桜始開その二 人助け
「さて、少し早いが昼飯にしようではないか。間渡矢城に戻る前に腹ごしらえじゃ」
島羽城から間渡矢城までは島羽街道で約五里の道のり。途中、松平家と比寿家の領地境となる
「あ、はい。では飯屋を探しましょう」
世話になった親切な家老に、今一度礼を言いたかった雁四郎ですが、そんなことより一刻も早く帰城したいと気持ちがはやっていました。
『またお目に掛かることもあるはず。礼はその時に致そう』
雁四郎はそう心に決めると、適当な飯屋を探して三人で島羽の城下町を歩きました。通りは賑やかです。間渡矢城下に比べれば、人の往来も店の数も圧倒的に上回っています。
「口惜しいが志麻の国の中心はやはり島羽であるな。早く我が物にしたいものじゃ」
物騒なことを言いながら恵姫は平然と歩いています。先ほど表書院で、釣り人処罰の話を聞いた時に見せた動揺は、もう影も形もありません。気になった雁四郎は尋ねてみました。
「恵姫様、先ほど乗里様が申しておられた釣り禁止についてですが、どのようにお考えですか」
「ああ、あれか。今まで通りわらわは釣りに励むぞ。気にするようなことではない」
「罰せられるようなことはないのでしょうか」
「ないな。生類憐みの令は命を尊ぶべしというお触れなのじゃ。命を弄び、慰みものにし、軽んじる、禁じられているのはそのような行いじゃ。釣った魚を食いもせず投げ捨てたり、犬猫に与えたりする、そのような事をしてはならぬと言っておるのじゃ。逆に、命を尊び武の心を持って魚と正々堂々と戦い、相手が負ければ骨の髄まで食って供養する、そのような精神で命を扱うのなら釣りも立派な武道となる。罰せられるはずがなかろう」
世の中、そうは甘くないだろうと雁四郎は思いました。しかし、ここまでの覚悟があるのなら、たとえ罰せられたとしてもそれは恵姫にとっては本望なのでしょう。これ以上自分が何か言う必要はない……雁四郎はこの話題はこれで終わりにすることにしました。
「ほう、桜か」
恵姫が声を上げました。見れば、木の枝の蕾は今にも開かんとばかりに膨らんでいます。
「城を出てかれこれ十六日。もう桜が咲く頃となりましたか。旅をしていると時は早く過ぎていくものでございますな」
「うむ。早く帰って花見の準備をせねばな」
恵姫の中にもようやく望郷の想いが宿り始めたようです。ほっと一安心の雁四郎でした。
「きゃー!」
突然、女の悲鳴が聞こえてきました。見れば、柄の悪い男が三人、年増の女と初老の男を囲んでなにやら言い合っています。初老の男は道に倒れているので、きっと突き倒されでもしたのでしょう。
「やれやれ、城主が間抜けであると城下も乱れるものじゃな。行くぞ」
恵姫はさっさと通り過ぎようとしています。思わず雁四郎が止めました。
「お待ちください、このまま見て見ぬ振りはできませぬ」
「雁四郎、余計な事に首を突っ込んでも腹が減るだけじゃ。早く昼飯を食って間渡矢に帰ろうぞ」
「助ければ礼を貰えるかもしれませぬぞ」
「うむ、人助けは大事じゃな。雁四郎、少し懲らしめてあげなさい」
礼と聞いた途端に恵姫の態度が変わりました。見事なまでの手の平返し、雁四郎もようやく恵姫の扱い方が分かってきたようです。
「そうじゃ、これを持って行け。お主の腰の物は使うでないぞ」
恵姫から差し出された竹光を受け取った雁四郎は、倒れている初老の男に手を差し伸べました。
「大丈夫でござるか」
「やいやい、なんだてめえは。邪魔立てすると容赦しねえぞ」
絵に描いたような小悪党の脅し文句です。雁四郎は竹光を構えると穏やかな声で言いました。
「事の経緯は存ぜぬが、このような往来の真ん中で揉め事を起こすのは、見苦しいだけでござろう。ここは一旦退かれては如何かな」
「うるせえ、やっちまえ」
これもまた絵に描いたような小悪党の無謀な行動です。常日頃から武道の鍛錬に余念がない雁四郎は余裕しゃくしゃくです。突っ込んできた一人目の頭を叩き、殴りかかってきた二人目の拳骨をかわして背中を小突き、足に組み付こうとした三人目を飛び上がってかわして踏みつけました。
「いいぞ、雁四郎。もっと痛めつけてやるのじゃ」
