桜始開その四 消えた二人

 翌朝、雁四郎が目覚めた時には、もう大部屋には朝日が差し込んでいました。部屋を見回せば他の泊り客は出立してしまったのでしょう、誰も居ませんでした。そう、誰も。恵姫もお福も居なかったのです。


「どこへ行かれたのだ」


 雁四郎は、まず身の回りのものを改めました。振り分け荷物も胴巻きの中の財布も通行手形もなくなってはいません。それを確認した後、部屋を出て帳場へと急ぎました。


「済まぬ、拙者の連れの娘二人を知らぬか。どこにも居らぬのだ」

「ああ、あのお二人なら朝早く立たれました。今頃は街道を歩いていらっしゃることでしょう」


 馬鹿な、と雁四郎は思いました。自分を置いて先に行くなど考えられなかったのです。


「それは誠であろうな。偽りを申しているのではなかろうな」

「嘘じゃないよ」

 戸口から声が聞こえました。昨晩大部屋で一緒だった泊り客の一人です。

「あんたが気持ちよく眠っているから、起こさないで先に行くって出て行ったのさ。早く追いかけた方がいいんじゃないのかい」


 番頭だけでなく客からも言われたのでは、信じないわけにもいきません。


「御免!」


 雁四郎は海豚屋を出ると、島羽街道目指して走り出しました。こんなことは初めてでした。恵姫の悪戯にしては度が過ぎています。


「何故、拙者を置いて先に出て行かれたのだ。何故、お福殿は恵姫様をお止めしなかったのだ。早く追いついてその理由をお尋ねせねば」


 雁四郎は焦りと怒りに身を焼きながらひた走りました。

 しかしどれほど走っても二人の姿は見えてきません。宿を出て四半里ほど行ったところで、さすがの雁四郎もおかしいと感じ始めました。


「これだけ走って追いつけないのなら、二人はまだ街道を歩いてはいないのだ。あるいは城下のどこかで団子でも食いながら、拙者が来るのを待っているのではないか」


 もしそうならば、早急に戻らねばなりません。路銀は全て雁四郎が持っているのです。あの恵姫ならば金がなくとも団子を食うくらいのことは平気でやってしまうでしょう。


「戻ろう。やはり二人はまだ城下にいるのだ」


 再び城下に戻った雁四郎は、名を呼びながら二人を探しました。


「お嬢様―、お福殿―、お嬢様―!、お福殿―!」


 しかし返事はありません。団子屋、飯屋、茶屋、片っ端から覗いて歩いても二人は見つかりません。往来の通行人に尋ねても首を振るばかりです。


「どこだ、どこに居られるのだ……」


 何の手掛かりも得られぬまま島羽城下を彷徨う雁四郎。やがてその足は再び海豚屋に向けられました。もうそこしか行く場所がなかったのです。


「あの恵姫様のことだ。少々の事ならば自力で乗り切られるであろう。何といっても力をお持ちの姫なのだから」


 そう考えて胸に手をやった瞬間、雁四郎はそれが大間違いであることに気付きました。懐には昨晩恵姫から取り上げた印籠が入ったままになっていたからです。これがなければ海水を身近に感じられる場所に居ない限り、恵姫は何の力も持たぬただの娘と同じです。


「なんということだ。護衛の任にありながらこんな事態を招いてしまうとは。悔やんでも悔やみきれぬ」


 雁四郎は歯ぎしりして自分を責めました。ここに来る前に何度も感じた妙な胸騒ぎ。今のこの状況を回避する機会は何度もあったはずです。それだけに後悔の念はますます強くなるのでした。

 しかし、今は自責の念に駆られている時ではありません。一刻も早く二人を見つけ出さねばならないのです。

 やがて遠くに海豚屋が見えてきました。誰かが戸口から出てきます。その男の顔を見て、雁四郎は声をあげそうになりました。昨日の昼に匕首を抜いて切りつけてきた男だったのです。


「貴様、そこで何をしている」

 男目掛けて駆け出す雁四郎。が、気付いた男は素早く逃げ出しました。

「待て!」


 逃げれば追うのが動物の本能というものです。雁四郎はしばらく追ってみたものの、男の逃げ足は早く、とうとう見失ってしまいました。


「何故、あの男が海豚屋に……」


 雁四郎は道を引き返しながら考えました。昨日、主人は見知らぬ男に言い掛かりを付けられたと言っていた、なのに、今、その男が海豚屋から出て来た……剣と書だけを友にして生きて来た雁四郎ですが、それでも行きつく答えはひとつしかありません。


