第八話 もも はじめてさく

桃始笑その一 伊瀬からの書状

 その日の間渡矢まとや城奥御殿は、早朝からてんやわんやの大騒動でした。


「これ、そこの荷はもう一度改め直しなさい。お福、じっとして、そうそう動かずに我慢するのですよ。昼のおむすびは四人分ですが少し多めに。吸筒すいづつは二本でいいのです。おや、姫様が居ない。ああ、もうどこへ行かれたのですか。まだ途中だと言うのに」


 大騒動と言っても忙しいのは磯島だけです。他の女中たちも忙しいには忙しいのですが、磯島のように奥の責任を負っているわけではないので気楽なものです。


「う~む、よき日和じゃ」


 奥御殿の喧騒をよそに、中庭の築山の上に立つ恵姫は、腕組みをして早朝の青空を眺めていました。雲はありますがまずまずのお天気。時折吹く風も春の暖かさを感じます。


「旅立ちには絶好の日となったのう」


 そうです、恵姫はこれから旅に出るのです。


 * * *


 事の起こりは二日前、中庭の池のほとりで恵姫が鯉を眺めていた時でした。その日はちょうど魚禁止の罰が解ける日でした。


「うう、今日じゃ、今日を乗り切れば明日から魚は食い放題、浜にも行き放題、耐えよ、耐えるのじゃ、わらわ」


 と、最後の禁断症状に耐えながらも、無意識のうちに池に来て、鯉を眺めてしまう恵姫。


『食おう、やはりこいつらを食うしかない。はっ、駄目じゃ、食えば厳左に立ちどころに知られ、わらわは厳罰。うう、しかし一匹くらいなら分からぬのではないか、駄目じゃ名を付けているのじゃぞ、くく、そうじゃ猫じゃ、猫が盗っていったことにすればいいのじゃ、いや、獣といえど、無実の者に罪をなすり付けるわけにはいかぬ』


 と、堂々巡りの思考をしていた恵姫の耳に、池端に居る時は必ずやって来る、お馴染みの声が聞こえてきました。


「おお、これは恵姫様。こんな所で何をしておられる」


 厳左です。まるで恵姫が池の鯉を狙っていることをいち早く察知したかのような、神出鬼没的出現でした。


「お、おう、厳左ではないか。どうしたのじゃ。既に下城の時は過ぎておろう。中庭に用でもあるのか」

「鯉に餌をやろうと思ってな。ぬくくなって動きが良くなれば腹も減ろう」

「そ、そうか。それは殊勝な心掛けじゃな」


 三日前と全く同じ会話を繰り返す恵姫と厳左。更にここで厳左が紙袋から麩を取り出し千切って池に投げ入れれば、この後も同じ会話が続いていくことは疑いなかったのですが、今日の厳左は紙袋を持ってはいませんでした。

 いつまで経っても餌をやる気配がないので、恵姫は尋ねました。


「どうした、厳左。早く餌をやらぬか」


 厳左は小気味よい笑みを浮かべると、懐に手を入れました。


「おやおや、餌の代わりにこんなものを持ってきてしまったようだ」


 厳左が懐から取り出したのは包み状でした。表には「志麻国間渡矢城比寿家恵姫様へ」とあります。


「これは……書状か」

「左様。先程、伊瀬より使者が参った。それを姫様にと」

「伊瀬、では神宮の斎主様か」


 恵姫は包み状を受け取ると、開いて読み始めました。

 氷室の異変に気付いたのは大晦日でした。本来ならばすぐに神宮に知らせるべきなのでしょうが、目出度い正月に悪い知らせを届けるのは如何なものかと、一旦、見送っていたのでした。

