桜始開その三 温泉宿海豚屋
海豚屋は島羽城下から少し北へ行った海沿いにありました。
着いた早々、恵姫は昼飯を平らげ、海で釣りをすると言って釣り竿を借りて浜で遊び、途中、腹が減ったと帰って来て茶菓子を食い、また浜へ遊びに行って、帰ってきたのは日暮れ近くになってからでした。
「いや~、遊んだわ。久しぶりに心行くまで潮風を浴びたわ。実にすがすがしい気分じゃ。のう、雁四郎、お福、そなたたちも楽しかったであろう」
楽しいも何も、お福も雁四郎も浜に座って、恵姫が釣りをしたり、海水に足を浸したり、木陰で昼寝をしたりするのを眺めていただけです。お福はよほど暇だったのか、雀を呼び寄せて遊んでいました。茶菓子の胡麻饅頭を雀にやっていたので、最初から浜で雀と遊ぶつもりだったのでしょう。
「そうやって餌付けをしている姿は、黒姫様とそっくりでございますな。お福殿もやがては鳥と心通い合わせる力を得るのかもしれませぬな」
雁四郎の言葉にお福は首を傾げて笑うばかりでした。
三人が海豚屋に戻ると、主人が和やかな笑顔でお出迎えです。
「皆様、お帰りなさいませ。夕食の前に温泉に入られて、疲れた体を癒してくださいまし。その間に釣った魚は捌いておきますよ」
「うむ、よろしく頼むぞ」
「当宿の湯屋は
「そうか、じっくり楽しませてもらおうぞ」
待ってましたとばかりに手拭い片手に湯屋に向かう恵姫。お福と雁四郎もその後に続きます。
目当ての温泉は建屋の外にありました。囲いはありますが屋根は無く、日が暮れてからは湯面を照らすのは月や星だけで、薄暗い中での湯浴みとなります。
「ほおー、これは生き返る」
雁四郎は湯船の中で手足を伸ばしました。旅の最後にこのような極楽を味わえるのは、恵姫の言葉通り本当に天からの授かりものなのかもしれない……そんなことを思いながら、心地よい湯の中でひと時の安寧を楽しむ雁四郎でした。
「そりゃー!」
大きな掛け声と共に、何かが水に落ちる大きな音。続いて喚き声、ばしゃばしゃという水音。湯の揺らぎが波となってこちらまで押し寄せてきています。雁四郎の安寧は本当にひと時で終わってしまいました。
「こりゃ、お福、何をもじもじしておるのじゃ、早く来ぬか」
聞き覚えのある声がします。湯屋にはそれぞれの出入り口に火皿がひとつあるのみ。また、まだ月が出ていないので周囲はほの暗く、湯船の向こうの人影は薄っすらとしか分かりませんが、声の主が誰なのか、見えなくても分かります。
「おーい、雁四郎、居るかー。居たら返事をせよ」
「ここに居ります。あの、もう少しお静かになさいませ、お嬢様」
一応、町人一行という設定なので恵姫はお嬢様と呼ぶことにしています。それにしてもここまでお転婆だとは思いもしなかった雁四郎でした。
「雁四郎、居るのならこっちに来ぬか。お福の裸が見られるぞ」
「御冗談はおやめください。拙者はもう上がりますぞ」
「おや、若い娘が入っているのか、どれどれ」
一緒に入っていた見知らぬ親爺が仕切り板の方へ歩き出しました。慌てて引き留める雁四郎。
「これ、お嬢様の裸を見ようとは不届きな。それ以上向こうに行ってはならぬ」
同時に別の声も聞こえてきました。
「そうだよ、こっちには若くない娘も居るんだからね。気安く寄ってきたら湯をぶっかけるよ」
「ちっ、年増女も入っているのか。面白くもない」
見知らぬ親爺はすごすごと引き返してきました。いつの時代も熟年の御婦人を敵に回すことほど、恐ろしいことはありません。雁四郎は一安心です。
「ところで、あんた、なんでここに居るのさ。男は仕切り板の向こうって決まっているんだよ」
「な、何を言っておる、わらわのどこがおのこなのじゃ」
「あら、女……ごめんごめん、あんまりペッタンコだったもんで、間違えたよ」
「失礼な、よく見るのじゃ。しっかり膨らんでおろう」
「ちょっと何してるんだよ。そんなに両腕で必死に寄せていたら、本物かどうか分かりゃしないよ」
聞くに堪えない会話です。名残り惜しい気持ちを抑えて、雁四郎は湯から上がりました。
恵姫たちが通された部屋は大部屋で、三人の他にも二組四名の泊り客と相部屋になっていました。夕食はそれらの泊り客と共にいただくことになります。