「まさか……」

 猛然と海豚屋に乗り込む雁四郎。戸口を開ければ帳場には番頭と主人が立っています。

「ご主人、先程、男がここから出て行くのを見た。昨日、あなたと揉めていた男だ」


 主人の顔色が一瞬変わりましたが、すぐに元の愛想の良い表情に戻りました。


「御冗談を。そのような男がここから出ていくはずがないではありませぬか。見間違いでございましょう」

「お嬢様とお福殿はどこだ」

「ですから、朝早く立ったと番頭も申したはず」


 あくまでシラを切り続ける主人に、雁四郎の怒りが爆発しました。


「宿の中を改めさせてもらう。文句は言わせぬぞ」


 草鞋を脱ぐ間ももどかしく帳場に上がる雁四郎。番頭は止めようとしましたが、主人に制せられました。


「好きにさせておあげなさい。どうせ見つかりゃしないんだから」


 上がり込んだ雁四郎は部屋から部屋へと見て回りました。


「騙されたのだ。我らを陥れる罠だったのだ。昨日の揉め事も、礼と言って温泉宿に招いたのも、全て最初から仕組まれていたのだ」


 人を信じすぎた、如何に世間慣れしていないからと言って不用心すぎた……雁四郎は悔しさに唇を噛みしめながら探し回りました。押入れも畳の下も天井裏も、探せる場所は全て探しました。


「駄目だ、どこにも居られぬ」


 恵姫もお福も姿だけでなく、ここに泊まったという痕跡すらありませんでした。そして雁四郎はこれ以上の捜索は無駄だと悟りました。上がり込んで探すのを主人が許可したのは、ここに二人は居ないと分かっているからです。

 捜索を諦めた雁四郎は帳場に戻り草鞋を履きました。後ろから主人の声が聞こえます。


「城に訴え出ても無駄でしょうな。何の証拠もないのですからねえ。お役人様も困り果てるだけでございましょう。ははは」


 雁四郎は無言で海豚屋を出ました。もはや二人を探す手段は何も思いつきません。昨日まで屋敷に泊めてくれた親切な家老に頼んでみたら……そんな考えも浮かびました。しかし、それでは遅すぎます。

 雁四郎は自分も城勤めをしているので、下々の訴えが聞き入れられ、実際に対策が取られるまでにどれほどの時がかかるか、よく知っていました。今すぐ、早急に手を打たねば二人は戻っては来ないでしょう。それに恵姫に反感を抱いている島羽城主が、わざわざ恵姫のために動いてくれるとも思えません。

 雁四郎は力なくその場にへたり込みました。これほどの絶望感に襲われたのは生まれて初めてでした。


「お爺爺様、大切なお役目、果たすことは叶いませんでした。雁四郎はかくも無力にございました」


 がっくりと項垂うなだれる雁四郎。草鞋を履いた足が汚れています。その上に桃色の花びらが一枚落ちてきました。見上げると蕾を付けた桜の木でした。咲いたばかりの花が風もないのに散ったのです。それは何かの暗示のように思えました。


「恵姫様、お福殿……」


 雁四郎の目の前に、恵姫とお福の姿が、まるで幻のように浮かび上がりました。その桜のような二人の笑顔が、散り急ぐ花びらのように引き裂かれていきます。雁四郎の心は深い闇に包まれました。


『いっそ、拙者もここで腹を……』


 その時、一羽の雀が舞い降りたかと思うと、その花びらを咥えました。雁四郎が立ち上がると、雀は飛び上り、少し先で地に降ります。そこへ行こうとすると、また飛び上り、少し先で地に降ります。まるで雁四郎をどこかへ連れて行こうとしているかのようです。

 雀の後を追って雁四郎は歩き出しました。それにどんな意味があるのか雁四郎自身にも分かりません。ただ不思議な力が雁四郎を導くのです。そうしてしばらく歩いた後、雀は咥えていた花びらを置いて、ふいっと空高く舞い上がりました。


「何だろう、あれは……」

 花びらを置いた場所に細長いものがあります。拾い上げると簪でした。

「これは……これはお福殿の簪!」

 小桜細工の簪、それは紛れもなく、神宮外宮の門前町でお福に買ってやった簪でした。

「では、先ほどの雀はお福殿が……」


 雁四郎は前を見ました。海です。いつの間にか港に来ていたのです。今にも降り出しそうな灰色の空と灰色の海、その空と海の間に一隻の船が浮かんでいました。


「船……そうか、船か。お福殿、礼を言いますぞ」

 雁四郎は走り出しました。

「ここから間渡矢城まで約五里。我が足ならば一刻もかからずたどり着ける。恵姫様、お福殿、待っていてくだされ、雁四郎はすぐに参りますぞ」


 全力で走る雁四郎にはもう迷いはありませんでした。ただひたすら己の責務を果たす、その使命感だけが雁四郎を突き動かしていたのです。

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