啓蟄
第七話 すごもりむし とをひらく
蟄虫啓戸その一 下された沙汰
「ああ、さかな、たい、さしみ……食いたいのう、食いたいのう……」
明らかに禁断症状でした。恵姫は座敷に仰向けになって天井を眺めながら、浜で遊び、魚たちと戯れる自分を空想していました。
「おお、あれは鯛ではないか、なんとでかい鯛なのじゃ。もしやそなたは鯛の婿
もはや空想というよりも幻覚です。恵姫のこれまでの人生で、これほどまでに魚を欲したのは初めてかもしれません。
「待て、待つのじゃ、尻尾でいいから齧らせるのじゃ。がぶっ、むしゃむしゃ」
「姫様、いい加減になさいませ。それは私の着物の袖でございます」
聞き覚えのある声で我に返る恵姫。半身を起こせば磯島が袖を手拭で拭いていました。どうやら恵姫のよだれでべとべとに濡れてしまったようです。
「はっ、そなたは磯島。おかしいのう、わらわは鯛の婿源八と一緒に海を泳いでいたはず。何故磯島がここにおるのじゃ」
「何を寝ぼけておられるのです。ここは奥御殿です。海ではありません。ああ、もうよだれをお拭きなされ」
磯島は恵姫の口に手拭いを当てると、ゴシゴシと擦りました。
「む、無念じゃ、せっかく尻尾に齧り付いたと言うのに。い、痛いぞ、磯島。もっと優しく拭いてくれ。ああ、何故そなたはいつもいつもわらわの邪魔をするのじゃ。い、いてて」
「あのまま袖を食べ続けてもお腹を壊すだけでございますよ。茶腹も
昼の八つ時に恵姫が部屋に居る時には、お茶を出すことになっています。磯島は八つ時のお茶を持って来たのでした。
「ああ、いつも済まぬな」
恵姫は座り直すとお茶をグビッと飲みました。無論、それくらいのことで魚への欲求が収まるはずもありません。魚を断たれて既に七日が経ちました。魚だけでなく浜への出入りも禁止されています。恵姫は湯呑を置くと忌々し気につぶやきました。
「それもこれも、全ては与太郎のせいじゃ」
そして今日から八日前、与太郎がここに来た日のことを思い出しました。
* * *
与太郎を座敷牢に入れた後、取り調べは吟味方に任せて恵姫たちは奥御殿へ戻っていました。お福は言い付け通りに仕置き部屋に入れ、恵姫と磯島はいつも通り夕食を済ませて、その夜は早めに寝床に就きました。
「姫様、恵姫様」
眠りかけてうとうとし始めた時、誰かが自分を呼ぶ声で恵姫は目を覚ましました。寝入り
「何じゃ、誰じゃ、何事じゃ」
「恵姫様、宵のうちに起こしてしまい、申し訳ありません」
恵姫を起こしたのは控えの間に詰めている女中でした。ただし、その隣には磯島も座っています。
「いいから用件を申せ」
「はい、表より知らせが参りました。与太郎が逃げ出したとのことでございます」
それが恵姫の眠りを覚ましてまで伝えねばならない重要な知らせであることは明らかでした。けれども恵姫の中にはさほど大きな驚きはありませんでした。『やはりな』そう思っただけでした。
「わかった、ご苦労であったな」
「表に行かれなくてもよいのですか」
磯島が尋ねました。磯島自身は更に詳しい話を聞きたいのでしょう。しかし恵姫は首を振りました。
「今行こうが明朝行こうが同じことじゃ。事情を聞いて与太郎が戻って来るわけではないのだからな。それに夜は寝るもの。そなたたちも寝るがよいぞ」
そうしてその夜はそのまま眠ってしまいました。
翌日、朝食を済ませると恵姫と磯島は表御殿に行きました。厳左は既に登城していました。昨夜、与太郎逃亡の報を聞いて、すぐさま屋敷から駆けつけ、そのまま表御殿にとどまっていたのでした。
「まさか、あの座敷牢を破られるとは、迂闊であった」
厳左の顔には疲労の色が滲んでいました。恐らく一睡もしていないのでしょう。表御殿の御居間に座り、二人は厳左から与太郎逃亡の詳細を聞きました。
