蟄虫啓戸その五 厳左の夕食


「さて、そろそろ夕食に致そうか」


 恵姫はまだ「船」とか「魚」とか喋っていますが、厳左は無視して手を叩きました。


「誰かある。夕食の膳をここへ」


 しばらくして女中が膳を運んできました。その頃には辺りも随分暗くなっていたので、ついでに置行燈に灯をともして行きました。


「お、おお、これは!」


 膳を見た恵姫は驚きの声を上げました。飯を盛った椀と香の物、これはもう見慣れています。見慣れていないものが二つありました。栄螺さざえのつぼ焼きが五つ。そして浅蜊あさりがたっぷり入った潮汁です。恵姫は汁の椀を手に取って顔に近付けました。忘れていた礒の香りが鼻をくすぐります。よだれが出てきて止まりません。


「姫様、いかがかな」


 厳左がしてやったりという顔してこちらを見ています。恵姫は椀を置きました。


「嬉しい。途轍もなく嬉しい。しかし厳左よ、いいのか。禁が解けるまでまだ三日もあるのじゃぞ。今、食うわけにはいかぬじゃろう」

「姫様。禁は魚だけ。貝を食ってはならぬ、とは言ってはおらぬ」

「し、しかし、磯島は、貝はおろか若布も海苔も食わせてはくれなんだ。水の中のものは一切食うてはならぬと言っておった」

「磯島殿がわしに気を遣ったのであろうな。海や川のものを与えて姫様を甘やかしていると思われたくなかった、そういうことであろう」

「で、では、本当に食ってもいいのだな」

「無論」


 恵姫は再び椀を持ちました。この時をどれほど待ち望んだことか。震える唇を椀の縁に近付けました。が、その時、恵姫は気付いたのです。自分を見詰めている四人の膳が自分のそれとは違うことに。四人の膳の上にあるのは飯と汁と香の物、それだけでした。汁も潮汁ではなく実のないすまし汁、飯は米ではなく麦飯です。恵姫は再び椀を置きました。


「いかがした、姫様」

「食えぬよ。わらわの膳だけそなたたちとは違うではないか。そなたたちが食うべき栄螺、味わうべき浅蜊、それらを全てこの膳に乗せたのであろう。わらわ一人だけに贅沢な飯を出されても、食えるわけがなかろうが」


 ようやく分かったのでした。自分がいかに贅沢をしていたか。昨今の不作と不漁、領国の民が口にするものは、この膳よりも遥かに貧しいはずです。そして俸禄を半分に減らされた厳左の精一杯が、恵姫の前にのみ置かれたこの膳なのでした。

 肩を震わせて俯いたままの恵姫に、庄屋が穏やかな声で言いました。


「よいのですよ、恵姫様。お召し上がりください。確かに美味しいものを食べられれば人は嬉しくなります。けれども、美味しいものを食べて喜んでいる人を見るのは、もっと嬉しいことなのです。さればこそ、姫様は左義長の折に餅を子供たちに分け与えられたのでしょう。我らの幸せは姫様の笑顔を見ること。美味しいものを食べて喜ぶ姫様の姿は、我ら領民の宝です。ですから恵姫様、どうぞお召し上がりください」

「うむ、庄屋殿の申す通り。姫様、何を遠慮されておる」

「そうだよ、めぐちゃん、いつもみたいに口に頬張ったまま『うまいぞ!』って言ってよ」

「恵姫様、潮汁の浅蜊はこの雁四郎が採ったものなれば、味の方は保証いたしますぞ」


 恵姫に向けられた四人の笑顔と暖かい言葉は、これまで魚への渇望に苦しめられていた恵姫の心を優しく癒していくようでした。迷いは吹っ切れました。恵姫は再び椀を手に取ると、口に付けてぐいっと傾けました。


