手を導いているのです。やがて与太郎の手がお福の懐に入りました。さすがの恵姫も大興奮です。


「こ、こりゃ、こんな場所でそんな行為に及ぶとは、お福、そなたなかなか度胸があるではないか。いや、まあな、若い男女の事ゆえ仕方ないのかもしれぬが、わらわの見ている前でそのような真似、はしたないとは思わぬか。そ、それとももしや、わらわに見て欲しくてここで始めたとでも言うのか。よし、分かったぞお福。しっかり見てやろうぞ。遠慮なくやるがよい」

 と、一人で盛り上がる恵姫ですが、そんな事を言っている間に与太郎の手はお福の懐から出てきました。手に何か持っています。

「それは……それは懐剣か」


 その通りです。さすがは公家の娘、磯島。壺装束を身に着けた時の嗜みとして、先祖伝来の黒漆に金の家紋入り懐剣を、お福にも預けていたのでした。


「うむ、でかしたぞ磯島。あやつ、まさかここまで見通していたのではなかろうな」


 磯島にそれ程の先見の明があったかどうかはともかくとして、これで縄の戒めは解けるはずです。与太郎は鞘から剣を抜くと、お福を縛っている縄を全て断ち切りました。


「大丈夫かい、お福さん。どこか痛むところはないかい」


 与太郎が優しく呼び掛けました。平気だと言わんばかりに首を横に振るお福。そんなお福の髪や肩や背を撫でて埃や塵を払う与太郎。二人の仲睦まじい姿を見せられて、未だに縛られたままの恵姫の苛立ちは増すばかりです。


「おい、与太郎。いつまでもお福にかまっておらんで、さっさとわらわの縄も切れ」

「あ、はい。えっと、めぐ……だったっけ。今すぐ切るよ」


 与太郎は恵姫の縄を切りに掛かりました。切られながら非常に不満な声で与太郎に話し掛ける恵姫。


「ところでなんじゃ、めぐ、とは。お福の名は覚えておるのに、わらわの名は忘れたのか」

「ごめんなさい。あんまり物覚えがいい方じゃなくて」

「わらわは恵姫じゃ。忘れるでないぞ」

「恵姫……ちょっと長いなあ。やっぱり、呼ぶ時は、めぐ、でいいかな」

「呼び捨てとは無礼な。様を付けぬか」

「わ、分かりました。めぐ様」


 与太郎の馴れ馴れしさがどうにも不満な恵姫です。生きている世界に三百年の差があるとは言っても、考え方も装束も言葉も、これほどまでに変わってしまうのだろうかと不思議に思えてなりません。


『逆にわらわが足利の世に遡ったとしても、これほどの違和感はなかろうにのう。これからの三百年でこの世は大きく変わるということなのじゃろうか』


 恵姫は今日の与太郎の装束を眺めながら、与太郎の世になるまでに何があったのか、聞いてみるのも悪くないなと思いました。


「ふう、やっと切り終わった。じゃあ、お福さん、これお返ししますね」


 ようやく恵姫の縄を全て切り終わった与太郎は、剣を鞘に収めて懐剣をお福に渡しました。頭を下げてそれを受け取るお福。与太郎は訳もなく笑顔になっています。


「おい、与太郎」


 後ろから恵姫が呼び掛けています。「何ですか」と言って振り向いた与太郎の頬を、恵姫の強烈な平手打ちが襲いました。一瞬何が起きたのか分からず放心状態に陥った与太郎でしたが、すぐに抗議の声をあげました。


「な、何をするんだよ、めぐ様。せっかく助けてあげたのに」


 与太郎が怒るのは当然です。あまりにも理不尽な恵姫の仕打ち。しかし恵姫の顔は怒りに満ちていました。

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