大書院から座敷牢に移った与太郎には、更に調べが続けられました。しかし、城に忍び込んだ方法も抜け出した方法もその理由も、与太郎は知らない、分からないとしか言いませんでした。やがて日が暮れたので尋問を打ち切り簡素な飯を出して、後は牢番が付きっ切りで与太郎を見張っていました。その牢番の目の前で与太郎は消えたのです。
「それが奇妙なのだ。牢番の話に寄ると、まるで星が落ちるように瞬きする間もなく消えた、のだそうだ」
「星が落ちるように、か……」
これはもはや常人が成し得る
「姫様、やはり、与太郎は力を使っておるのだ。そうとしか考えられぬ」
「いや、それなら与太郎自身がそう言うじゃろう。与太郎は力を持ってはおらぬ。もし力が関与しているのなら、それは与太郎の意志ではなく、別の者の意志じゃ」
「別の者……誰が、何の目的でそのような真似を……」
「分からぬ。それを早急に知りたいものじゃな」
「あやつは、また来るでしょうか」
「力を使っている者の目的が達せられていないのなら、また来るであろうな」
そして、それは二人が期待していることでもありました。与太郎以外の何者かが絡んでいるのなら、その正体を突き止めねばなりません。その為には与太郎の協力が不可欠です。
「少し、見えてきおったな」
眠っていた虫が地上に這い出るように、謎だらけだった与太郎事件の真相が僅かに姿を現した、そんな気がする恵姫でした。
* * *
こうして二回目の与太郎事件は、またも、もやもやとする形で幕を閉じたのですが、その後には恵姫にとって大変な災難が待っていました。この件に対する沙汰が下されたのです。
磯島は一度目の件を表に知らせなかった罰として十日間の茶断ち。
雁四郎は警護を怠った罰として十日間毎日素振り千回。
そして一度ならず二度までも与太郎を隠蔽しようとし、作り話まででっち上げた恵姫には十日間の魚断ちと浜への出入り禁止が言い渡されたのでした。
尚、お福に関しては何の罰も与えられませんでした。与太郎が消えた時、お福は仕置き部屋に閉じ込められていました。脱出の手引きなど出来ようはずがありません。全ては厳左の思い込みに過ぎなかったのです。晴れて無実の身となったお福は、翌朝、仕置き部屋から出されました。厳左はわざわざ奥御殿に出向き、玄関の外から丁重な言葉でお福に詫びました。そうしてようやくお福の顔に笑顔が戻ったのです。
厳左には極めて重い罰が与えられました。大書院での抜刀刃傷沙汰は本来ならばお家断絶、領外追放です。しかし与太郎はあくまで曲者。曲者が屋敷に忍び込んだのなら、その成敗のための抜刀はやむを得ないとの理由で、お家断絶はかろうじて免れ、その代わりに俸禄の五割減俸を自らに科したのです。それは上に立つ者として当然のけじめでした。
この沙汰が下された時、恵姫は大暴れしました。断固としてそんな命令には従えぬと駄々をこね、仕舞いには一番お気に入りの釣り竿と釣り具箱を持って奥御殿を抜け出し、浜へ逃亡しようと企てたのですが、浜に到着する前に山道で発見され、追手の二名に手傷を負わせるも捕らえられ、そのまま城内に連れ戻されて、久しぶりに仕置き部屋に放り込まれたのでした。もし、山道で発見できず浜に到着していたら海水を制する力を使われて、更に多くの負傷者が出ていたことでしょう。
さすがの恵姫も仕置き部屋に放り込まれては手も足も出ません。やむなく沙汰に従うと約束して翌日釈放。その日から魚抜きの生活が始まり、今に至るのでした。
「うっ、うっ、さかな、さかな、お魚さんが恋しいのう」
自業自得とはいえ、ちょっと気の毒な恵姫ではありました。
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