 氷室の件について厳左が伊瀬の神宮に書状を送ったのは、小正月明けの一月十六日。それから二十日ほど経ってようやく返事が来たのでした。

 恵姫は読み終わると書状を厳左に渡しました。


「読めと、仰せか」


 恵姫は黙って頷きました。厳左は書状に目を通します。池端に立っている二人に、春を感じさせる暖かい風が吹き付けます。しばらくして厳左は口を開きました。


「なるほど。これはやはり何事か起こっていると考えねばなるまいな」


 読み終わった厳左は書状を包み直し、恵姫に渡しました。


「そのようじゃ。斎主様自ら伝えたい事があり、聞きたい事があると書かれておる。このような事は初めてじゃわい。しかも黒まで連れて来いとはのう」


 恵姫は包み紙を懐に仕舞いながら、少し気が重くなりました。伝えたい事も聞きたい事も、自分を喜ばせてくれる内容には思えなかったからです。


「斎主様がお呼びとあらば、行かざるを得ませんな。いつお立ちになられる」

「そうじゃなあ、早い方がいいじゃろう。今から出発じゃ」

「今から! それはいくら何でも急すぎますぞ」


 慌てる厳左を見て、重くなっていた恵姫の気分は少し軽くなりました。もちろん冗談で言ったのです。


「ははは、本気にするな厳左。旅立ちについては磯島と相談せねばならんしな」


 こうして恵姫は久しぶりに伊瀬の神宮へと旅立つことになったのです。磯島は準備にはどうしても丸一日欲しい、また庄屋も黒姫を旅立たせるのに一日猶予が欲しいとのことだったので、書状が届いた二日後に出発となりました。


「それで、此度は誰が供をしてくれるのじゃ」


 間渡矢城から神宮までは磯辺街道を北上して約六里の道のり。歩いてもほぼ半日でたどり着ける距離です。さりとて女二人旅ではいささか物騒。供はどうしても必要となります。磯島が首を傾げながら答えました。


「確か、前回の伊瀬行きには雁四郎様の父上様が供をされたと記憶しております」


 恵姫が神宮に行くのは初めてではありませんでした。力を持っている姫は数年に一度、必ず神宮に行く事になっているからです。


「雁四郎の父は無理だな。参勤交代の殿に従って、江戸勤めの最中だ」

「そうか。ならば黒と二人で参るとするか」

「如何に常人に無き力を持つ姫であろうと、供も付けずに旅立たせるわけには参らぬ。此度は雁四郎に供をさせることに致そう」


 これには恵姫も不満はありませんでした。雁四郎は腕は立つのに気が大人しく、加えて恵姫の命令には決して逆らうことなく服従するからです。


『雁四郎ならばわらわの思うままに動かせる。この旅は存分に楽しませてもらおうぞ』


 恵姫が悪い顔をしてこんなことを考えていると、磯島が予想外の提案をしてきました。


「雁四郎様だけで少し心許ないと思われます。お福にも供をさせましょう」

「お福じゃと。いや、お福では供の意味が無かろう。かえって足手まといになるのではないか」

「いいえ、お福は行かせます。姫様の我儘を止められるのは、あの子しかおりませぬから。姫様のやらかしそうな事を全て教え、必ずお止めするようにとよく言い聞かせておきます」


『磯島め、わらわが存分に楽しもうと思っておるのを早々に見抜いたか。まあいい。お福ならば雁四郎同様なんとでもなる』


「姫様、島羽とばの松平様への挨拶もお忘れなく」


 厳左が嫌なことを思い出させてくれました。志麻の国は二家で統治をしています。間渡矢城の比寿家と島羽城の松平家です。伊瀬の神宮に参った時には、必ず島羽城に寄るのが慣例になっていました。


「わかっておる。気は進まぬが行かねばなるまいな」


 恵姫は島羽の城主があまり好きではありませんでした。威張っているからです。比寿家一万石に対して松平家は五万石ですから、威張るのは当然なのでした。また、向こうも恵姫をさほど気に入ってはいませんでした。弱小大名の娘のくせに態度がでかいからです。

 さりとて窮屈な城内の生活と磯島の小言を離れ、思う存分に自由を満喫できるのです。これくらいの役目ならばなんということもありません。


『十日間も魚を我慢したご褒美じゃな。うむ、よくやった、偉いぞわらわ』


と、自画自賛の恵姫ではありました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る