第十一話 さくら はじめてひらく
桜始開その一 消えた干し鮑
城主の登場に雁四郎とお福は平伏したままの姿勢を崩しません。一方恵姫は頭も下げず、いきなり話し掛けました。
「久しぶりじゃな、
「ひ、姫様!」
雁四郎は自分の耳を疑いました。城主の名を呼び捨てにするなど、あってはならぬこと。恵姫の物言いはあまりにもぞんざい過ぎます。これでは、数日前に雁四郎が門番に対して行った名乗りの方がよほど丁寧です。
「姫様、お控えなさいませ。当家よりも遥かに格の高い松平様なのですぞ」
小声で諌める雁四郎。平気な顔の恵姫。そして当の島羽城城主、松平乗里も平然としています。
「相変わらずの口の悪さだね。恵姫」
えっ、と雁四郎は思いました。妙に声が若いのです。考えてみれば雁四郎は島羽城主についてほとんど聞かされていませんでした。数年前に家督を継いで肥前から転封された、その程度の知識しかないのです。
「別に気を使う必要はないぞ、雁四郎。乗里は我らより年下ぞ」
恵姫に言われて上段の間に視線を向ければ、そこに座っているのは十を越えたばかりの男児でした。雁四郎はまたも驚きましたが、とにかく自分の役目を果たすことが先決です。持参した風呂敷包みを解いて、献上の品である干し鮑の包みを取り出し、厳左の書いた添え状と共に前に押し出しました。
「先ほどは我が城主名代恵姫が大変失礼を致しました。こちらは間渡矢城より持参しました献上品にございますれば、何卒お納めくださいませ」
「ああ、ありがと。間渡矢の鮑って大好きなんだよね。ちょっと、君、こっちに持ってきて」
かなり軽い感じの殿様です。年が若いので無理もないでしょう。お付きの者が鮑の包みと添え状を乗里に渡すと、添え状を放り出してさっそく包みを開けています。なんとなく恵姫に似ているなあと雁四郎は感じました。
「あれ、いつも末広がりの八つ入っているのに、今回は七つしかない」
「えっ、そんなはずは……」
そんなはずはない、と雁四郎は思いました。なぜなら雁四郎自身が用意して荷包みしたからです。家老の厳左の指示通り、間違いなく八個の干し鮑を包んだはずなのです。
『ま、まさか……』
雁四郎は隣に座る恵姫を睨み付けました。視線を合わそうとしません。横を向いてふんふんと鼻歌を唄っています。雁四郎は湧き上がる怒りを抑えつつ、乗里に言いました。
「さ、昨年より続く不漁により、心苦しくもひとつ減らし、此度は七つとなりました。されど春の七草、秋の七草と言われるように七もまた縁起の良い数と言えましょう」
「いやいや、初七日の七じゃからな。あまり縁起はよくないじゃろ、雁四郎よ」
「うぐっ……」
雁四郎渾身の釈明も恵姫の横やりで台無しです。まるで背後から味方に銃で撃たれているようなものです。
「まあ、いいや。不作不漁はお互い様だからね。無理することはないよ」
「その通りじゃ。鮑のような高級品ではなく、腰に貼る薬でも持ってきてやればよかったのう。その年で腰痛持ちとは、哀れにもほどがあるわい」
恵姫は完全に喧嘩腰です。こうなっては雁四郎も見守るしかありません。
「ふん、あんなの嘘に決まっているだろ。会いたくないから適当な理由を付けて追い返そうとしただけさ」
「ほう、それは聞き捨てならんのう。せっかく会いに来た城主名代を追い返そうとは、もしや間渡矢城と戦でも始めるつもりか」
「あのね、君、立場が分かってないでしょ。こちらは五万石、そっちは一万石、勝てるわけないじゃない。いくら一国一城が認められているからって言ってもさ、あんな廃城に無理して城門を再建して住むなんて、身分不相応も甚だしいんだよ」
「神器を与えられた姫が城に居れば、おのずと城主格大名になる習わしじゃ。城門を作って何が悪い。それにな、戦になればこんな城、わらわ一人で落としてみせるわい」
「そうかい。まあ、別にどうでもいいんだ、こんな城。どうせまた転封で別の領地へ行くんだからね。この乗里様が数万石の地方大名風情で終わるはずがないだろ。最後には将軍様直属の老中にまで上り詰めてやるつもりさ」