「おう、思った以上に豪勢ではないか」
恵姫は大喜びです。それもそのはず、恵姫が半日かけて釣り上げた魚が、全て調理されて出されていたからです。それだけでなく酒入りの徳利まで供されていました。それを見た雁四郎は恵姫に釘を刺しました。
「お嬢様、比寿家の家訓をお忘れではないですね。酒は二十才になってから、でございますよ」」
「分かっておる、雁四郎。さあ、食うぞ~、飲むぞ~」
元服や髪上げを済ませば大人として認められ、酒も容認されます。しかし、比寿家では酒を飲むのは二十才になってからというのが古くからのしきたりでした。
『本当に分かっているのだろうか、恵姫様は』
雁四郎の心配をよそに恵姫は大いに食いまくり、飲みまくり、お福と一緒に徳利を持って他の泊り客に酒を勧めています。いつにないはしゃぎっぷりです。
「ここに出ている料理の魚はな、全てわらわが釣ったのじゃぞ。どうじゃ、有難いじゃろう。有難いと思うなら飲め飲め。命令じゃ、全て飲み干せ」
恵姫の余りの醜態に、せっかくの御馳走も喉を通らない雁四郎です。
「よ~し、ここで、わらわの取って置きの隠し芸を披露して進ぜよう~」
大部屋の真ん中で恵姫は仁王立ちになると、その髪がゆっくりと持ち上がり始めました。右手は懐に差し入れられています。
「お嬢様!」
雁四郎は大急ぎで恵姫に飛びかかると、そのまま部屋の外へ連れ出しました。
「な、何をするのじゃあ、雁四郎~」
顔は赤く、言葉もろれつが回らず、いつもの恵姫とは少し様子が違います。雁四郎は恵姫の右手を掴んで持ち上げました。思った通り、螺鈿の鯛が配された印籠を持っています。
「まさか、こんな所でこれを使うつもりだったのですか。姫の力をこんな所で……」
「だ、大丈夫じゃあ。単なる水芸じゃあ。余興じゃ、余興~」
雁四郎はこの印籠がどれだけ大切なものか分かっていました。黒姫の鼠印の小槌同様、姫にとっては力の証しとなるものです。それを水芸に使おうなどと、もはや正気の沙汰とは思えません。気のせいか恵姫からは酒の匂いもします。
「これは拙者が預かります。今の恵、ではなく、お嬢様に持たせるのは幼子に刀を持たせるのと同じです。よろしいですね」
「つまらぬのう~。何やら磯島と話をしているような気分じゃわい、ふん」
雁四郎が印籠を懐に仕舞い、掴んでいた右手を離すと、恵姫はふらふらと大部屋へ戻って行きました。どうやら酒を注ぐ振りをして、一杯引っかけているようです。
「もっとしっかりと監視をしなくては」
雁四郎は気持ちを引き締めて大部屋に戻りました。
しかし、時が経つにつれ、雁四郎は奇妙な眠気に襲われ始めました。疲れているのだろうか、とも思いましたが、体がだるいのではなく頭が痺れるような眠気です。見れば宿泊客のほとんどは食事を終え、部屋のあちこちで夜具を引っ被って眠り始めています。お福も眠っています。起きて騒いでいるのは恵姫だけです。
『姫様を監視し続けなくては……眠気に負けるな、雁四郎!』
そう言い聞かせながら雁四郎も眠ってしまいました。
「なんじゃ~、みな寝てしまったのかあ~。夜はこれからじゃと言うのにい~」
恵姫は外宮の土産物屋で買った鯛車を引っ張って遊んでいます。まだまだ元気です。しかし、さしもの恵姫も、行燈の油が尽きて灯が消え、大部屋の中が闇に支配されてしまうと、ようやく大人しくなりました。
こうして大部屋に聞こえるのは寝息と寝返りの音だけになった深夜、部屋の中で二つの影がむくりと起き上がりました。
「ようやく薬が効いたようだね。それにしても喧しい娘だこと」
「それで、娘の塩梅はどんな風だね」
「ああ、一人は相当な器量良しさね。吉原に連れて行っても高値で売れるだろうよ」
「もう一人はどうだ」
「とんでもないハズレさ。どこかの温泉宿の飯盛り女がいいところだね」
小声で会話をする男と女。その時、すっ、と大部屋の障子が開きました。中に入って来たのは三人の男。それは昼間、雁四郎が痛めつけたあの小悪党の男たちでした。
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