「うまいぞ!」


 歓声と拍手。それから恵姫は牛飲馬食の言葉そのままに、目の前の膳を平らげました。


「ふう~、食った食った。わらわは満足じゃ」

「食後には、これをどうぞ」


 黒姫は包みの中から狐色に焼けた菓子を取り出しました。二口で食べられそうなほど小さいその菓子は魚の形をしています。


「おお、これは……鯛、鯛じゃ。そうであろう、黒」

「は~い、鯛です。本物の魚が駄目ならお菓子の魚はいいですかって厳左さんに訊いたら、いいって言われたから作ったんだよ。麦の粉を魚の形にして焼いて、中には味噌餡を入れてみました。沢山作ったから皆さんもどうぞ」


 恵姫は菓子を手に取りました。鯛と言うには余りにもお粗末な形。しかし、それは恵姫にとっては紛れもなく鯛です。自分を気遣ってくれる黒姫の心が形になって表れたのがこの菓子なのです。


「黒、そなたの友情、有難く受け取るぞ。はぐはぐ、美味い美味い」

「ほほう、これはなかなかの珍味」

「さすが、料理上手の黒姫様!」

「後は、婿さえ来ていただければ何の心配もないのですが……」


 黒姫の菓子の人気は上々のようです。そしてこれがその後の日本を席巻する鯛焼きの元祖になるとは、この時の黒姫は全く気付いていないのでした。

 こうして厳左の屋敷で迎える二月最初の宵は、五人の明るい笑い声とともに深まっていきました。始まってから一時も経った頃、庄屋が残念そうに切り出しました。


「明日も早いゆえ、そろそろお暇いたします。厳左様、恵姫様、今宵は楽しい時を与えていただきありがとうございました」

「うむ、今夜は新月、気を付けて帰れよ。雁四郎、家まで送って差し上げよ」

「めぐちゃ~ん、またね」


 こうして庄屋と黒姫は雁四郎と共に、厳左の屋敷を後にしました。恵姫も帰ろうと立ち上がると、厳左が引き留めました。


「姫様、夜の山道は危のうござる。今夜はここに泊まられるがよい」

「いや、しかし、泊まるとは言ってこなんだでのう。帰らねば磯島が心配するであろう」

「磯島殿は泊まることを知っておいでじゃ。案ずることはない。泊まっていかれよ」


 それはおかしいと恵姫は思いました。厳左の夕食の誘いは突然でした。磯島はそれすら知らなかったはずです。ここに泊まることを知っているはずがありません。もし、知っているとすれば……


「もしや、今日の夕飯は……」


 怪しむような目付きの恵姫を見て、厳左は苦笑いをしました。


「これはいかん、余計なことを口走ってしまったようだ。御察しの通り、今夜のことは磯島殿の頼みによるもの」

「磯島が……、何故磯島がそんな頼みをするのじゃ」


 厳左は深くため息をついて話し始めました。


「磯島殿も辛かったのであろうな。姫様は気付いてはおらなんだろう。毎日、毎日、食事の度に嫌な顔をし、不平を言い、魚を求める姫様の姿が、どれほど磯島殿を苦しめたことか。磯島殿とて姫様に美味い物を食わせ、喜ぶ顔を見たいと切に願っておる。それをしてあげられぬ己を、心より不甲斐ないと思っておったのだろうな」

「それなら磯島自らが食わせてくれればよいではないか。何故厳左に頼まねばならぬのだ」

「前にも申したはず、それが姫様の養育係としての磯島殿のけじめだと。姫様に意見を言えるのは磯島殿ただひとり。その磯島殿がたとえ一瞬でも姫様に甘い顔を見せれば、もう歯止めが効かなくなる。それ故、己の気持ちを押し殺して姫様には厳しく当たっておるのであろう。此度の沙汰で姫様は苦しまれた。だが磯島殿は苦しむ姫様を見て、その何十倍も苦しまれていたはず。少しは優しくしてあげなされ」


 厳左はそれだけ言うと座敷を出て行きました。入れ替わりに女中が来て、夜具の支度をしていきました。

 ひとり残った恵姫はぼんやりと置行燈の光を眺めていました。今日知ったことのなんと多かったことか。今日まで知らなかったことのなんと多かったことか。それはまるで地上に這い出てきて、初めて目にする世界の大きさに驚く小さな虫のようでした。


「これからはどんなに飯が不味くても、美味いと言ってやらねばな」


 そうつぶやいて夜具に包まる恵姫ではありました。


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