恵姫はすっかり熱狂しています。もう人助けはどうでもよくなっているようです。
「この野郎、こうなったら……」
男のうちの一人が懐から
「くらえ!」
腹目掛けて突撃してくる刃物男。雁四郎は軽くかわして反転すると、男がこちらを向いた瞬間、竹光で男の手を叩いて匕首を打ち落としました。
「くそ、覚えていろよ」
これまた絵に描いたような小悪党の捨て台詞。三人の男はふらつく足取りで逃げて行きました。
「妙だな」
呆気なさすぎる、雁四郎はそう感じました。突っ込みも殴りかかりも組み付きも、まったく覇気が感じられなかったのです。しかも刃物を握れば多少の殺気を帯びるはずなのに、あの男にはそれさえもありませんでした。
『所詮、町中で暴れる小悪党はこの程度のものなのだろうか……』
余りにも不甲斐ない小悪党たちに対して、微かな幻滅さえ感じる雁四郎でした。
「ありがとうございます。おかげで助かりました。見知らぬ男たちにいきなり言い掛かりを吹っ掛けられて、難儀しておったのです」
そう言って、初老の男が頭をさげてきました。雁四郎は恵姫に竹光を返すと、
「当たり前のことをしたまでです。それでは御免」
と言って、歩き出そうとします。当然のように声が掛かりました。
「お待ちください、お礼をしたいのですが」
「待て、雁四郎、まだ礼を貰っておらぬ」
二方向から同じような台詞が聞こえてきました。困った顔で天を仰いだ雁四郎は、取り敢えず恵姫に言いました。
「これくらいのことで礼を貰ってどうします。それよりもさっさと昼飯を済ませて帰りましょう」
「これくらいとはなんじゃ。相手は刃物を持っておったのじゃぞ。我らは命の恩人じゃ」
どうやら礼を貰うまでは、てこでも動きそうにない恵姫です。そこへ二人の会話を聞いていた初老の男が口を挟んできました。
「失礼ですが、昼の食事がまだお済みでない御様子。お礼の代わりと申しては何ですが、よろしければ御馳走させていただきけませんか」
それには及びませんと雁四郎が言う前に、恵姫が返事をしました。
「うむ、良き心掛けじゃ。さっそく馳走になるとしよう」
「お受けいただき恐悦至極に存じます。手前どもは小浜にて
「なに、温泉とな。行く。すぐに行く。行って食って湯に浸かって泊まるぞ」
「め、恵姫様!」
雁四郎は自分の立場を忘れて恵姫の両肩を掴み、顔を近付け、早口でまくしたてました。
「何を言っておられるのです。我らは今日、間渡矢に戻るのですぞ。昼食だけならまだしも、宿に泊まるなど許されるはずがありません」
「落ち着け、雁四郎、聞いておったじゃろう、温泉じゃぞ、湯に浸かれるのじゃぞ。しかも金は要らぬときた。これは天の御恵みである。有難く受け取っておくのが礼儀というものじゃ。お主とて温い湯に浸かれることなど滅多にないのであろう」
間渡矢城にも雁四郎の屋敷にも風呂はありますが、それは湯の蒸気で汗を流し体を拭くだけのものです。奥御殿でさえ湯殿に湯を張ってそれに浸かるような日は数えるほどしかありません。水も薪も貴重品ですから当然のことなのです。ですから、温泉の湯の中で体をのびのびと伸ばせることは、美味い物を食うのと同じくらい有難い事なのでした。
「そ、それはその通りでございますが……」
口ごもる雁四郎。温泉への誘惑は堅物の雁四郎の心さえも虜にしてしまうほど大きいようです。それでも妙な胸騒ぎを感じる雁四郎は恵姫の耳元にそっと囁きました。
「恵姫様、用心のために御身分は隠していただけませぬか。我らは間渡矢の魚問屋の一行で、伊瀬参りから帰る途中、島羽に寄ったということにしていただきたいのですが」
「ふむ、お芝居か。わかったぞ。それも愉快でよいのう」
快諾する恵姫。既に心ここにあらずといった感じです。
「決まりましたね、ではさっそく参りましょう」
恐らく女房なのでしょう、連れの女がそう言いました。
愛想の良い海豚屋の主人と並んで歩く浮かれ顔の恵姫とお福。二人ともすっかり湯治客気分のようです。
「何事もなければよいのだが……」
心配顔で付いて行く気苦労だらけの雁四郎ではありました。
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