桃始笑その二 旅支度
「姫様、築山の上で腕組みなぞして何を突っ立っているのです。お山の大将でもあるまいに」
旅立ちの前に朝日を浴びていい気分になっている恵姫の腕を、磯山が力いっぱい引っ張りました。
「痛いぞ。これ、何をするのじゃ」
「何をするのじゃ、ではありませぬ。いい加減にお着替えなさいませ。その格好で旅立たれるおつもりですか」
『せっかく朝日を浴びて気合いを入れていると言うのに、相も変わらず磯島は無粋な奴じゃな』
と、恵姫は思ったのですが、そろそろ着替えて準備をしなくてはならない時刻でもあります。
「分かった、磯島。引っ張らずとも座敷には戻る。ところで昼の握り飯には『あれ』を入れてくれたのじゃろうな」
「入れておりますよ。干し鰹削りに刻み若布を混ぜて握り込んでおります。昼の弁当にこのような贅沢品を使われるのは、これ一度きりにしてくださいませね」
「数年ぶりの旅なのじゃ。弁当も数年に一度しか食えぬようなものを食いたいではないか。十日間魚を辛抱したわらわへの褒美と思えば安いものぞ」
この口の巧さは誰に似たのだろうと、磯島はいつも思うのでした。江戸に居る殿様も、幼い頃に側室として亡くなった恵姫の母も、どちらも無口で静かなお方でした。
『きっと祖母か祖父に似たに違いない。もし生きていらっしゃるのなら一度お目に掛かりたいものだわ』
と、磯島は勝手に想像を膨らませるのでした。
今日は忙しさのせいで余り恵姫にかまっていられない磯島に連れられて座敷に上がった恵姫は、待ち構えていた女中たちにされるがままに、本日の身支度をしてもらいました。一応、姫の身支度です。結構時間が掛かるのかと思っていましたが、さすがは手慣れた女中たち、あっという間に終わってしまいました。
「おい、なんじゃこれは。これが此度の旅装束か」
支度が整った恵姫は自分の格好を見て、いささか不満に感じました。下は
「磯島、これはわらわが普段、釣りをする時の格好に非常によく似ているのじゃが、気のせいであろうか」
「気のせいではありません。どうせお帰りになる時には泥だらけのボロ雑巾のような有様になっているのですから、いつも浜で遊びまわっている時の装束で行かれればよいのです」
「いや、しかしな、おなごがこのような……」
と、そこまで恵姫が言った時、座敷に誰か入ってきました。お福です。
「まあまあ、思った通りですわね。壺装束がよく似合っておりますねえ、お福」
お福は恥ずかしそうに頬を赤らめました。最初に目につくのは艶やかな梅文様の桃色の
普段は自分の装束などには全く無頓着な恵姫も、少々カチンと来てしまいました。
「すまぬが磯島、ちと説明してくれぬか。何故わらわがこのような、仕官の口を探して諸国を渡り歩く浪人のような格好で、お福が裕福な公家の娘のような格好をしておるのじゃ」
「そうでございますとも。一目で公家の姫と分かりますでしょう。実はこれは私が実家より持参いたしました、若かりし頃の私の身をまとっていた壺装束なのでございますよ。正直に言いますと、この装束は恵姫様に着せたかったのです。ところが姫様は嫌がって見向きもされません。箪笥の奥にしまい込まれ、このまま日の目をみないまま私と共に朽ちていくのかと諦めておりましたが、お福が旅に出ると聞き、試しに着せてみましたところ、これがまたよく似合うのでございます。ついあれも着せ、これも着せ、と夢中になっておりましたら、とうとうこのような立派な姫様が出来上がったと、このような次第でございます」
「磯島、そなた、かなり己の趣味に走っておるだろう。お福は着せ替え人形ではないのだぞ」
ここまで舞い上がっている磯島を見るのは初めてでした。恵姫も少し呆れ顔です。
「良いではありませぬか。お福も喜んでおりますことですし」
「当たり前じゃ。綺麗な着物を身にまとって喜ばぬおなごなど、どこの世に居ると言うのじゃ。いや、それよりもわらわの問いに答えよ、磯島。こんな格好ではお福が姫で、わらわが従者と思われるではないか」
「それでよいのです」
平然と答える磯島に、恵姫はますます機嫌が悪くなります。
「何を言っておる、姫はわらわであるぞ」
「そうです。ですから姫様をお守りするための方策なのです。天下泰平の世と言っても、まだまだ悪人は世間を
「お福は身代わり、というわけか」
磯島は頷きました。後付けの理由のような気がしないでもないですが、筋は通っているので文句は言えません。
「お福、そなたは構わぬのか。身代わりなど危険な役目なのだぞ。本当にいいのか」
お福は満足そうに頷きました。どうやらお福自身もこの装束が気に入っているようです。女中見習いと言っても、お福も年頃の若い娘。このような出で立ちが気に入らぬはずがありません。それに恵姫自身もお福の愛らしい壺装束には心惹かれるものがありました。磯島が浮かれるのも無理はないでしょう。
「まあよい。今更、着替えろと言っても仕方がないからのう。この装束で行くとしよう」
身支度が整えば、あとは手荷物です。数着の着替えと、島羽城へ持参する手土産、昼に食べる握り飯、手拭い、矢立など。これらを風呂敷に包んで二人の背に負わせます。さらに恵姫の腰には脇差に見せ掛けた竹光、頭に菅笠。お福には杖を持たせました。
これで準備万端整いました。お福は
「おう、厳左、お見送りご苦労であるぞ」
厳左は会釈をすると、最後の釘を刺しておこうとばかりに言いました。
「姫様、分かっておると思うのだが、道草は最低限になされるようにな。前回は直ぐ帰ると言って、帰って来たのが二十日後であったと記憶しておる。此度はそのようなことのなきようお願いいたす。いくら姫札があるとは言っても、路銀には限りがあるのでな。まあ、当家の苦しい懐事情を知っておる姫様ならば、羽目を外すようなことはないと思うが」
「心配性じゃのう、厳左は。大丈夫、わらわはこれでも倹約家であるからな」
と、口では答える恵姫の頭の中は、
『ふっ、此度は一月ほど遊びまわってやろうぞ。十日間も魚と浜遊びを我慢させられたのじゃ。それくらいさせてもらわねば、割りが合わんわい』
などと、勘定方が聞いたら腰を抜かして立てなくなるような悪事を企てていたのでした。
恵姫は手にした菅笠をかぶると、威勢のいい声を張り上げました。
「では出立じゃ。お福、参るぞ!」
「姫様、お気を付けて!」
磯島と女中たちに見送られて、恵姫とお福は厳左と共に城門に向かいました。既に開け放たれている城門の前に立った厳左は、恵姫に顔を寄せ、小声で忠告しました。
「最近、記伊の動きが活発になっておると聞く。姫様、くれぐれもご油断召されるな」
「うむ、分かっておるよ。厳左も城のこと、よろしく頼んだぞ」
城門を出て山道を下っていく二人の背中を見守る厳左。途中、こちらを振り向いて手を振る恵姫に手を振り返しながら、厳左は妙な胸騒ぎを感じていました。
「無事に帰ってくれば、それに越したことはないのだが……」
厳左の心配は城門の中に置き去りにして、恵姫とお福は先を急ぎます。久しぶりの旅、初めての旅、それぞれの想いを胸に抱いて山道を歩く二人の顔は、咲き始めた桃の花のように明るく輝いていました。
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