草木萌動その五 与太郎開眼
「ほ、本物……まさか、そんな」
与太郎が腰を抜かしています。頬を流れる血にすら気付いていないようです。
「誰か、与太郎の傷を見てやれ」
「わ、私が手当て致しましょう」
恵姫の言葉に答えて磯島が立ち上がりました。部屋を出て、すぐに戻って来た磯島に血を拭ってもらい、蝦蟇の油を塗りこんでもらっても、与太郎は口を開けてがたがた震えています。
「こんな、こんな事って……」
心の動揺がなかなか収まらない与太郎を、恵姫は呆れた顔で眺めました。
「先ほどの大口はどこへ行ったのじゃ、与太郎。腰など抜かしおって。まさか漏らしているのではあるまいな。また御小用箱を貸してやろうか」
恵姫のからかいも与太郎にはまったく届いていない様子です。目を見開き、口を半開きにしたままで、キョロキョロと大書院を見回す与太郎。この重厚さ、セットとは思えぬ細やかな室内の装飾。そして恵姫、磯島、お福、雁四郎。一人一人の顔、装束、言葉、そう、それは芝居でもなく役者でもなく本物の……与太郎が声をあげました。
「お願いします、外を、この建物の外を見せてください」
「外じゃと。外を見てどうするつもりじゃ」
「お願いです。見れば確信出来るはずです。お願いします」
これまで見たことのない与太郎の真剣な表情です。恵姫は好きにさせてやることにしました。
後ろ手に縛られた与太郎に続き、紐を持った雁四郎と恵姫が廊下に出ました。厳左は廊下の隅で目を閉じて端座していましたが、与太郎が出て来たのを見て恵姫に駆け寄りました。
「姫様、何をするおつもりか」
「まあ、見ておれ厳左。わらわも与太郎が何を考えているのか分からぬのじゃ」
与太郎は廊下の南にある明かり取りの窓に近付きました。格子に顔をくっ付けんばかりにして、深い
「本当に建っている。本物なのか、これは、セットなんかじゃなくて……あ、あれは楠の木。そうだ、見覚えがある。城跡公園の楠の木だ。じゃあ、ここは公園。でも先週の日曜日にはこんな建物、なかった。じゃあやっぱり、僕は、本当に……」
与太郎が窓から離れました。がっくりと膝をつき、すっかり放心状態です。
「おい、与太郎どうした。何か分かったのか」
「分かった。全てが分かった。本当に江戸時代だったんだ。五代将軍、元号は元禄、多分十七世紀の終わり……僕は、タイムスリップ、まさか、こんな事が実際に起こるなんて……」
与太郎は立ち上がると、廊下に居並ぶ人々を見回して話し始めました。
「みんな聞いてくれ。僕はこの時代の人間じゃない。今から三百年後の未来からこの時代にやって来たんだ。この服も僕の言葉も理解出来なくて当たり前だよ。住んでいる時代が違うんだからね。ああ、どうしてもっと早く気が付かなかったんだ、くそ」
「三百年の後の世から、だと」
厳左が疑念に満ちた声で言いました。
「そのような事、あるはずがない。与太郎、出まかせを言うな」
「嘘じゃない。本当なんだ。そうとしか考えられないんだ。もしここが本当に江戸時代なら、僕は間違いなく三百年後の人間なんだ」
「何を証拠にそんな戯言を……」
「いや、待て、厳左」
それまで黙って何かを考えていた恵姫が、二人の間に割って入りました。
「今、思い出したぞ。与太郎の言葉はあながち嘘とは言いきれぬ。知っておろう、江戸には時と場所に関与出来る力を持つ
「力……では、与太郎も力を持っていると、姫様はお考えか」
「それは分からぬ。力を持つのはおなごに限られる。ならばこそ姫と呼ばれるのじゃ。力を持ったおのこなど聞いたことがない」
「ふ~む……」
降って湧いたような与太郎の言葉は、一度に消化するには余りにも重すぎました。恵姫も厳左も、もう少し今の状況を整理し考えたい、そう思いました。
「厳左、吟味はここで一旦打ち切ろう。与太郎も今の己が置かれた立場をようやく理解出来たようじゃ。改めて吟味方に取り調べを行わせれば、これまでとは違う証言も出てこようぞ」
「分かり申した。では、与太郎は座敷牢にて引き続き下調べを行わせよう。あそこなら
「うむ。それでよい」
恵姫と厳左は互いに頷き合うと、与太郎と雁四郎と共に大書院に戻り、改めて上座に着きました。厳左は部屋の中を見回し、居並ぶ家臣たちに告げました。
「此度の吟味はこれにて終了する。尚、与太郎は座敷牢にて改めて吟味を行う。それからお福であるが」
一旦言葉を止めた厳左はチラリと恵姫を見て、それからまた続けました。
「お福は奥御殿預かりとし、仕置き部屋にて監視を続ける。以上である。皆の者、大儀であった」
恵姫はにっこりと笑いました。厳左の気遣いが嬉しかったのです。
「えっ、何、僕、座敷牢ってどういう事。おかしいでしょ。未来人なんだよ。お客様だよ。もっと丁重に扱うべきなんじゃないの」
「つべこべ言わずに歩け。両手の戒めを解いてやっただけでも感謝するのだな」
与太郎は文句を言いながら雁四郎に連れられて行きます。お福と磯島は深々と頭を下げると、玄関に向かう廊下を歩いて行きました。家臣たちも退出し、大書院には厳左と恵姫だけが残りました。
「やれやれ、とんだ一日じゃったのう。結局、午後の釣りにも行けず仕舞じゃ。今日は大物が釣れる予感がしたのにのう」
「それもこれも、最初の与太郎夜這いの件を秘密にされたからだ。これからは隠し事は無きようにお願いしたい」
厳左に釘を刺されて、恵姫は肩をすくめました。厳左は笑うと、自分の右手をさすりながら言いました。
「しかし、姫様は相変わらず容赦がない。近頃、力が弱くなったと聞いておったが、いやいやどうして、厳左の右手はまだ痺れておるぞ。下手をすれば与太郎同様、わしも血を流さねばならぬところであった」
「それもこれもお主が短気だからじゃ、厳左。これからはこの様な事は無きようにお願いしたい」
「これはまた見事な
声をあげて笑う二人。先ほどのわだかまりはすっかり消えたようです。
厳左は会釈をすると大書院を出て行きました。恵姫は畳の上に落ちたままになっていた蓋を手に取り、空の印籠にそれを嵌めました。
「みだりに使ってはならぬと斎主様から言われておったのにのう。与太郎なんぞの為に大切な
手にしているのは黒漆塗りに螺鈿の鯛が配された印籠です。印籠と言ってもそれは形だけ、段は一つもなく、単なる蓋付きの入れ物に過ぎません。恵姫は少し濡れている印籠を手で拭き、丁寧に帯の間に挟みました。
「容赦ないか……うむ、そうじゃな、わらわも感じた。確かに力が戻っておった」
不思議な手ごたえでした。数か月前から使うたびに衰えを感じていた力。それなのに今日、印籠の神海水を使った時にはそんな感覚はなく、むしろ逆に強くなっていると感じられたのです。
「以前ここに遊びに来た黒も、帰り際に言っておったな。数日前に一度だけ力が盛り返した時があったと。何か関係があるのじゃろうか」
恵姫は廊下に出ると与太郎が覗いていた格子窓から外を見ました。中庭に立つ木の枝に小さな芽が萌え出ています。それは暖かい春の訪れを告げる使者です。そして、恵姫の心に萌え出た希望の芽もまた、春の使者のような暖かさを感じさせてくれるのでした。
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