「ああ、ああ、なんと情けない城主様じゃ。これでは領民が浮かばれぬ。やはりこの志麻の国はわらわが統一せねばならぬようじゃな」
「好きにしなよ。別の国に行ってしまえば、もう関係ないからね」
『こ、これが志麻の国を治める二人の領主の会話、なのか……』
雁四郎は暗澹たる気分になってきました。正確には恵姫はあくまで城主名代で領主ではないのですが、それでも民の上に立つ人物であることに変わりはありません。
『いや、なればこそ我らが恵姫様を支えて行かねばならぬのだ。それこそが忠臣たる拙者の役目』
どこまでも生真面目な雁四郎です。
「あ~あ、君とはいつも話が合わないね、恵姫。どうして参勤交代で江戸に行っている時に来ないんだよ。そうすれば君の相手は城代がしてくれたのに」
「此度は斎主様の命令でな。お主が城に居ると知ってはいたが、やむを得ず伊瀬に来たのじゃ。伊瀬に来たら島羽に寄れという間渡矢の習わしも、そろそろ見直さねばいかんな。さて、用も済んだし帰るとするか」
恵姫は立ち上がり、さっさと歩きだしました。慌てて後を追う雁四郎とお福。
「待ちなよ、恵姫。いいことを教えてやる。生類憐みの令って知っているよね」
挑発するような乗里の物言いにむっとした恵姫は、立ったままで返答しました。
「綱吉公の出されたお触れであろう、それくらい知っておるわ」
「昨年、江戸に居た時に聞いたんだけど、釣りをしていた侍が処罰されたらしいよ」
「な、なんじゃと!」
表書院に恵姫の驚愕の叫び声が響き渡りました。釣り命の恵姫にとっては看過できぬ話です。
「お触れが禁じているのは生きた魚の売買であろう。何故釣りを咎めるのじゃ」
「さあね。それはお役人様に訊かなきゃ分からないよ。そもそもお触れは何度も繰り返し出されて、その度に新たな条文が追加されているから、とうとう釣りも取り締まりの対象になったってことじゃないかな」
「う、ぐ、有り得ぬ。魚釣りを禁じるなど……」
「別に信じたくなければ信じなくてもいいさ。でも気を付けた方がいいんじゃないかな。お姫様が魚を捕ろうとしていて、逆に捕らえられた、なんてことになったら、家臣も恥ずかしくて表を歩けなくなるからね。ははは」
「……雁四郎、お福、行くぞ」
乗里の笑いを背に浴びて、恵姫は表書院を後にしました。二の丸を抜け、三の丸を抜け、城門をくぐって橋を渡り、城下の町を突き進みます。その間、一言も喋ろうとしません。無言で歩き続けています。そんな恵姫の姿に雁四郎は心が痛みました。
『さすがの恵姫様も、相当堪えておいでのようだ。無理もない。恵姫様から釣りを取り上げたら、一日中畳の上でゴロゴロするだけの丸太棒になってしまわれるのだから』
かなり失礼な例え話です。下手に口に出せば恵姫の激昂は間違いないでしょう。
『よし、ここは元気づけて差し上げるのが家臣としての務め。何か美味い物でも食べる事にしよう。用は全て済んだことだし、少しは路銀を無駄遣いしても……』
と、ここまで雁四郎が考えたところで、ようやく恵姫が口を開きました。
「ふう、やっと食い終わったわい。間渡矢の干し鮑は絶品であるのう」
雁四郎は立ち止まりました。考えてもみなかった恵姫の言葉に、心だけでなく足まで凍り付いてしまったのです。恵姫の口元に視線を向ければ、よだれの跡が見て取れます。
「め、恵姫様、やはり干し鮑は姫様が……」
「ああ、わらわが一つ失敬したのじゃ。あんな奴に食わせるのは惜しかろう。懐に忍ばせておったのじゃが、我慢できずに歩きながら食ってしまったわい」
「そ、それでは一言も口を利かなかったのは……」
雁四郎はその続きを言うことができませんでした。そして、自分はまだまだ恵姫には甘すぎる、もっと厳しく接しなくてはと、しみじみ思ったのでした。
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